第六章 女神の裁定

48 最悪の目覚め


 ずきん、と頭に鈍い痛みが走る。

 すうっと引いたかと思えば激しく押し寄せてくる不快感に眉根を寄せ、エリーシャは呻いた。どくどくと身内で暴れる血流の音がやけに耳の奥から鳴り響いている。


 手放されたエリーシャの意識は、ゆっくりと深い場所へと落ちていった。


『エリー、あなたは特別な子なのよ』


 ふいに聞こえてきたのは、年を経るにつれてだんだん薄れ、ぼやけていってしまった母の声だ。


『あなたは、使途を間違えては駄目。その異能は月女神からの寵愛の証なのだから』


 とぷん、と生ぬるいゼリーの中を潜っていくような奇妙な感覚だ――おそらくこれは夢なのだとは薄々気がついてはいた。


 ――お母様、どこにいるの……?


 亡き母の声を耳にしたのもそのせいだろう。

 いままではいくら願っても聞こえなかった、大好きなひとの優しい声音がこうしてはっきりと思い出せる。声が聞こえてくる方向に手を伸ばしても、むなしく空を切るばかりだったのだけれど。


 エリーシャが必死に呼びかけても、返事はない。


 青黒い闇の中、目を凝らしても母の姿はどこにも見えなかった。


 つきん、とこめかみが痛んだ。

 もっと深く、奥底へとエリーシャはぶくぶく沈んでいく。ふたたび浮上したいとは思えなかった。

 エリーシャを傷つけようとする悪意から守るように、ぎゅっと自分自身を抱きしめる。


『あのねエリー、これは怪我をしているわけじゃないんだよ……』


 もう懐かしい母の声は聞こえない。

 ただその代わり、エリーシャの頭の中に直接語り掛けてくるような、べつの誰かの声が聞こえてきた。


 ――この声は……お母さま、じゃない……?


 そっと瞼を持ち上げると、半透明なゼリーの壁の向こう側に誰かが立っていた。頭から左目にかけて包帯をぐるぐると巻きつけた痛々しい姿の少年。


 ――あなたは、誰。


 エリー。自らを呼ぶ甲高い声を聞きながら、エリーシャは問いかけた。


 まるでエリーシャ自身もその子と同じ年頃になったかのように錯覚する。

 六、七歳ぐらいだろうか。そういえば、あの頃のエリーシャはあまりお喋りがじょうずに出来なくて、よく家族に笑われたものだった。

 ウィルバーを「うぇるにーさま」、ラーガを「りゃがにーさま」と呼んで、くすくす笑う父母や兄たちを前に頬を膨らませた。可愛いエリー、そう言って頭を撫でられても面白くなくて、ぷいと顔を背けた。


『ねえ、エリー』


 少年の声は優しいのに、少し震えている。

 顔は、ぼんやりとしていていくら目を凝らしてもよく見えなかった。


 記憶の底に埋もれていた「誰か」はエリーシャを呼んで、こっちを見てと乞う。

 そういえば、ひどくさみしそうな表情をしていたんだ「ゆーり」は。


 ――ユーリ……?

 

 金色の髪、悲しそうに笑うくせ。右目はお空を映した湖の色の色をしている。

 そうだ「エリー」は穏やかな日差しが降り注ぐサンルームで甘いお菓子を食べたのだった。注がれた甘酸っぱい香りのお茶はお口の中がしゅわしゅわして、すーっと鼻の奥が通るような不思議な風味がした。


 ユーリ、ずうっと前にわたしにもいた……たったひとりのおともだち。

 いつも笑っているのに、なぜだか痛みを堪えるような顔をしていた男の子。

 わたしはたすけてあげたかった。ぐるぐる巻きにした目がユーリにとっての「痛み」であるのなら、いっそそれがなくなってしまえばいいと思ったのだ。


 ――だから、わたしは。



 何者かの言い争う声で、エリーシャは微睡みから醒めた。


「うぅ、いまのは、夢……? っつぅ……」


 ずきずきと後頭部が痛む。よくある片頭痛だと思っていたのだが、痛む場所がいつもと違う。恐る恐る触れると、ぼこと凹凸があった――自分の眼で確かめることは出来ないが、おそらくたんこぶだろう。

 さすりながら少しだけ思い出した。

 そうだ、わたしは――アナベル様を追いかけて、ルシャテリエ宮殿のお庭に出て。


 後ろから何者かに殴られ、昏倒した。


「ひぇ……もしかして、わたしかなりまずい状況なのでは……」


 独り言を口走ってしまったのを慌てて片手で押さえる。

 あまり地声が大きい方ではないし、エリーシャが起きたことには気づかれてはいないようだ。ひとまず安堵の息を吐いた。


 可能な限り音を立てないよう、寝ころんだまま姿勢をわずかに変えてみる。

 心臓がうるさく警告してくるが、このままじっとしていたところでどうなってしまうかは目に見えている。


 ――さすがに、ここで死んでしまうのは嫌です……!


 寝かされている場所は清潔とは言えない場所だった。

 埃っぽいせいで喉がかさかさする。耳をすませてみれば、怒声と共にぎいぎいと軋むような音が聞こえていた。


 それに、さきほどから、この床が妙なのだ。


 ゆったりと傾いで、またもとに戻ったかと思えば――逆方向に傾く。横になっているだけなのにエリーシャは次第に気持ちが悪くなってきていた。


 ――もしかして此処は――船の中、なのかな。


「この役立たずが!」


 聞こえてきた怒鳴り声にエリーシャは身体を竦ませた。大きな声は苦手だ――雷みたいに重く、鼓膜を揺らして不安な気持ちにさせる。でも。


 ――たとえわたしが逃げ延びることができなくても、なにかすこしでも、悪いことをしている人たちの手がかりを……探さなくちゃ。


 おそるおそる顔を怒声が聞こえてくる方に向け、エリーシャは薄目を開けた。

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