結――月下
「やはり、先生はそう思っていらしたか」
嘆息した山田大介は、何かを決意したのか、きっと表情を引き締めた。
その
「私には隠す秘密も無ければ、下沢さんからお金を受け取った覚えもありません。私があの道場を去ったのは、外月流柔術を棄てた身では留まっている理由が存在しないと判断したからです」
「何故、棄てた」
「意味が無いからです」
言葉の裏に潜む真意を図りかねた無乱斎に、大介は尚も語り続ける。
「横浜から戻った私が、先生が下沢さんに討ち取られたという報を道場で知らされた時、驚きと共に私の心に沸き上がったのは、師匠を討たれたことによる怒りや悲しみではなく、外月流の開祖ともあろうお方がこんなにも簡単に討ち取られてしまったのか、という失望でした。
無乱斎は、自分の息遣いに僅かな乱れが生じているのを認めた。
己が、いや外月流が弟子から糾弾されたのは、これが初めてのことである。
「同時に、外月流とはこの程度のものだったのかという失望も私の中に生じました。普通の子供ならば手習いを始め、親を手伝いながらも他の子供たちと遊び、健やかに育っているであろう時分に辛く苦しい修行を続け、命のやり取りも覚悟の上と己自身に甘えと妥協を許さずに過ごした日々が、一気に虚しいものへと変わってしまったのです」
「その程度の試練すら乗り越えられずに心折れたのであれば、それは全て貴様自身の責任であろう」
大介の告解に
「しかも結局は外月流を棄て切れなかった。それは今の貴様が証明しておるではないか」
「下沢さんの失踪を知ってから、大急ぎで掻き集めた記憶を頼りに焼き直した程度の術ですよ。一心不乱に研鑽を続けていた昔の私に比べれば、
「馬鹿め、貴様が辿る運命に変わりは無いわ」
「そこまで私を恨みますか」
「背中の傷と裏切りの傷は、貴様の命でなければ癒えぬ」
「どちらも私が付けた傷ではありません。私が長月橋の襲撃に居合わせるのは不可能です」
「まだ言うか。鉄道を利用しての時間短縮は見破ったというのに」
「鉄道が存在することと、私が鉄道を使えたかどうかは別問題です。いいですか、あの頃の新橋から横浜までの運賃は、片道だけでも三十一銭二厘もかかります。門下生は増えても貧乏は変わらなかった道場の居候に過ぎなかった私には、往復どころか片道分の切符を買い求めるお金なんて工面できません。皆さんからの餞別を香典にするのが精々でしたからね。それに、鉄道には出発時刻と到着時刻というものが存在します。駕籠や馬車のように、出発してくれと言えば即出発してくれるようなものではありませんし、こちらの目的地まで運んでくれるわけでもありません。貴方が考えているような、都合良く時間短縮に使えるものとは限らないのです」
「詳しいな。まるで事前に調べ上げたかのようだ」
「外月流を棄ててからというもの、世俗の垢に
無乱斎の皮肉を皮肉で返すような無作法など、昔の山田大介は持ち合わせていなかった。
「夜通し歩いて時間を縮めたというのも無茶です。徹夜の身体で先生の背後を取れるようなら、下沢さんと結託せずに正面から挑んでおりますよ」
「証人がおらぬ」
「私が道場に戻った時に抱えていた横浜土産は、下沢さんたちに食べられてしまいましたからね。それでも気になるのでしたら、私を殺した後で横浜へ出向いて、葬儀の出席者を尋ねて回れば宜しい。私が夜通し歩いたところを目撃した人はいませんが、また歩いていないと証言してくれる目撃者もいません」
そこまで説明してから、大介は夜天を指さした。
「知っているのは、今と同じように輝いていた三日月だけでしょうね」
「ならば、儂に背後から斬りつけた奴は誰だというのだ。儂の背後を取るような腕前の持ち主が、貴様以外にいたというのか」
「先生も、薄々お気づきになっておられるのでしょう?」
「そのような男などおらぬわい」
「男はいないでしょうね。先生を斬ったのは女なのですから」
師弟の間を、枯葉を
「あの当時の先生が隙を見せる相手は、日本中を探しても一人しかいませんでしたからね」
「誰のことを言っておる」
「お惚けを。お千賀さんですよ」
己を殺めんとする男を前にして、しかし告発者の表情は沈痛なものへと変わった。
「先生も、唯一の肉親であるお千賀さんには甘かった。お千賀さんの作った食事を疑いもせずに食べ、手を取って土産を渡し、疑いもせず背中を見せた。その油断と肉親の情を、下沢さんに見抜かれていたのです」
「違う」
「下沢さんもお千賀さんも語ってくれなかった点、長月橋の上で帽子が風に飛ばされたことを先生の口から聞き出したことで、
「そんな筈がない。何故お千賀が儂を斬らねばならぬのだ」
「先生が討ち取られる前から、下沢さんとお千賀さんとの間に
「四膳も、奴も知っておったのか」
「知らなかったのは先生ぐらいでしょう。下沢さんや久坂さんの手下となった連中も、お千賀さんの凶行を異常と思わなかったのですから」
心乱さぬ無乱斎が、姪の心情を見抜けなかったのが命取りになってしまったというのか。
「実は、下沢さんから手紙を受け取る前に一度だけ、真来田さんからの手紙が届いていたのです。内容は、お千賀さんに関わるものでした。先生が失踪したことで身寄りが無くなり、外月流を継承した下沢さんに面倒を見てもらっていたお千賀さんが失踪した。此方でも足取りを追っているが、何か知っているのであれば教えてくれというものでした」
