承――追憶


 明治とは、憲法発足や西欧化に伴う産業革命により日本に大きな変革をもたらした時代であったが、同時に新たな問題や歪み、皺寄せが次々と生じた時代でもあった。

 永きに及ぶ徳川政権を踏み潰して発足された新政権は、それらの歪みや皺寄せが原因で起こり得る武力衝突を鎮圧するために、様々な対策を考案しては制定にこぎつけていた。

 例えば、警察官が必修すべき武術として明治十年に制定された、警視流。

 これは、それまでの巡査教習所に指南役として招聘されていた剣客らの技術を融合して作られたものである。剣術においては北辰一刀流、浅山一伝流、直新影流に神道無念流に示現流等々、錚々そうそうたる流派の形を取り入れたものであり、柔術もまた渋川流に神明活殺流、天神真楊流に立身流と、こちらも名だたる流派による技巧の粋を取り入れている。

 また同年に勃発した西南戦争では、戦中最大の激戦地と言われる田原坂の戦いにおいて、現地にて急遽編成された抜刀隊による獅子奮迅の活躍により官軍優勢の足掛かりを掴んだという評価を得ており、この戦争での従軍経験から野瀬庄五郎のぜしょうごろうが孤刀影裡流居合術を編み出し、同じ経験を持つ隅元円之進すみもとえんのしんは片手での使用が基本だった西欧の軍用サーベルから、日本独特の武術である剣術の応用が利き易い両手剣への変更を提唱している。

 終戦後、現代なら警視総監にあたる初代大警視の川路利良かわじとしよしは自ら著した『撃剣再興論』において、明治でも武術は有用であると説き、暴力の横行を制する警官巡査は剣術も武術も心得ておらねばならず、しかし形だけの武術に拘らず、時には「逆手もまた正手とせねばならぬ」と実践向けの武術にも切磋琢磨することを推奨し、警視庁武術世話掛からの教導を受けて後の時代における剣道柔道の礎を築き上げた。

 指導役として採用されたのが小野派一刀流の梶原義正かじわらよしまさや鏡心明智流の上田馬之助うえだうまのすけ、関口流の久富鉄太郎ひさとみてつたろうに良移心頭流の中村半助、そして講道館の精鋭らと、いずれもその道では名を知られた達人ばかりであった。

 武器は刀や槍から銃砲へと推移しながらも、国内における二度の内戦と新政府による武術推奨を背景とし、腕に覚えのある元武士や幕末の修羅場を生き延びた浪人たちが、政府の高官や役人たちに自分を売り込み、生活の糧と地位を得んがために自ら開祖となり新たな流派を興しては、そのほとんどどが伝統という巨大な壁を前にして泡沫ひまつの如く消え去る時代でもあったことは、あまり知られていない。

 望月無乱斎なる得体の知れない中年の武芸者が興した外月流柔術も、その時代にあらわれた泡沫の一つと言えよう。

 望月無乱斎。本名は望月吉太郎よしたろう

 元幕臣で忍びの心得を持っているらしいと噂され、また本人もそれらしいことを何度かほのめかしている。奥州鎮圧戦では幕軍の細谷十太夫こと細谷直英直秀率いる衝撃隊に所属し、三十を超える強襲作戦に参加して政府軍に痛撃を与えながらも生き残ったと豪語していた時期さえあったが、後に官憲にその件を問い質されると、自分は言いふらした覚えが無い全くの出鱈目であると否定している。

もっとも、明治憲法制定後の恩赦が出ていなかった頃の話なので、一体どちらが真実なのかは無乱斎本人のみぞ知るところなのだが。

 その無乱斎が、武者修行中に山奥である武芸者から技術と心得を授けられ、厳しい修行の末に真の武芸者の何たるかを会得。その内容を広め伝えんと下山して興したのが外月流であると吹聴する。

 望月無乱斎曰く、外月流の「外」とは武術各流派における「外物とのもの」を指す。これは剣術の流派であれば槍や弓、逆に槍術や弓術であれば剣術等の、即ち己が流派以外の兵器物のことである。

