忘れられていた男(三)
晩春[六月]の中頃にイルコアを訪れると言っていた北の老人[ハエルヌン・ブランクーレ]は、専制者の気まぐれを見せ、盛春[五月]二十九日にオルコルカンに到着した。
遅く来る分には構わなかったが、馬ぞろえが早まることになり、責任者であったレヌ・スロは慌てた。
じいさん[オヴァルテン・マウロ]とけんかをしたあと、鉄仮面は内心、彼の言うことはもっともだと思い直したこともあり、また、馬ぞろえの実施自体にそう関心があったわけでもなかったので、中止を口にしたところ、レヌ・スロひとりが断固反対の姿勢を見せた。レヌ・スロの身分や出身地から、出世の
しかし、のちのち考えてみると、老人は自身の気まぐれのおかげで命が助かったと言えなくもなかったので、天に選ばれた人間というのは、実におそろしい存在であった。
老人は、彼のために死ぬように訓練されていた、
西イルコアの生まれと自称していた、カラウディウ・エギラである。彼女は、七州[デウアルト国]中に知られていた美女で、
エギラは、七州中をまわり、各地の
オルコルカンの応接間で、老人から彼女を紹介されたとき、「東南州に出向いたときにはロアンドリ[・グブリエラ]さま、近北州に赴いたときにはオレッサンドラ[・グブリエラ]さまに、それぞれ、大変お世話になりました」と、含みのある笑みをエギラが浮かべたものだから、「ああっ?」と鉄仮面は思わず殺意をもって
すると、「あら、怖い」とエギラが微笑みながら言う声と、無表情でアステレ・アジョウが「怖い……」という声が重なった。
老人は自分の腕に抱きついてきたエギラに、「取って食いはせんよ、たぶんな」と言いながら、アジョウに近づき、顔を寄せた。それに対して、彼女は臆することなく、老人と視線を交えた。
「似ているようで、似ていないな」
顔を離しながら、そのように老人が言ったのに対して、「どなたにでしょうか?」とたずねたのは、緊張でかちこちになっていたノルセン・ホランクであった。
「おまえの母上にだよ、オイチーニュの息子よ」
微笑しながら、アジョウの頭をなでる老人に対して、「それはぼくのものです」とノルセンが訳の分からないことを口走ったところ、アジョウがノルセンに近づき、「わたしはあんたのものじゃない」と言いながら、平手打ちをした。
その光景に鉄仮面は頭を抱え、老人は高笑いをした。
老人は「取りはせんよ」とノルセンに応じたあと、今度は彼に近づき、頭の上に手を置くと、「きょうの酒席では、久しぶりに舞いを見せてくれると聞いている。楽しみにしているぞ」と微笑を浮かべた。
すると、「まあ、デウアルトの宝刀の舞いが見られるのですか。それは楽しみ」と応じたのは、エギラであった。
老人一行が場を去ったあと、ノルセンが小声でアジョウに、「実は、あの方。ぼくの本当の父上らしいんだ」と、公然の秘密を口にした。それに対してアジョウは、「お父さんがふたりもいるなんて、いいわね」と応じた。
アジョウが話している間、ノルセンがじっとアジョウを見つめていたので、彼女が「なに?」と顔をしかめた。それに対して、「アステレは、母上に似ているようで似ていないのか」とノルセンが笑顔で口にしたので、アジョウは
※1 白騎隊
兵装を白色に統一した部隊。昼と夜とを問わず、ハエルヌン・ブランクーレの身辺を固めた。近北州の兵の中から、弓馬に優れた壮健な者が選出されたが、両親が近北州の出であることが入隊条件であった。
当時、デウアルト国最強の部隊と評され、近北州の若者たちにとって、最もあこがれの存在であり、とくに平民にとっては、白騎隊に入ることが栄達への近道であった。ハエルヌン自身もそのような若者が選ばれることを好んだので、平民出の者が多かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます