薄霧の中の幻影

紫鳥コウ

薄霧の中の幻影

 西紀にしきは一番鶏の鳴く頃に起き上がり縁側にでた。中庭には冷たい薄霧うすぎりが敷かれていた。正方形の庭の中点に伸びる一本杉の幹に、身ぐるみを剥がされて鎖で繋がれている自分の姿があった。西紀は、こうした幻覚を見るほどに自分は疲れているのかと愕然とした。霧が晴れれば花曇りの朝になるであろう。縁側を周り廊下にでてトイレに入り用を足しているとき、自分を呼ぶ声がするのに気づき振り返ってみたが、誰もいない。


 廊下は玄関へと延びている。床の木目に冷気が充満しており、足の裏がそこに触れると爪の先まで鋭い痛みが走る。玄関横に六花りっかの部屋がある。襖越ふすまごしに名前を呼ぶと「起きています」という返答があった。昨夜、早朝から外出する用があると言っていたことを、用を足したあとに思いだしたのだ。親切心は肩すかしを喰らう形となったが、すっかり目が冴えた西紀は、勉強でもしようと自室へと引き返した。


 中庭の一本杉には相変わらず、鎖に繋がれた裸の西紀がいる。が、よく見てみると、そのそばに紺の水干すいかんを着て烏帽子えぼしの紐を頑丈に結んだ男が立っていて、両手を裸の西紀の頭上にかざしている。のみならず、その両の手は燐光りんこうを放っている。


 この奇妙な幻覚に釘付けになっていた西紀だったが、その男がこちらを一瞥いちべつしてくると寒気を感じ、早々に退散しようとした。が、金縛りにあったかのように身体が動かなくなり、まばたきさえできなくなった。


 紺の水干を着た男は、鎖に繋がれた裸体の西紀に向けていた両手を天へと掲げた。すると燐光は薄霧を瞬く間に輝かせて、その光は西紀をも包み込んだ。神々しい光の中、女性の声が渦巻くように響いてきた。


金甌無欠きんおうむけつの王妃、曰く、天地開闢以来てんちかいびゃくいらいの聖人皆悉みなことごとく、淫奔いんぽんなる我を笑殺できぬ。誨淫かいいんしょ湮滅いんめつする事躊躇ためらわぬ君主といえども、我が濫淫らんいんを止めることあたわず》


 そこへ銅鑼どらが何度も鳴り、鶺鴒せきれいが前から後ろへ飆風ひょうふうのように駆けていく。


円転滑脱えんてんかつだつ光彩陸離こうさいりくり、我らの金甌無欠の王妃…………》


 読経どきょうのようなものが聞こえてきたかと思うと、次第に遠ざかっていく。西紀はバタリと倒れてそのまま中庭へと転げ落ちた。紺の水干を着た男は、意識を失した西紀を見やり、にやにやと笑った。そして、薄霧となって天上へと昇っていった。


 縁側に姿を見せた六花りっかは、中庭に倒れた西紀を見下ろしながら、嫣然えんぜんと笑った。


「天地開闢以来の聖人皆悉く、淫奔なる我を笑殺できぬ。誨淫の書を湮滅する事躊躇わぬ君主と雖も、我が濫淫を止めること能わず」


 西紀はずるずると何者かの手によって引きずられていき、一本杉の幹にくくりつけられた。それを見届けた六花は、玄関の方へと引き返していく。


 そこへ用を足しにいこうと西紀が縁側にでてきた。そして縄でくくられた自分の姿を見て、この頃の疲れの原因はなんであるのかを考えた。いつの間にか、冷たい薄霧があたり一面に敷かれている。

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