 しかし別の意味――日常生活においても隙を生じさせぬ「精」の心得と、いざ決闘になった際に相手を分析し攻略するという「智」の心得を外物と称する場合も少なくはなかった。

 外月流は主に後者を主としつつ、相手の得手ではない武器を使う、あるいは武器とは思われぬ物を武器として用いた「外流」の術を講じている。それ故に武器の扱いについては種類こそ多いが広く浅く、どちらかといえば手放すことの無い武器である己が肉体を用いた柔術に重きを成す。

 それ以上に重視しているのが不意討ち闇討ちの仕掛け方とその対処法で、中には人倫を大きく外れた術さえ存在する。

 維新前の時代であれば、その精神は武士道にもとると糾弾され否定されていたのであろうが、

「銃という優れた兵器の前には正面から向かい合う礼儀の精神など愚の骨頂、勝算なき武術も実践に役立たぬ武術も、これからは衰退の道を進むのみ。それがしが伝えるは、これからの時代を生きるための武術であり、武器を持たぬ者でも暴力に対処できる武術でござる」

と、悪びれず答える無乱斎に誰も反論できなかったのは、やはり動乱を生き抜いた彼の自負と自信と、何よりまだまだ不安定だった明治初期という時代の背景が存在していたからであろう。

 無乱斎の恐ろしさを語るに、こんな話がある。

 当初は望月外月流と称し長屋の一角で仏頂面ぶっちょうづらを決め込んでいた無乱斎は、弟子入りしたばかりでまだ少年らしい面影を残し溌溂はつらつとしていた山田大介を伴って、和装にインパネを引っ掛けた姿で県知事の屋敷を訪問した。

 知己の剣術家を介して送られているはずの紹介状と会談の伺いについての返事が梨の礫となっているので、直接問い質すのが目的である。

 煉瓦造りの塀に囲まれた屋敷の門には、西欧風の制服を着て仁王立ちする屈強な門衛の姿があった。

「失礼、知事殿は御在宅かな?」

「なんだ、貴様は」

 侮蔑ぶべつするような門衛の口調に、美髯公びぜんこうもかくやと思えるほどの見事な髭を生やしていた無乱斎は、落ち着いた様子で再度その髭を震わせる。

「望月外月流の開祖、外月無乱斎と申す。先日、我が友人である宮下君からの紹介状がこちらに届いているはずであり、付記された会談の期日について確認するため参上仕った。知事に会わせていただきたい」

「大切な御客人と会談中だ。それでなくとも貴様のような得体の知れぬ山師なんぞに会わせられるものか。痛い目に遭わぬうちに帰れ、帰れ」

「殺すつもりはないから死ぬなよ」

 途端に無乱斎の膝蹴りが門衛の金的を強かに打ち、呻き声を上げた門衛の顎の下に拳が叩き込まれる。

「手加減する方が難しいわい」

 呟きながらも、無乱斎は失神した門衛の身体が崩れ落ちないように片手で持ち支え、空いた方の手で大介をポンと突き飛ばした。

「何をしておる、さっさと隠れんか」

 同時に発砲音が鳴り響き、庭に生えていた柿の木の枝がぽとりと地面に落下する。

「狙って威嚇する程度には腕がある」

 銃声に驚く素振りも見せず、己の正面に門衛を担ぎ押すような体勢のまま、ずかずかと邸内に侵入する無乱斎。

 玄関まであと数歩というところで、それまで前面に担いでいた門衛の巨体を軽々と放り投げた無乱斎は、獲物に襲い掛かる虎の如き俊敏さで正面のドアの横に貼り付いた。

 一拍置いて開いたドアからあらわれたのは、手にピストルを持つ青年と、その背後に隠れるようにしながら庭先を伺う大柄な老人。

 青年と老人の視線が、門の陰から顔を出し様子を伺っていた大介の視線とぶつかった。

 威嚇のつもりか、それとも新たな標的にするつもりか、青年のピストルを持つ手が上がり大介に狙いを定めようとする。

 刹那。

 ドアの陰から伸びた無乱斎の手が、青年の手首を掴んで捻り上げた。

 痛みに耐えかねピストルを落とした掌に、無乱斎の五指が絡みつく。

「相手が悪かったな」

「ぎゃっ!」

 次の瞬間、青年は悲鳴を上げてその場に崩れ落ちた。

 五指の全てをへし折られてうずくまる青年を一瞥してから、無乱斎は顔面蒼白になった老人に髭だらけの顔を向ける。

「お初にお目に掛かる。宮下君より文面にて紹介を受けた、望月無乱斎にござる。少々乱暴な挨拶になり申したが、そちらの門衛の無礼さと拳銃を用いた応対への処置故、まあお互い様ということでご容赦いただきたい。それでは医者を呼ぶ必要もございましょうし、本日はこれにて失礼」