「その件、源之助からは?」
「あるわけないでしょう。婚約の話が上がっている最中に、愛人の行方について問う手紙など出せる筈がない」
「だろうな」
お千賀が邪魔になったということか。
「先生」
望月無乱斎と山田大介。
二人の周囲に流れる風が緊張を
「嘗ての弟子である真来田四善を殺し、下沢源之助を殺し、今こうして私を殺そうとする、その真意を改めてお聞かせ願いたい」
「知れたこと。外月流の開祖たる儂を陥れた貴様らを粛清し、
「否。それは貴方の真意ではない」
無乱斎の巨大な目玉が、ぎょろりと
「貴方の真意は、外月流の立て直しにあるのではない。愛するお千賀さんが自分を裏切ったこと、そのお千賀さんが下沢源之助の愛人となり捨てられたことを知る者の口を封じるところにあるのだ」
「笑止。師を愚弄するか、小僧」
「ならば、何故真来田さんまで殺したのです。私とは違い、外月流を棄ててはいなかった真来田さんなら、説得次第で貴方の言う粛清とやらに手を貸してくれたはずだ。その真来田さんに問答無用で襲い掛かったのは合点がいかない」
「この望月無乱斎、最早弟子に隙を突かれるような失態は犯さぬ。裏切られぬようにと、前もって殺したまでよ」
「いや、それでは貴方が真来田さんを殺す理由にならない。仮にそれが事実なら、無関係の真来田さんを無視しても問題はなかった筈だ。貴方が恐れたのは不意打ちや裏切りではない。お千賀さんの身を案じた真来田さんが、彼女の足取りを追おうとすることだ。だからこそ、そういった行動には出ないであろう下沢源之助は後回しにして、先に真来田さんを殺すことにした。貴方には、お千賀さんの足取りを追われては困る理由があったのだろうが、その中身について私は何も知らないし、知りたくもない」
半分くらいは当たっているなと、無乱斎は内心で舌打ちした。
真来田四善を先に殺したのは、万が一にも自分の蘇生と復讐をお千賀に知られて介入されたくはなかったからである。
お千賀が源之助のものになり、挙句に道場を追い出されたと知ったのは、その直後のことだった。方々に手を尽くして足取りを追った結果、憐れな女浮浪者として短い生涯を終えたと知るのに、そう時間は掛からなかった。
生きたまま八つ裂きにした下沢源之助の死骸は、野犬にくれてやった。
「先生。私は外月流に愛想が尽きました。人倫を外れ、卑劣非道と呼ばれようと動じなかった開祖である貴方ですら、肉親の情には隙を見せてしまい、全てを失ってしまったのだから。いや、貴方がお千賀さんに抱いていたのは肉親の情などではなく、本当は」
「黙れ」
跳びかかってきた無乱斎の匕首と、躱した大介の握る匕首がぶつかり合い、双方の刀身が砕け散る。柄を投げ捨て掴みかかろうとした無乱斎の手を払い、
隙を突き、不意を突くのが常道の外月流。
その開祖と一番弟子が、悪手であるはずの正面から対峙する。
「戯言も大概にせんか、大介。大方、儂を騙して隙を作るために考えついた
無乱斎の口から黄色い歯が姿を見せる。
「まだ、真実をお認めにならぬのですか」
「それは貴様が作り上げた、貴様にとって都合の良い真実。儂にとっては、所詮は虚偽に過ぎぬ。儂にとっての真実とは、貴様ら不実の弟子共が揃って儂に、いやさ外月流に牙を剥いたことであり、貴様がこれから迎える死はその報いであると知れ」
「真実は曲げられません」
「ならば貴様が抱える真実と、儂が抱える真実は違うというだけよ。それでも己の真実が正しいと寝言をほざくのであれば、儂を殺して無理やりにでも捻じ曲げてみせい。儂はまだまだ殺し続けるぞ。儂と外月流に刃向かうもの全てを殺し尽してやる」
「もはや嘗てのわが師に非ず、か」
覚悟を決めた山田大介の内から、突如として膨張する殺気。
「今や腕衰え妄執に囚われた、憐れな老人でしかないのだな」
その膨張に、元から大きな無乱斎の両眼がさらに大きく見開かれる。
「既に心に決めていたつもりではあったが、改めて伝えよう。もはや
応じるように無乱斎の身体からも発せられた殺気が大介の放つ殺気へと向かい、両者の間で早くも
「儂に一度も勝てなかった小僧が、ほざくわい」
「望月無乱斎は、もはや嘗ての望月無乱斎ではない。背中の傷と老齢に負け、心身共に衰えた老人に過ぎぬ。己が編み出し伝えた残照の術に易々と引っ掛かったことが、その証左」
「確かに貴様の言う通り、卑劣非道で知られた儂にも、まだ人としての情が残っておったらしい。一番弟子である貴様を相手に、我知らず手加減していたのがその証拠よ。だが、死を賭してでも儂を迎え討つ覚悟が貴様にあると知って、その情も消え失せたわい。ここからは手加減抜きで殺してやろう」
「一度は外月流を棄てた私と、破れて外月流の名を地に堕とした貴様。何れが生き残ろうと、外月流の未来は潰えたというのに」
山田大介の口から悲嘆とも受け取れる言葉が漏れてから、無言のまま対峙する両者。
静寂を破り同時に動いた二つの影。
何れが敗者として命を散らし、何れが勝者となり得たのか。
その結末は
二人を照らし続けた
三日月だけが知っている。
(了)
三日月だけが知っている 木園 碧雄 @h-kisono
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