転ーー水際

「たかが無欲の小僧に過ぎぬと見くびり、貴様の腹の内を読めなかったは、この望月無乱斎一生の不覚よ」

 燃え尽きくすぶっていた提灯の残骸が、一陣の風にさらわれ舞い散る。

 月光照らす畦道を間に挟み、望月無乱斎と彼の一番弟子であった山田大介は、互いに土手の陰に身を潜めながら対峙していた。

「腹の内とは?」

「しらばっくれるのか」

 共に相手の前には姿を現さず、ただ声のみで応酬する。

「儂が討ち取られたと言われておる長月橋での出来事は覚えておろう。あの日、源之助の父親から相談に乗って欲しいという手紙を受け取っていた儂は、弟子らを引き連れて奴の実家へと向かっておったのだ」

 長月橋で討ち取られたと聞かされてはいたが、無乱斎が手紙で誘き出されたという話は大介にとって初耳である。

 下沢源之助の父親から頼まれたとあっては、傲岸不遜ごうがんふそんの無乱斎であっても動かざるを得ない。外月流の名が世間に広まれば広まる程、また門下生が増えれば増えるほどいさかいの種火も発生し、それらが炎上する前に丸く収めて鎮火させるためには、今や政府高官という後ろ盾が必要不可欠になっていたからだ。

 機嫌を損ねて手を引かれたのでは、外月流が困る。

 下沢源之助は、己と己の父の立場を上手く利用したわけである。

「先頭の儂が長月橋を渡り終えたところで、背後であっと声が上がった。貴人のお宅にお邪魔するということで洋装していたお千賀の帽子が風に飛ばされ、川に落ちたのだ」

 お千賀の洋装など、大介は一度も目にしたことが無い。

 さぞかし似合っていたのだろう。

「先頭を歩いていたのは儂なのだから、川に落ちた帽子を拾いに行くのに一番近いのも、儂ということになる。そこでゆるゆると川岸まで近づき、川に入ろうと下駄を脱いだその時だ。背中に刃物での一撃を受けた。振り向くと、儂の後を追うように川岸まで降りていた源之助と久坂新伍くさかしんご、そして奴らの取り巻きがぐるりと儂を取り囲んでおった」

 久坂新伍。

 無乱斎に挑んで返り討ちに遭った河原崎一成の後釜、空席となった外月四天王の座を日頃から狙っていた門下生である。生憎あいにくやわらの道には欠片ほどの才能すら持たなかったが、どういうわけか人を集め使う術だけは他の門下生の誰よりも優れており、その長所を認められ四天王の補欠として扱われていたような男だ。

「そこで一斉に襲い掛かっておれば、あるいは儂もこうして生き永らえることはなかったかもしれぬ。しかし源之助めが、儂を討ち取って外月流柔術を継承するという口上を長々と喚いている間に、儂は奴の手下を三人ほど倒しながら長月橋の方へと逃げた。道場に戻りさえすれば、源之助の息が掛かっていない門下生に手助けさせるのも不可能ではないと、その時は思ったからな。しかし不意打ちの傷は思いのほか儂の動きを鈍らせ、追いついた源之助の体当たりをまともに食らった儂の身体は長月橋の欄干らんかんを越え、下を流れる川に叩き落されたのだ」

 無乱斎が長月橋に逃げたのは、下沢源之助からすればむしろ好都合だったのだろう。

 あまり注目されない川岸よりも、目撃者の多い橋の上で派手に無乱斎を倒した方が、その勇名もより広く行き渡るというものである。

「儂は死を覚悟したが、土壇場で天魔てんまが儂を拾い上げた。水中でもがいているうちに脱げてしまった上着だけが流木に引っ掛かり、うつ伏せのまま川に流される死骸のように見えたらしい。単純な源之助らは、それを見つけて追いかけた。さらに野犬かかわうそが掘ったらしい穴を見つけたので、そこに伏せ隠れておったのだ。陽が沈み、行き交う人影が途絶えてから穴を抜け出し、近隣の人家に助けを求めるまでの間に命の灯火が尽きなかったのは僥倖ぎょうこう、我ながら呆れるほどの往生際の悪さだと思うわい」

 己の武勇伝を語る間は、さしもの無乱斎も上機嫌になる。

 しかし、それでも土手の向こう側には付け入る隙が生じない。

「外月流の神髄とは殺めるための術のみにあらず、全ては己が生き延びるための術である。わかるな?」

「はい」

 反射的に返事をした大介は、慌てて身を伏せながら土手を走る。

 今は居場所を探られたくはない。動くのは真実を見出してからだ。

「源之助と新伍は、儂を討ち取ったと言いふらしたであろう。ならばろくに動けぬ身体で道場に戻るわけにはいかぬ。いつかはこういう日が訪れるであろうと予見していた儂は、予め用意しておいた隠れ家で傷を癒し養生を続けた。貴様には、傷に効く膏薬こうやくの作り方も、その保存法も口伝したな?」

