絵描きのパレットは自由の証でしょ?

「あぁッ‼︎ な、なんでいるのッ⁉︎」


 店の扉が開いてカランッとベルが鳴る。ほぼ同時に狼狽した声が聞こえた。


「なんでとは失礼ですね。ただの帰省ですよ」


 振り返るとそこには画材を抱えた店主がいて、まるで幽霊でも見たような反応をしていた。

 大人の数年はあっという間と言うけど、それは本当かもしれない。出て行く前と変わりない姿に安心すら覚えていた。


「なんで今⁉︎ 今まではもっと後だったじゃん……!」

「だってそれだと先生はどっか行っちゃうじゃないですか。だから会うために仕方なーく早めに帰ってきたんですよ」


 この店は毎年帰省するたびに示し合わせたようなタイミングで臨時休業している。周りには各地の展覧会を回る旅をしている、と話しているようだけどそんな嘘が通じるほど私は素直な子供じゃない。芸術家の先生がそういえば周りは文句を言えないとわかっていての嘘というのは心底タチが悪いと思う。


「ほんと、毎年懲りないですよね」


 彼女がいない夏を過ごしたのは過去二回。三回目を迎えずに済んで良かったとホッとする。

 事情というか、まぁ逃げる理由は主に私にあるのだけど、それはそれとして久しぶりに会う弟子から逃げる師匠という絵面は恥ずかしくないのだろうか。


「今年はとうとうこんな手紙まで残して……」

「ちょっと待って。まさか中身見たの⁉︎」

「まぁ見ますよね。先生いないし、そのうえで机の上に雑に置かれてたら、気になって読んじゃいますよ」


 彼女はもう言葉すら発しない。何を言っても遅いと悟ったのだろう。「マジかよ……」とでも言いたげな表情で頭を抱えていた。


「ま、まぁ、うん、もういいや。手紙は一旦おいておこう。それで今日は何用かな? わたしは予定があって──」

「キャンセルで」

「い、いや……強引すぎない?」

「強引でもないと先生は捕まりませんからね。それに、先生のワガママに比べれば可愛いものですから」


 冷静に自分の置かれた状況の立て直しを図ろうとする彼女に私は待ったをかけた。彼女のペースに乗せると逃げ切られてしまうのは経験上知っていたから何がなんでも自分のペースは崩させない。


「私がここに来たってことは、何を言いたいかわかってますよね?」

「もちろん。わたしの絵を買いに来たんだろう?」

「違いますよ」


 先生の絵が欲しいことに変わりはないが、だけど今の話ではない。

 それよりももっと重要なことがあるのだ。


「じゃあなんだろうね。また絵を習いに来たのかな? でもキミは十分に上手いし、わたしが教えなくたって」

「先生。先生の絵を描かせてください」

「…………」

「あーこら。無言で逃げようとしないでください」


 扉に手をかけた先生の腕を掴み引き寄せる。

 先生には逃げる様子も腕を振り払う素振りもない。観念したのだろう。ただ複雑そうに、苦虫でも噛んだような表情をするだけだった。


「なんでそこまで嫌がるんですか? 私のことはよく被写体にしてたくせに」

「昔の話でしょ。それに描くのと描かれるのは話が違うじゃん」

「そうやって逃げるのやめてくださいよ。さすがに疲れました」

「なら解放してくれると嬉しいんだけど……」

「それとこれは話が別です」

「…………あー、もうわかったよ。被写体になればいいんでしょ、なれば……」

「はい。ありがとうございます」


 彼女は一度大きく息を吐いて、頭を掻いて、本当に仕方なさそうに了承の返事をくれた。

 言質を取ってしまえばこっちのもの。私は早々と画材をかき集め、散らかっているアトリエの一角に椅子を置いた。


「それにしても、なんでそんなにわたしのことを描きたがるの? 面白いことなんてないでしょ?」

「何言ってるんですか。ありますよ」

「え? たとえば?」

「大切な景色は残しておかないと、もし無くなっちゃったら全部忘れちゃうじゃないですか」

「…………」


 忘れたくないものなんていくらでもある。いくらでもできるのだと知ってしまった。彼女と出会ったせいだ。知らなかったことを全部彼女に教えてもらってしまったから、私は忘れたくないものが増えてしまった。


「先生の責任でもありますからね。責任は果たしてください」

「わたし、関係なくない?」

「私にとっては関係なくないです」

「……うん。知ってる」


 彼女は静かに笑って、椅子に腰をかけた。

 すれ違った時に馨った画材の匂いに懐かしさを覚える。

 あぁどうして同じものを使っているはずなのに、こんなにも違うもののように感じるのだろう。その謎は、どう頑張っても解けやしない。


「でも私、人を描くのって慣れてないので、もし上手く描けなかったらその時は先生が助けてくださいね」

「えぇ……? わたしを描くのに、わたしに手伝わせるつもり……?」

「先生は私の師匠ですから。絵のことで困ってる弟子を助けない、なんてことしませんよね?」

「……はぁ……本当にキミって子は問題児だよ……」

「先生にだけは言われたくない言葉ですね」


 少なくともこの絵は私の好きな色だけじゃ完成しない。先生と一緒に描いてこそ、より際立つことだってあるのだ。

 先生ならどんな色使いをするのだろう。きっと私が思い描いていない奇抜なことをしてくるに違いない。もしくはシンプルなのにとんでもない作品を生み出すに違いない。そんな予感がしていた。

 だって私の先生は、いつだって期待を超えてくるヤバい人なんだから。

 先生のパレットにはいつだっていろんな色が並んでいる。乱雑で隙間なく、勢いのままのように見えてどこか一貫性があって、「絵描きのパレットは自由の証でしょ?」なんて笑顔で言い切るような人、他に知らない。


 描きたい絵に嘘はない。むしろ嘘をつきたくなくて私は絵を描いている。これから先もそのスタンスは変わらない。見てきた美しいものを、色々な世界の色を、この目で見て、残したいから。


「それじゃ、とびっきり可愛く描いてね」

「私はありのまましか描けませんから」

「そこは嘘でも描けるっていいなよー」


 机の横並ぶ画材から真っ白なキャンバスを抜き出しイゼールに置く。鉛筆を持ち、立てた親指を被写体に向けてみた。


「先生。恥ずかしいからって動かないでください」

「はいはーい。わかってますよー」


 初めてやってみた画家のポーズは様になっているだろうか。

 先生には、私はどんな風に見えているのだろうか。

 自分にはわからない景色が、今日も一つ増えていく。

 けどそれも悪くない。今ならそう思える。

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あなたの待つアトリエにて 三五月悠希 @mochizuki-yuki

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