 朗々たる声で宣誓に近い挨拶を済ませると、無乱斎はあっさりと踵を返して門――大介の方へと戻って来る。

「先生、相手がピストルを持っていたのは御存知だったのですか?」

 当然の質問に、しかし大介の頭を衝撃が襲う。

「未熟者が。相手が何を持っていようが、あの位置は建物の窓から狙うには絶好の場所ではないか。門衛を盾にしたのは用心だ。もっと精進せぇ」

「失礼しました」

 叱責と拳骨をくらったが、大介はむしろそれを誇りに感じた。

 この武勇伝には、さらに長くなる後日譚がある。

 県知事の屋敷への豪胆な訪問が噂となり、道場を持つことができたうえに門下生も急増した外月流に、意外な訪問者があった。

「御免ください」

 たまたま最初に顔を出した大介は凍りついた。

 先日の老人、いや県知事である。

 向こうもやはり大介と似たような反応を見せたが、すぐに落ち着きを取り戻したあたりは、流石に大人と子供の差であろう。

「望月無乱斎殿は御在宅かな?」

「え、ええ」

「実は先日ご訪問いただいたお礼とお詫びを兼ねて、こちらで細やかながら宴席を設けたもので、これから私と一緒に同行していただきたいのだが」

 面食らった大介が慌てて無乱斎に報告したのは言うまでもない。

 その時は八畳敷きの居間にごろりと寝転がりながら何事か思案していた無乱斎だったが、大介の報告を聞くなり「来たか」と跳ね起き飛び出した。

 ただし、向かう先は玄関とは逆方向の裏口である。

「先生、御客人は裏口ではなく表門です、玄関です」

「わかっておるわい。お前は奴をここに留めておけ。いいか、無理でもなんでもいいから時間を引き延ばせ。茶はお千賀ちかにでも運ばせろ」

 お千賀とは、外月流の道場が建ってから引き取られた無乱斎の姪である。

 齢は十五、六。大介にとっては姉のような存在だ。

「手が尽きたなら道場の練習風景でも見学させておけ。良いな、あらゆる手を使ってこの場に留めておくのだ。これも修行、いや外月流の他流試合と心得よ。わかったな」

 はい、はいと繰り返すように何度も頷き、無乱斎が何かを手にして疾風の如き勢いで道場の裏から駆け去るのを見届けてから、はてどうしたものかとしきりに首を捻る大介に声を掛ける男の姿。

「どうした?」

「下沢さん」

 下沢源之助である。

「それが、先生に来客があったのですが、それを先生に伝えた途端に客人を引き留めておくようにと仰られるなり裏口から飛び出してしまわれて」

「なんだね、相手は借金取りかい?」

「県知事です」

 さすがに面食らったものの、そこは政府高官の三男坊である。

「君だけではいささか心許ない。俺も応援しよう」

 折よくお千賀もその場に現れ、三人で相談を始めた。

 後に外月四天王と呼ばれる強者四名のうち、この日道場に居たのは山田大介、下沢源之助、真来田四善の三名である。

 下沢源之助は、前述した通り政府高官の三男坊であったが、父の権勢を鼻にかけての悪行三昧を続けていたところを無乱斎に懲らしめられて改心し、外月流に入門した。無乱斎が正道で人を懲らしめ改心させたのは非常に珍しい出来事なのだが、これについて大介は、無乱斎が官僚の後ろ盾を得んがために行った手加減ではなかったのかと推察している。

