第一章 月下の婚約

01 羊と戯れる令嬢、父からの呼び出しに青ざめる

 ヴィーダ帝国の西端、フォレノワール州は言葉を選ばずに表現するならば「ド田舎」である。

 切り立った断崖からの眺めは寒々しく、訪れる者にも恐怖を抱かせるばかりで、観光地と呼べるほどの名所もない。

 唯一の産業というのが広大な土地を利用しての放牧で、ヤンペルト羊からとれるもこもこの毛で織り上げる織物を買い付けに、商人たちがしばしば訪れる程度だ。

 エリーシャは故郷であるフォレノワールを愛していたが、刺激が少なすぎるのは確かだった。


「もうグルルったら……こんなところに隠れていたのね」


 厩舎の隅ですやすや眠っていた仔羊を抱き上げると首に付けたベルがチリリ、と鳴った。

 

 フォレノワール伯爵邸の裏手にある草原をぽつんとさまよっていたグルルと出会ったのはもう三年ほど前になる。

 飼い主を探したのだが見つからず、どうしたものかとエリーシャたち四人きょうだいの間で話し合った。真っ黒な顔と耳に、銀粉をまとったような真白の毛並みはヤンペルト羊の特徴を有しているのだが、つぶらな瞳は晴天を映し取ったような青――それが珍しいとフォレノワール伯爵の目に留まり、伯爵邸で面倒を見ることになった。


 グルルは初めて会ったときからまったく大きさが変わらない。ぬいぐるみのようにふかふかな毛並みを撫でると、めぇと甘えるように鳴き声を上げる。小さくて愛らしいが、もう成獣なのだろう。

 毛皮用の家畜ではなく、エリーシャの友人として扱われているため使用人たちからこの小さな羊は「グルル様」と呼ばれていた。


「どうしてまた逃げ出したりしたの?」


 ふわふわもこもこの毛皮に顔を埋めて、エリーシャは息を吐いた。

 

 グルルを預けていた羊飼いの青年から「どうしましょうお嬢様っ、グルル様がまた脱走しました!」と涙目で訴えられ、一緒になって必死に草原を探したが陽が沈みかけるまで見つからず、途方に暮れていた。

 いたずらっ子だが、この愛らしい姿でめぇめぇ甘えられると何もかも許してしまいそうになる。


「姉さまー!」


 自分を探すあどけない声を耳にしてグルルに埋めていた顔を上げると、厩舎にたったと軽い足音が響いた。妹のサエラがエリーシャの姿を見つけて駆け寄って来る。


「またグルルと遊んでいたのですか?」


 さらさらの銀髪を肩のところで切りそろえ、瞳の色と同じ深紅のエプロンドレスを着た少女がエリーシャの目の前に立った。腕組みをして、呆れたとばかりに息を吐く仕草は大人っぽいのに幼い容姿とは不釣り合いでつい微笑んでしまう。


 銀髪と赤眼はフォレノワール家の誰もが持つ形質だが、妹のそれはずば抜けて美しかった。羨ましいとは思わないが、家族の中で最も地味な自分の容姿には物足りなさを覚えてしまう。


「ええ、そうなの。だってお友達といるよりもずうっと楽しいんだもの。ね、グルル?」

 

 ほら、とサエラにグルルを近づけると、びくっと後退った。何故だか妹はグルルのことが苦手だ。仲良くしてほしいとは思うけれど無理強いはしないことにしている。


「早く屋敷に帰りましょう、暗くなってしまいます」


 十二歳になるサエラはエリーシャの六つ下、まだ子供だがエリーシャよりもしっかりしている。家庭教師や親族からも優秀だと口をそろえて言われていたが実は甘えん坊なことは母親代わりのエリーシャはよく知っている。