 返答こそしなかったものの、大介はそれを認めた。

 無乱斎の言う通りである。

 どこから仕入れた知識なのか、無乱斎は傷に効く様々な薬草や毒消しの知識、逆に毒薬に関する知識も豊富に有しており、それを活かした膏薬は、長屋での生活時には貴重な収入源となった。

「あれの効能は儂の身体が証明したようなものだ。傷が癒えた儂は、復讐を果たし外月流最強の座を取り戻さんがために動いた。不意打ちで傷を負っていなければ、源之助や新伍など儂の足元にも及ばぬということを証明せねばならぬからな」

「討ち取られた現場を目撃された今となっては、何を言っても虚しい弁明に過ぎませんな」

 大介は皮肉を込めて言い返してみたものの、無乱斎に動揺の気配は生じない。

 この程度の揺さぶりは相手にしないということか。

「まずは源之助と、もう一名に儂の復活を仄めかさんがために、新伍を殺めてやろうと思っておったのだが、残念ながら奴は既に死んでおった。外月流の継承問題で源之助と揉めた挙句、勝手に真外月流などというものを立てようとして粛清されたらしいな。まあ、儂でも殺しておっただろうから、仕方のない話ではあるのだが」

 その件については大介も耳にしていたが、外月流を棄てた自分が継承問題に口を挟んだのでは余計にややこしくなると思い、敢えて口出しを憚ったのだ。

「代わりに殺したのが真来田四善だ。あいつは源之助より腕が立つから良い脅しになると考えたのだが、思いのほか|効果覿面てきめんだったようだな。四善が殺されたと知った翌日、源之助は集められるだけの門下生を集めて警句を発しておったわ」

「そんな理由で、真来田さんまで殺したのですか」

「構わぬ。貴様には教えなかったが、奴の正体は戦争の負け犬、薩軍連合部隊の生き残りよ。奥州攻防戦で奴とは顔見知りだった儂は、それを承知で奴の弟子入りを認めて匿った。つまり生かすも殺すも儂の気分次第という男だったのだ。その秘密故に人を避けたせいであろう。長月橋の襲撃には参加せず、何も知らぬまま留守番を務めていたのだが、いつの間にか源之助には尻尾を掴まれていたらしい。奴の前歴には触れぬ代わりに外月流継承を黙認しておったのだから、まあ裏切り者の一味であることに違いはあるまい」

 恐らくはこちらの位置を探るためのものであろう。放物線を描きながら飛んできた礫を、大介はひょいとかわした。

「隙だらけであった源之助や奴の門下生に比べれば、真来田四善にはまだ牙が残っておったぞ。何しろ儂の不意打ちをかわしたのだからな。尤も、襲撃者の正体が儂であることを知ってからはもろかったが」

 出自はともかく、柔術の腕前では下沢源之助よりも真来田四善の方が上だというのは、大介も認めるところではある。外月流では珍しい組手で自分と対峙している時でさえ、四善は手加減しているのではないかと勘繰りたくなるような場面が何度か存在したが、源之助は同じ組手で何度も大介にやり込められている。

「源之助の門下生を何人か殺してから、本丸を攻め落とした。奴め、教え子が討ち取られたというのに怯えるばかりで、自分からは何ら手を打とうとはせなんだから、容易たやすい仕事であったわい。嘗ては無頼漢が多数待ち伏せておる県知事の屋敷に侵入したこともある儂が、勝手知ったる外月流道場に侵入できぬはずがなかろう」

 侵入者の正体が、生きていた無乱斎とは知らなかったのだから仕方ないと思う反面、元外月四天王に名を連ねた男にしては用心が足りなかったのではないかと、源之助を責めたくなる気持ちが大介の中に生じた。

「下沢源之助は恐ろしい男よ。儂に懲らしめられても、結局はその性根も正道に戻らず果てた男よ。奴の大望はな、己が継承した外月流柔術を、世間に認可される程度の廉直な柔術に作り替えて喧伝し、その第一人者として名を広めながら、少なくとも政府高官の三男坊にふさわしい地位まで成り上がることにあったのだ。つまりは儂の外月流柔術を、己の出世のためのにえと狙い定めておったのよ」

 大介も、外月流継承後の源之助の行動から薄々感づいてはいたものの、外月流を棄て部外者となった身では干渉できぬと諦観ていかんしていた。加えて失踪直前の下沢源之助には、有名な政治家の末娘との婚約話も浮上していた筈である。