 真来田四善は、道場を開いてからいつの間にか転がり込んできたような男で、その額と頬に一条ずつ残る刀傷のせいか人付き合いを嫌っている。滅多に表には出ないが腕は立ち、無乱斎はその腕前と度胸を買って弟子と認めた。

 余談になるが、外月四天王はこの三名に河原崎一成かわらざきいっせいを加える。

 河原崎一成は元々他流派の柔術を学んでいたところを、新興の外月流柔術に鞍替えした男である。門下生になる前から柔術の心得があるだけに飲み込みが早く、また四人の中では最年長であったこともあり、道場生の間でも無乱斎に迫る腕前と称されていたのだが、慢心から無乱斎に襲い掛かって命を落とした。

 暑い夏の一日のことである。

 無乱斎の日課である、道場生を伴っての散歩に同行して道場に戻って来た河原崎一成は、玄関口で無乱斎の背中めがけていきなり己が履いていた下駄を投げつけ、無乱斎がその下駄を振り返りざまに手刀で叩き落した隙を突いて匕首あいくちを手に躍りかかったのだが、逆に土間に叩きつけられたうえに奪い取られた匕首を口の中に突き立てられた。

「発想は悪くなかったが、下駄を投げてくるまでの間があり過ぎた。慣れ親しんだ間柄でも普段と異なる挙動があれば、誰だって不審に思う。しかも匕首を抜いてから襲い掛かって来るまでの間に無駄な手間が掛かっておる。儂ならば、それだけの時間でも迎撃の準備は十分に整えられるということだ。とんだ見込み違いであったな」

 事切れた河原崎一成の死体を前にして、滾々こんこんと諭すように呟く望月無乱斎の姿には、鬼すら凌駕する禍々まがまがしさがあったと、後に大介は述懐する。

 閑話休題。

 腕は立つもののまだまだ子供に過ぎない大介や、相貌だけで人を脅かしているも同然の四善に任せるわけにはいかないと、結局は下沢源之助が前へ出ることになった。

「おや、望月先生は?」

「申し訳ございませぬ。先生は只今貴人来訪の知らせを受けまして、身支度の最中にございます。如何せん野卑の集う道場にて門下生を叱咤奨励する身なれば、清めるに今しばらくのお時間を頂きたく存じ上げます。まずはこちらにてしばしお待ちを。粗末なあばら家でございますか、心尽くしの持て成しをいたしますので」

「車を待たせているのだが、どれくらいかかるのかね?」

「さて、そこまでは。とりあえず先生推参までの時間は、外月流柔術師範代たる不肖下沢源之助が話し相手を務めさせていただきます。役不足ではございますが、何卒ご寛恕いただければと」

 実のところ外月流柔術に師範代なるものは存在しないが、源之助の名乗りを受けて知事の顔色が僅かに変わった。

「そうか。では少しだけお邪魔させてもらおう」

「有難うございます」

 源之助の態度は実に堂々としたものであり、しかも無乱斎のような傲慢さや不遜さは微塵も感じられない。外月流柔術の腕前はともかく、この点だけは先生よりも下沢さんの方が上だなと、大介は妙なところで感心してしまった。

 生憎と洋装には合わない和室での応接となったが、源之助の恬淡とした爽やかな態度と話し上手ぶりに、無乱斎の招待という本来の目的すら忘れてしまっているのではないかと思えてしまうほどの和やかな雰囲気で話が進む。

 無乱斎が戻って来たのは、陽も傾きかけた頃だった。

「戻ったぞ」

 帰宅した無乱斎の顔を見た大介と源之助、県知事、そして偶然お茶のお代わりを運んでその場に居たお千賀の四人は、ほぼ同時にあっと声を上げた。

 まず言葉を発したのは、無乱斎に指を突き付けた県知事だった。

「先生! あの、髭は?」

 その容貌を特徴づけていた無乱斎の見事な美髯は綺麗に剃り落とされ、若干ながら剃刀による傷跡を残す――卵の殻のような地肌が剥き出しになっている。

 もはや覆うものを失った口を開け、白い歯を見せながら無乱斎は答えた。

「いやあ、まずは御来訪に感謝いたします。すぐにでもご同行したくはございましたが、如何せん儂の格好はむさ苦しいの一語に尽きる。せめて髭だけでも剃り落としておこうと床屋へ向かったのですが、思いのほか時間が掛かってしまいましてな」

