六巻(九三四年三月~九三四年六月)

第一章

忘れられていた男(一)

 新暦九三四年晩春[六月]に、北の老人[ハエルヌン・ブランクーレ]がイルコアにやってくるということで、鉄仮面はその準備をせねばならなかった。

 そこで遠西州から派遣されていたレヌ・スロが余計なことを上申してきた。馬ぞろえの実施である。

「先の近北公を迎えて、馬ぞろえを挙行することは、将兵の士気を大いに上げます。顔をおぼえていただければと、みな、はりきることでしょう」

 老人が顔をおぼえることなどは決してないとは思ったが、レヌ・スロの言は、「ハエルヌンのごみ捨て場」(※1)と呼ばれていた、遠西州のいくさびとのうっくつした思いを代弁しているように聞こえた。

 レヌ・スロから話を聞かされていた、遠西州から来ているいくさびとたちはすでにやる気になっていたし、鉄仮面のに入っていたイルコア人に、七州[デウアルト国]のいくさびとですら与えられていない名誉をほどこすのも、悪い話ではないように、そのとき、思えたのはいたしかたのないことであった。

 そのために、鉄仮面はレヌ・スロの言に従い、馬ぞろえを実施することにしてしまった。その時の鉄仮面の置かれている状況を考えれば、やむを得ない判断であったろう。

 ただ、なぜ、レヌ・スロに準備を任せたのかという批判については、甘んじて受け入れなければならない点がなかったわけではない。小ウアスサあたりにやらせておけばよかった。

 なにか少しでも、きな臭さを感じたのならば、それに用心しないと大事になることがたまにある。それを馬ぞろえの一件から鉄仮面は学び、その後、気をつけた。



※1 ハエルヌンのごみ捨て場

 『スラザーラ内乱記』に見られる、ノルセン・サレの有名な言葉。

 東部州のハオンセク親子、ホアラ領のオルシャンドラ・ダウロン、西南州のルンシ・サルヴィと、その地に置いておくのを危険と判断した者たちを、ハエルヌン・ブランクーレは遠西州に次々と転籍させた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る