「儂の寝室で高いぴきを掻いていた奴の醜態には、復讐にした儂ですら呆れたものであったが、作業そのものは楽に進んだ。持参した手拭いで猿轡を咬ませてから四肢の関節を外し、縛り上げた源之助の身体を担いで道場から裏山へと運んだのだ。奴め、助けてくれ殺さないでくれと、最後の最後まで見苦しく命乞いしておったわい。それまでさっぱり足取りが掴めなかった貴様の居所も、容易く吐いてくれたぞ」

 これには大介も、山奥に埋められているであろう源之助の骸骨に唾を吐きかけてやりたい気持ちになった。

「かくして儂は、あの事件以来ぷっつりと姿を消した貴様の前に、こうして姿を現したということだ。あの時の傷の痛み、今度は貴様がその身をもって思い知るがよい」

「傷?」

「まだ惚けるつもりか。長月橋で儂の背中に一撃を決めたのは貴様であろう」

「無理です」

 お互いに喉笛を狙う状況であることも忘れ、大介は思わず即答した。

「あの日、私が横浜に向かっていたことは先生もご存じでしょう」

 山田大介は田舎百姓のせがれであり、貧困ゆえの食い扶持ぶち減らしのために、横浜に住んでいた親戚の元へと里子に出される筈だった。

 しかし横浜へと向かう道中で、当時はまだ放浪中の身であった望月無乱斎と出会い、追い剥ぎを苦も無く叩きのめした外月流柔術に魅せられて、その場で弟子入りを志願。口約束でそれを認められると、横浜で親戚に詫びてから改めて無乱斎に弟子入りした。

 横浜の親戚は大介の外月流入門を許すばかりではなく、必要になるであろう当面の食料と金銭まで工面してくれた恩人である。

 あの日、大介が横浜まで出向いた用事とは、その親戚の葬儀であった。

「馬に乗ったことも無い私が、帰還予定の日よりも早く戻って来ることなど不可能です」

「方法は、ある」

如何いかに」

「鉄道よ。明治に変わってから作られた、蒸気とやらで走る鉄の塊。あれならば新橋から横浜まで半刻で済むと聞いた。それを往路と復路で合わせて一刻、夜通し歩けばさらに時間は短くなり、睡眠は歩まずとも進む鉄道の中で取ればよい。こうして秘かに予定の日よりも早く戻って来た貴様は、源之助の実家へと向かった儂らの後を追い、長月橋でお千賀の帽子が風に飛ばされたのを好機と見て儂の背後に忍び寄り、一刀を振るったのであろう」

「何故に、先生の背中に一刀を浴びせたのが私とお考えで?」

「貴様以外に考えられないからだ。まず、あの状況でも源之助と新伍を警戒していた儂は、あの二人とは常に一定の距離を保ち続けておった。これは背中から襲われても対処できる距離である。さらに、不意打ちを受けて振り返った儂の視界に入ったのは源之助と新伍。いずれも儂の背中に刀が届くような間合いではなかったし、その位置から一歩でも近づこうものなら、儂もその動きを察知しておった。人前に姿を見せぬ真来田四善でも有り得ぬ。残るは、外月四天王の中でも特に忍び隠れる術に長けておった山田大介、貴様を置いて他にあるまい。この望月無乱斎に一刀浴びせることが出来るだけの間合いまで近づきながら気配を感じ取らせぬなど、貴様を置いて他には考えられぬ」

「そこまでお褒めいただけるとは思っておりませんでした。もし私が外月流を棄てておらず、しかもその件が別人の仕業でなければ、大層感激していたでしょうね」

「まだシラを切り通すつもりか、山田大介」

 無乱斎は、一番弟子の名を叫んだ。

「真来田四善同様、下沢源之助に秘密を握られた貴様は、この無乱斎亡き後の外月流継承に一切干渉しないことを条件に幾ばくかの金を貰って姿を消したのであろう。残念だったな。儂はこの通り生きておるわい」

 不意に、土手の陰から無乱斎がぬっと姿を現した。

「下沢源之助と真来田四善の死を知り、儂が生きていると想定しておったのならば、こうなる日が来るのは覚悟のうえであった筈だ。もはや逃れることは叶わぬ。我が弟子らしく、せめて外月流柔術の研鑽を続けた己が力量の全てを、開祖であり師匠でもある儂相手に出し尽くしてから死ね」

 無乱斎の呼びかけに応じるように、反対側の土手の陰からぬっと姿を現した大介だが、その表情は覚悟を決めた者や死の恐怖に怯える者のそれではなく、むしろ何かを憐れむかのようである。

 その口から、ぼそりと一言だけ漏れた。

「やはり」

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