49 アナベルの苦悩

「何もかもおまえのせいだ、アナベル!」


 続く罵声は自分が言われているわけでなくとも嫌な気分にさせる。


 ――誰、だろう……知っている人なのかな。


 この中が薄暗いせいで顔がはっきりとは見えない――エリーシャは必死に目を凝らした。ひとりは赤いドレスに身を包んだアナベル・ウィンダミア嬢……エリーシャが此処にいる原因ともなった彼女だとして、もうひとりの男は。


 ぎいぎいと耳障りな音が絶えることなく暗い室内に響いている。


 エリーシャが転がされている床が、右へ左へ傾いでいるのだ。視線を上げると、小さな窓が見えた。

 上方から差し込む月明かりが白く四角く、焦げ茶色の床を切り取っている。

 やはり船室のようだ。ちゃぷん、と水音が聞こえたような気がした。


「このクソ女がっ、馬鹿な真似をしやがって……!」


 男は唇を歪め、エリーシャには言っていることの半分ほどしか理解できない下品な言葉を浴びせた。罵倒するだけでは苛立ちを抑えきれなかったのか、手近にあった獅子らしき動物を象った置物を掴むと、アナベルに向かって投げつける。


「ひっ……!」


 アナベルの悲鳴とほぼ同時に、がしゃん、と派手に割れる音が響いた。


 ちょうど彼女の足もとに落下したようで直撃は免れたらしい。粉々に砕けた残骸が散乱しているのが見えた。もしぶつかっていたら、大けがをしていたに違いない。

 女性に乱暴な真似をするなんて……エリーシャは、背筋がぞっと寒くなった。


「でも、私はあなたの言うとおりすべてやりました……!」


 アナベル・ウィンダミアは身体を竦ませ、怯みながらも男の方を見返した。唇をきつく噛みしめ、がくがくと脚を震わせている。


「我が家に長年勤めている……ウィンドベル地方出身の使用人から、希少な毒草を煎じた薬を貰い受けました」


 エリーシャは、帝都でアナベル嬢を【同調】を使って尾行したときのことを思い出した。ユーリスとふたりで外出したあの日――アナベルが向かったのは、使用人らしき女性の住居だった。


 そこで話していた内容がぱっと頭に思い浮かぶ。


 あのとき彼らは毒薬――そうとしか思えないものを、精製したのだと話していた。もちろん、毒薬と言っても鼠取りの罠に仕掛けるためのものだってある。毒性が薄く、腹を下す程度のものだってある。


『ええ、誰にも言いません。あの薬は強力ですから……』


 エリーシャがあのとき紛れもない証拠を掴んだわけでもない。恐怖のあまり、途中から内容がほとんど頭に入ってこなかったのだ。

 だが確かに「第一皇子」に飲ませる、そう言っていた。そして……あのとき耳にした老婆のしわがれた声を噛みしめるようにエリーシャは思い出した。


 ――第一皇子は、必ず死に至るでしょう、確かに老婆はそう言っていた。


「わ、私はジェスタ殿下に偶然を装って近づき……パートナーとして、祝勝祭に同伴しました。そして隙を見てあの薬を飲ませようと、あなたのために必死になって――」

「おいおい、失敗しておいてデカい口を叩くなよ」


 そのとき、船が傾いだせいで窓から差し込んだ光の向きが変わった。

 男の顔が月明りの下に照らしだされる。


 オレンジがかった金髪は高貴で美しいが、尖った鷲鼻と薄い唇が酷薄な印象を与える。目を細めてアナベルを睨みつける男は整った顔立ちをしているのに、いかにも神経質そうで――エリーシャであれば怯えてしまって目を合わせるのさえ躊躇うだろう。


 ようやく彼が誰であるのか、エリーシャは思い至った。

 ライアン・モーヌ公爵令息――皇帝の弟であるモーヌ公爵の長男だった。



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