 髭を失ったこともあり、いつも仏頂面の無乱斎とは別人かと思ってしまうほどの笑顔を見せながら、次いでその場に居たお千賀の手を取る。

「お千賀。土産じゃ。安物ですまんな」

 懐から取り出したくれないに輝く石を、一同に見せつけるようにかざしてから姪の掌にポンと乗せると、大きな咳払いをした県知事がやおら立ち上がった。

「済まないが急用を思い出した。宴席の招待は、またの機会に」

「そうですな。今さら赴いたところで、歓迎役の方々は全員寝転んでいるから宴席どころではないでしょうからな。特にテエブルの下に隠れていた坊主頭。あれはしばらく起き上がることすらままならない」

 慌てふためきながら逃げるように道場から立ち去った県知事の車を、大介たち三人は唖然としながら見送る破目となった。

「先生、一体何があったんですか?」

 いつもの仏頂面に戻った無乱斎は、居間で胡坐をかいたまま、源之助がお千賀に用意させた茶菓子をむしゃむしゃと貪っていたが、大介の質問にごくりと喉を鳴らした。

「何のことはない。奴の罠を潰してやっただけのことよ」

「罠?」

「宴席なんぞ設けるはずがなかろう。儂を死地に誘き出すための罠に決まっておる。あれはな、腕の立つ輩を多数潜ませた自分の屋敷に儂を放り込んで、不意討ちで袋叩きにしたうえで、天下に名だたる外月流とは所詮こんなものかと嘲笑って外月流の名をおとしめんとする策だったのだ」

「では先生、その髭剃り跡は?」

 今度は源之助が無乱斎の顔を指さすと、無乱斎は彼の端正な顔をぎろりと睨みつけた。

「弟子の分際で師に指を突き付けるなど無礼千万。本来ならその指へし折ってやるところだが、今は特に気分が良いから勘弁してやる――髭はな、走りながら自分で剃ったのよ」

 道場を飛び出す際に引っ掴んだのは、愛用の剃刀だったようだ。

「何故です?」

「奴の屋敷で待ち伏せている連中は、恐らく儂の人相も伝え聞いているであろう。ならば儂の人相の特徴とも言える髭は目印になる。そこで用心のために全て剃り落とし、望月無乱斎とは見てくれの異なる別人として連中の前に姿を見せて虚を突いたのだ。案の定、髭の無乱斎を標的と考えていた連中は儂の正体がわからず驚いておったわい」

 確かに、前もって知らされていたはずの人物とは明らかに異なる容貌の人間に襲撃されたら、誰であろうと驚くだろう。

「それじゃあ、この石は」

 お千賀が、掌の上の宝石をぼんやりと眺めながら呟いた。

「いや、それは帰る途中で立ち寄った蚤市で買い叩いた偽物だ。本物は、ちゃんと奴の屋敷の引き出しに残っておるわい」

「でも県知事は」

「奴め、今頃は狐につままれたような気分であろう。盗まれたと思っていたものが盗まれておらず、自分の手元に残っていたのだからな」

 そう言って仏頂面の望月無乱斎は、またむしゃむしゃと茶菓子をむさぼり始めた。

 先手を打つにしてもまた手の込んだもので、髭を剃りながら県知事の屋敷へと向かう途中で、無乱斎は近所の勘八かんぱちというお喋り好きを見つけて自分の後を追わせていた。当然ながらこの一件は瞬く間に人口に膾炙されたのだが、相手には官僚の息子という後ろ盾があり、また盗まれたはずの紅玉が手元に残されていたことで惑乱した県知事は、外月流との接触を自分から避けるようになった。


 それだけの豪勇で知られる望月無乱斎が呆気なく討ち取られたのは、彼を討ち取った下沢源之助にそれなりの秘策が用意されていたのだろうという噂がまことしやかに囁かれていたのだが、源之助はついにその策の内容を明かさぬまま人々の前から姿を消し、人知れず蘇生した無乱斎の復讐の刃をその身に受けたことになる。

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