四品目「上品なたまごの割り方」那月side
この一室に、私の居場所はなかった。思えば、私は花音ちゃんの何者でもない。花音ちゃんは部屋を貸してくれて、お布団もパジャマも揃えてくれて、いっぱいしてくれるのに。私はごはんを作るだけでほとんど返せてない。
「ねえ、花音さんはいつ帰ってくるかわかる?」
「いえ」
「わかんないの?」
そういえば、私はなにもわからなかった。花音ちゃんのことが好きなのに、誕生日すら知らない。私は急いで玄関に向かって、靴をつっかけて、部屋を出た。精いっぱい、逃げた。
その姿は「お、おぼえてろよ!」なんてセリフを吐いて撤退する悪役みたいで、とっても惨めだった。きっと花音ちゃんも恋愛したいだろうし、そうなったら私は邪魔な存在で、わるものだって思った。
それからは、できるだけ遠くまで逃げようと思ったり、花音ちゃんのところに向かおうと思ったり、行き先も定まらないまま駆けた。
こうして夜を走っていると、層を感じる。たしかに家を出たときと、駅前では空気が違う気がするのだ。学校でも、地球は層でできてるって教わった。内核から始まって、マントルなどが重なって、地殻の上に私が立っている。そして理解しがたいが、上空にも成層圏やオゾン層などが積み重なっているらしい。
そう考えると、世界は大きいたまごだった。黄身が大地で、私たちは白身に生きていて、いま私はそこから弾かれて、抜け出そうとしている。この世で生きていけないから、殻を破って新しく生まれ変わろうって。今回の人生は捨ててしまおうって。
急いで頭が回る。飛び降りは痛そうだとか、首吊りには道具が必要だとか、自分にとっての殻の外はどこにあるのかとか。そういったこと、ひとつひとつに悩んだ。そして、冷静かつ衝動的に。私は水に誘われることとなった。すこし行ったところに江戸川がある。昼間こそ土手で草野球が行われているが、こんな夜中に人はいないだろう。私は新しく生まれることができるって、住宅街の角を走って曲がったとき。目が合った。
スーツの姿で、手には特売のたまごの入ったビニール袋。はじめて会ったときから変わらない、子どもを見るような柔らかい目線——花音ちゃんだった。
「え、伊月ちゃん?」
「あ、あの……」
「こんな時間にどうしたん、外に出て」
「かのんちゃん」
腰の力が抜けて、私は座り込んでしまった。よかった、助かった。花音ちゃんはいつだって、わるものの私にも優しいヒーローだった。
それから事情を説明した。花音ちゃんの元カレが部屋に現れたこと。ストーカーの過去を思い出して、動けなかったこと。自分の居場所がひとつもないと感じて、夜に逃げ出したこと。死のうとしたこと。花音ちゃんはそのすべめを受け止めたあと、たくやのバカってこぼしてた。
「たくや?」
「そう、たくや。元カレの名前。ほら、撃退しに行くよ」
「げきたい?」
「そう、撃退」
彼女のヒーローすぎる言葉に、笑ってしまった。そして、嬉しかった。花音ちゃんは元カレより、私を選んでくれたって、安心した。
もう見慣れた玄関の前で、花音ちゃんはたまごを構えている。手の中に眠るそれは、まるで手榴弾だった。彼女の感情が大きく眠った、合法的爆弾。
「ほら、那月ちゃんも」
「え?」
「一緒に戦うよ!」
たまご爆弾を手に取って、顔を見合わせる。ふたりで深く息を吸ってから、行くよ!っていう彼女の声で、戸を開けた。
白を基調とした部屋、緑のカーテン、黒のパーカの彼。そこを私たちは、黄色に染めた。花音ちゃんと彼は取っ組み合って、カンガルーのような喧嘩をする。花音ちゃんが優勢だ。彼のパンツの中に、生卵をいれて潰した。かっこよかった。私もあんな風に戦えたらって、手の中のたまごを見つめていた。
私はずっとやられっぱなしの人生だ。ストーカーに怯えて、隠れるように生きて。そんな自分では、本当に守りたいものは、きっと守れないから。私は一歩ずつ近づいて、彼に爆弾を投げた。
「私の花音ちゃんに近づかないで!」
その声は、夜に刺さる。激昂したふたりの間で、静けさが鳴る。見渡せすと、白い部屋は黄色くなっていた。卵パックには、最後の手榴弾がひとつ。私はそれを手に取って、もう一度、彼の前に立った。
彼は怒ったり、やめろと言ったり、そうしていると思えば諦めた顔をする。その顔はおいしそうだった。醤油を垂らしてもいいし、塩コショウで焼いたっていい。私はそこに最後の爆弾を持って行って、彼の頭で小さくひびを入れて、そして割った。上品なたまごの割り方だった。
その後のことはあまり覚えていない。警察が来て、彼は住居侵入罪で捕まった。たまごで溢れたしあわせな部屋で、ふたりで笑っていた気がする。べたべたーなんて言い合って、殻を探したりした。そして、こんなどうしようもない関係が、ずっと続けばいいのにって願った。
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