 グルルを抱えているせいで、手を繋げないのが物足りないらしく、ちらちらとエリーシャの左手に目を遣っているのが申し訳ないやら可愛いやらで頬が緩んでしまった。


 伯爵邸の裏口からそっと中に入ろうとしたとき、ドアの向こうで腕組みをして待ち構えていた執事に出くわしてしまった。


「ど、どうしたの……? そんな怖い顔をして」

「お嬢様をお待ちしていたのです。首を長ーくして」


 下ろしてほしいとグルルが腕の中でもぞもぞしていたので、石床の上で放してやった。すりすりとエリーシャの脚にまとわりつきながら、ぴょんぴょん楽しそうに跳ねまわっている。


 す、と目の前に差し出されたのは真白の封筒だった。


「帝都にいらっしゃる旦那様からお手紙です」


 嫌な予感が的中した。


 引きつった笑みを浮かべるエリーシャに執事はペーパーナイフを手渡し開封を促してくる。おそらく内容を知っているのだろうが、険しい表情を崩すことはないので何も読み取れなかった。


「うわ……」


 封筒の中には、たった一言「よろしくね」と書かれた父の手紙と、ごてごてしい金箔の縁取り付の招待状が入っていた。


『夜会のご案内』


 飾り文字に目がちかちかする。

 帝都で開催される夜会への招待状だった。

 主催者はウィンダミア卿夫人――未亡人だが派手好きで、社交界では知らない人がいない女性だ。


 ヴィーダ帝国の貴族たちは、領地の本宅とは別に所有している帝都の別宅において華やかな社交の場を設けるのが通例となっている。茶会や食事会、ダンスパーティーなどがよくあるものだがペットの猫や小鳥を自慢する品評会や、楽器演奏の名手を呼んでの音楽会、劇団員を招いての観劇会などもある。


 どんなものであれ貴重な情報交換の場となるうえ、家と家との結びつきを強める――つまりはより良い結婚相手を見つける場としても活用されていた。


 社交シーズンである初冬に風邪をこじらせたエリーシャは、二人の兄と父を見送り泣く泣くフォレノワール伯爵邸に残留した。というのは建前で――その手の会合にまるで興味がないエリーシャは体調不良だと手紙に書き続け、百華月さんがつ半ばのいままでずるずると今期の社交から逃れてきたのだ。


「い、行きたくな」

「ダメです。行ってください」

「わたし、なんだか喉が痛くて……ごほっげほ、熱っぽいみたい」

「行くと既に旦那様にはお返事をお送りしております」

「そんな勝手にひどいわ! 病気のわたしをあんな地獄に送り込むだなんて」


 わざとらしく咳き込んだエリーシャを執事は冷たくあしらった。


「社交シーズンだというのに仮病で屋敷に引きこもるなど言語道断! お嬢様こそフォレノワール家の務めを果たしてください。エリーシャ様にしか出来ない大事なお役目なのですよ」

「う、うう……」


 お役目。そう言われると抵抗することが難しくなってしまう。


 兄二人は既に帝都にいるというのに、エリーシャだけ羊と戯れながらだらけているとでも父に報告されてしまったのだろうか――まあ、フォレノワール伯爵にとっては領地内の娘のようすを探ることなど容易いので、そろそろあなたも頑張りなさいねと尻を叩くつもりで手紙を送って来たに違いない。


「ね、ねえ、サエラはわたしの味方よねっ?」

「あの……お姉さまと一緒にいたいので、サエラも帝都に行きたいです」

「いけませんよ。サエラ様に社交界はまだ早すぎます、私達と伯爵邸でお留守番をなさってください。もちろん、グルル様もフォレノワールにいてくださいね」

 

 執事が言い聞かせる言葉にすなおに頷いた妹の前で、いやだいやだと駄々を捏ねるわけにはいかない。グルルがエリーシャをなぐさめるように、額を脚にぐりぐり押し付けてくる。


 憂鬱な心地のまま、その晩エリーシャは急すぎる帝都への出立に向けてメイドたちと準備に追われたのだった。

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