三日月だけが知っている

木園 碧雄

起――月夜


 文明開化という新しい時代の波により、瓦斯燈がすとうが暗い夜道を明るく照らし出す時代が訪れたと言われているが、それはあくまでも都市近郊に限られた話である。

 何の変哲もない三日月が照らす畦道あぜみちを、野暮ったい風体の若者が手提げ提灯を片手に、とぼとぼと覚束ない足取りで歩いていた。

 若者の格好は、散切り頭ではあるが尻はしょりの股引ももひき姿。どこにでもいそうなありふれた顔には青年らしい引き締まった凛々しさも、明るい未来に対する希望溢れる覇気も感じられず、それでいてどこか不安げで落ち着かない。その様子は、さながら絶えず移ろい続けている世相に対する困惑を身体全体で表現しているかのようにさえ見える。

 しかし月下の若者が、物憂げな己の醸し出す雰囲気に合わせたかのような挙動を続けていたのは、風に流された群雲が三日月を覆い隠す直前までであった。

 突如として、雷霆らいていの如き俊敏さで畦道から飛び退いた若者が立っていた場所に突き刺さったのは、長さ三、四寸程の白羽の矢。

 土手の陰に身を伏せた若者は、ぱちぱちと音を立てて燃え上がる破れ提灯に照らし出される矢の突き刺さり具合と角度を伺う。

 獲物は半弓。

 居場所は高所。角度からして畦道を挟んで向かい側にある並木の枝上。

 疾風の如く、若者が動く。

 土手伝いに目的地から遠ざかり、提灯の灯が届かない距離まで遠回りしてから一気に駆け出し接近する。

 稲妻状に走りつつ並木道の一本一本に足の裏を叩き込み、頭上の気配に変化がないかどうかの確認を繰り返す。

 振動する樹から落下したのは、恐らく枝に引っ掛けておいたのであろう半弓のみ。

 既に樹上から降りていた襲撃者の拳が若者を襲う。

 その可能性を用心していた若者は屈んで拳を避け、次いで振り上げられた足刀を両腕で受け流しつつ前へと踏み込み、襲撃者を突き飛ばしにかかる。

 風を受け舞い上がる薄布うすぬのにも似た身のこなしでふわりと若者の反撃をかわした襲撃者は再度間合いを詰め、若者もまたそれに応じる。

 二人は二条の縄さながらに絡みもつれながら時にお互いの喉笛を狙い、また時には相手を頭から飲み込まんとのたうつ二匹の蛇の如く暴れ回る。

 襲撃者の放った拳が次の動作への囮であることを見抜いた若者は、その一撃を敢えて左肩に受けつつ間合いをさらに詰めて襲撃者の首に腕を回し、抱え込みながらの頭突きを叩き込む。襲撃者が怯んだところでその喉笛を握り潰さんと伸ばした右手が、逆に手首を下から掴まれ捻り上げられる。堪らず空いた左手で襲撃者の頭を殴ろうとするも身を屈めてかわされ、若者が襲撃者の背中に負ぶさるような形になる。そのまま背後から腕を回し、首を絞めようとした若者は、しかし背負い投げの要領で高々と投げ飛ばされ、その身体は畦道の上をごろごろと転がった。

 仰向けに倒れた獲物の腸を踏み潰そうと跳びかかる襲撃者の一撃は、若者が寸前で身をかわしたことで虚しく土を踏み叩くのみ。

 同時に、襲撃者に動揺の気配が生じた。

 彼が立っているのは白羽突き立ち手提げ提灯が明々と燃え続ける、つい先程まで若者が立っていた、まさにその場所。

 破れ提灯の炎と群雲むらくも流れ去りし夜空からの月光が、その姿を照らし出す。

「残照の術!」

 鮮明に映し出された襲撃者の姿は、黒覆面に黒装束。

 しかし、その口から驚愕と共に発せられた言葉が若者に確信を持たせた。

「やはり、先生!」

「誰が」

「おとぼけなさるな」

 柔術にも似た構えは崩さず、若者が続ける。

「暗闇にて仕掛けられた際に相手の正体が知りたくば、わざと隙を作りながら光源のある位置まで誘い出す。これを残照の術と名付けて口伝したるは外月流開祖、望月無乱ぶらん斎。また授けられたるは、私を含めた外月四天王のみ。合わせて五名のうち四名、いや三名は既にこの世のものではないのは確実。ならば残るは、弟子に殺されたと言われながらもついぞ死体が発見されなかった望月無乱斎、即ち貴方だけです、先生」

 ふん、と冷笑した襲撃者、いや望月無乱斎の身体から発せられていた殺気が、たちまち霧散した。とはいえ、この男ならば殺気を放たずに不意討ちで人を殺めるなど容易いことであるのは若者――山田大介も重々承知している。

「見破ったことだけは褒めてやる」

 もはや無用と悟ったか、あっさりと大介の指摘を認めながら黒覆面を脱ぐ襲撃者。

 その下からあらわれた老人の顔を見て、大介は軽く呻いた。

 在りし日の武芸者らしい引き締まった身体はすっかり痩せ細り、今となっては柳の木に襤褸ぼろを被せたかのようでさえある。

 毛髪はほとんど抜け落ち、頬肉が削げ落ちた顔には皺と傷の判別すらつかない亀裂が幾重にも刻み込まれ、失踪前と変わらないのはぎょろぎょろとこちらを睨みつける目玉のみという有り様。

