あなたの待つアトリエにて

三五月悠希

この手紙、どうしようかな

『拝啓、おバカな弟子様。キミの見る世界が、これから見続ける世界が、どうか希望に満ちた温かな居場所でありますように』


 私が店を訪ねた時には、その手紙は野ざらしのまま机の上に放置されていた。

 ありふれた便箋と真っ白な封筒、その横には花の描かれた封蝋があった。まさにこれから手紙を送ろうと準備を進めていたのだろう。現状維持のまま、手紙は役割を果たすことのできないまま、仕方なくここに留まることとなった文字列に目を通す。

 体調はどう、とか、上手くやれているのか、とか、ご飯はちゃんと食べてるのか、とか。大人になって数年経っても私を子供扱いしてくる姿勢は変わらない。そしてその後に続くのも昔から決まって絵の話だった。

 知っているつもりではあったけど、あいかわらず彼女から飛び出すのは絵の話ばかり。二枚目から長々と続くのは、前半と打って変わって絵に関わらない人が見れば理解できない文字列の集まり。達筆な字は少しだけ読みにくくて、彼女そのもののように思えた。

 おちゃらけていて、なんでもできる器用さがあって、なのに適当で、好奇心旺盛でコミュ力オバケな地元じゃそこそこ有名な変わり者。人に興味津々で、そのくせ一定以上近づかせない。臆病で時に真面目で……私はなんだかんだ彼女のそういうところが好きだった。


「キミの見る世界が、か」


 彼女にとって世界はどんな色をしていたのだろう。

 この場所に頻繁に訪れていた頃には聞かなかったことが今になって気になってしまう。


「先生が見てきた世界は、希望に満ちた温かい居場所だったのかな……」


 きっと聞いてもはぐらかされただろう。それをわかっていたから聞かなかった部分もある。旅好きで、ここに来る前は色んな場所を転々としてきたような人だ。暗さも人より知っていることは容易に想像がつく。

 「女はミステリアスな方がモテるんだよ」とかなんとか言ってたっけ。そこで初めて変人とミステリアスは同居することを知った。

 知らなければ何も思わなかったかもしれないのに、彼女はいつだって人の心を掻き乱して独りで去っていく。そういうのはうんざりだってのに、彼女だってわかってるからそうするのだ。


「……ほんと、ひどいね。こんな手紙でバイバイしようなんてさ」


 掻き乱すだけ掻き乱すなんていい大人のくせにどうなんだろう。

 将来とか夢とか散々こっちを悩ませておいて、自分は目を逸らして逃げるなんてさ。放置されるこっちの身にもなってほしい。

 なんて人だろう、ほんと。けどそこも正直嫌いじゃなかった。


 彼女がこのアトリエを開いたのはもう十年も前のこと。色々な土地を転々としていた彼女だけど、相当ここが気に入ったらしく貯金をはたいてアトリエを開いたらしい。元々芸術家であった彼女が描いた絵と旅先で作ったツテから入手している画家たちの絵が販売され、その傍らで小遣い稼ぎ程度に美術教室を開いている。

 私もその生徒の一人だった。通うことになったのは、正直成り行きではあったけど。

 通うようになって、色んな人たちと関わるようになって、意外だったのはこの辺りの大人も子供も関係なく芸術に興味のある人たちが多かったことだった。娯楽の少ない片田舎だったから、というのも理由の一つなのだろう。彼女の教室は開店して三年も経った頃にはそれなりに盛り上がっていた。

 絵は、たいそうな額で売られているもんだから手を出す人はそういないが、彼女はお金に固執していないからたまにの売買でどうにかなっているようだった。

 そんな彼女は、私が帰ってきた頃にはいなかった。

 私は先生がいると思っていたから帰ってきたのに、まさかいないなんて。そのうえでアトリエに残された手紙を見て、こっちがどんな気持ちになるか考えていない。本当に、ひどい人だ。


「…………それにしても、やっぱり先生の絵は何度見ても引き込まれるんだよなぁ……」


 手紙を置いて、店内を歩き、飾られている作品を一つずつ眺めていく。

 彼女の描く作品は儚い。特に植物や生き物を描かせたら右に出る者はいないのではないかと思うくらい命が表れている。淡い色使いではないはずなのに、どうしてそんな表現ができてしまうのか。

 真似できない。十年経った今でも追いつける気がしない。こんな才能を持った人がどうしてこの場所を生涯の拠り所としたのか。気の迷いとしか思えないが、気を迷わせてくれたからこそ私は彼女と出会えたのだと思うと、彼女が変人でよかったと心から思った。


「どうせなら、出ていく前に買っていけばよかったかな」


 店の一角に飾られている一枚の絵。彼女にしては珍しく景色を描いたものだった。

 高台からこの街を見下ろした風景。美術の写生大会で私も何度か描いたことのある街並み。なのにそれは全く違うものに見えて、一瞬にして私の心を掴んで離さなかった。

 私が景色を描きたいと思った憧れの作品。それが先生の描いたこの街だった。


「ま、それはおいおい考えるとして」


 アトリエ内を一周し終わり、私は再度机に向かった。椅子に腰をかけて、頬杖を突きながらもう一度手紙に目を通す。


「……この手紙、どうしようかな…………」


 机に戻って再度手紙を眺める。彼女にしては赤裸々な文字列は何度見ても面白い。書き直した跡は不器用の証だ。きっと最後のつもりだったんだろう。でもいい思い出で終わらせようと思ったから普段通りを装ったのだろう。

 先生は、この手紙をこんな早く見られているとは思ってないんだろうな。私がここにいることを知ったら一体どんな反応を──

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る