「付け加えてやろう。常に襲撃に備え周囲を警戒し、且つ残照の術で儂の正体を看破した腕前も褒めてやる。流石は我が一番弟子。若輩でありながら外月四天王に名を連ねていただけはある」

「先生」

 大介は、ふっと息を吐いた。

「私は外月流を棄てました」

「嘘を吐け」

 即座に否定したのは、外月流は棄てられぬという開祖としての自負故か、或いは山田大介という一番弟子の人間性を知り尽くしているという思い込みからだろうか。

「ならば、儂を相手に僅かな時間とはいえ対等に渡り合っただけでなく、残照の術まで使いこなした、その技量はなんだ。外月流を棄て、日々の鍛錬を怠っているような男のそれではなかったぞ」

「兄弟弟子が次々と殺され、いずれこの日が来るであろうとなまくらながら再び腕を磨き直したうえで、用心に用心を重ね続けていたまでのこと」

「やはり、貴様だけは器が違う」

 望月無乱斎は、亀裂だらけの顔から数本しかない黄色い歯を剥き出した。

「それでこそ外月流の教えを受けた者の在るべき姿。たるみ切って隙だらけの下沢源之助しもざわげんのすけ真来田四善まきたしぜんとは月とすっぽんじゃ」

「先生。やはり貴方が下沢さんや真来田さんを」

「あいつらに、さんなど付けずとも良い。所詮は外月流の神髄を掴めずに終わっただけの弱者、凡夫どもよ」

「その下沢さんから手紙が届いたのです」

 飛んできた石礫つぶてを、大介はひょいとかわした。

 師匠の手癖は知り尽くしている。

 手を出したところで、本当は手紙の内容を知りたがっていることも。

「半年ほど前から弟弟子たちの死が相次いでおり、その殆どが事故か何者かの襲撃によるものだとのこと、心当たりがあれば何でも良いから教えてくれと書かれておりました。ついでに、もし君が犯人なら僕を殺めるのは止してくれたまえとか、かつての君と僕は同じ釜の飯を喰った仲であり恨みは無い筈だから自首か自決してくれ、とも書かれていたような気がします」

「自分に都合よく考える虫の良さは変わらぬまま、死んだか」

「殺したのは御自分でしょうに」

 下沢源之助は、山田大介と同じく外月四天王の一人であった。

 弟子入りしたのは大介の方が先ではあるが、年齢や親の地位、即ち外月流に喜捨きしゃする金蔓かねづるとしての有用性は遥かに上という源之助の立場と押し出しをおもんぱかり、腕前と年季は大介の方が上だとしても「下沢さん」と呼んでいた。

 また若年の大介は年上の門下生にも同様の態度を取っており、その腰の低さとうやうやしい態度から、しばしば他の門下生から陰で「茶坊主」なる不名誉な渾名あだなを付けられていたことも承知している。

 態度だけは敬意を払っていたものの、下沢源之助の失踪を知った大介の胸には、一片の悲哀も殺害者への憎悪も義憤の情も生じることは無かった。大介もその頃には、人当たりの良い下沢の外面だけではなく、その内面を知っていたからである。

「貴様の言う通り、奴は儂が殺した。源之助だけではない。外月流の門を叩いた者のうち、消息が掴める奴は粗方あらかた儂が殺した。文句あるか」

「外月流の門下生である以上、負けた破れた殺されたは総じて己が責なり。決して外に求むるに非ず。それは重々承知しております」

「ならば、問うこともあるまい」

「私が知りたいのは他でございます。先生、なぜそのような」

 殺しを続けるのかと問いかけようとして、大介は一旦言葉を止めた。

 殺害動機よりも聞き出したいことがある。

「そもそも貴方は下沢さん、いや下沢源之助に討ち取られたはずだ。少なくとも、私はそう聞いた。私が横浜に出掛けている間の出来事だ」

 刹那に無乱斎の身体から発せられたおぞましいほどの殺気が、間も置かず滅消した。

「討ち取られたのは長月橋のたもと。散歩の途中で下沢源之助率いる門下生の一党による襲撃を受けて敗死したと、巷間に伝えられております」

「ふん」

 大事件には違いないが

「儂を討ち取るだけの自信と命を捨てる覚悟があれば、何時でも仕掛けて宜しい」

と常日頃から豪語し、また

「不意討ち闇討ちを儂は一切誹謗せぬ。儂を殺した者が外月流を受け継ぐ者である」

とも宣言していた望月無乱斎である。

 付近の住民はさほど動揺せず、多少の内紛があった末に、外月流は無乱斎に止めを刺したと言われている下沢源之助が継承することで決着がついたのだが、その頃には既に大介は道場から立ち去り、遠くの地で隠遁同然の生活を送っていた。

「先生、あの日に何が起こったのですか? 何故、死んだはずの貴方がこうして生きているのですか? 一体何がどうなっているのですか?」

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