エピソード23

かがりの家の近くの公園は、いつの間にか新緑が深くなって、もうすぐ夏がやってくる準備をしていた。


木漏れ日がかかる木の下で、志貴と少し離れてベンチに座る。


「……大家さんに会ったんですね」


かがりは、そのまま持ってきた巾着を手に包んで見せた。


「……はい。来た時にちょうど大家さんがいらっしゃって」

「そうでしたか」


やさしくそよぐ風が、二人の髪の毛を揺らす。


「…私が、あのアパートに住み始めたのは、高校1年生の時でした」

「……」


公園の風景を見ながら、当時の思い出を懐かしむ。


よくこのベンチで、図書館から借りた本を読んだり、課題の教科書を読んだり、たまにぼーっとしたり。


あれから気が付けば10年以上経って、あの時この公園で遊んでいた子供たちも大きくなっただろう。


「…ずっと、お世話になっている方です」


大家さんはこの10数年、やさしく見守ってくれて、守ってくれた人だ。


今は家族がいない彼女を、今度はかがりが最期まで見守りたいと思っている。


「……大事な、人ですね」


志貴は前を向いて、公園を眺めながら答えた。


「はい。いつもこの金平糖をくださって、元気をくれるんです」

淡いピンク色が、木漏れ日に照らされて明るく光る。


いつだって、かがりの背中を押してくれるのは、彼女の周りにいてくれる人たちだ。


志貴にかがりの居場所を伝えた舞も、金平糖を託してくれた大家さんも。


かがりに一歩踏み出してほしい、そんな思いが見えた。


ここで彼に会わないように避けて生きていくことだってできるだろう。


時間がたてば、記憶も薄れていくと思う。


けれど、もうこんな人は現れないかもしれない。


温かくて、くすぐったい人。


かがりは手に持った巾着をきゅっと握った。


「……私が高校生から一人暮らしをしているのは…」


前触れもなく話し始めると、横で彼が少し姿勢を整える衣擦れの音がした。


こういう風に向き合おうとしてくれるのは、きっとこの人しかいない。


すべてを打ち明けて、受け入れられないならそれまでだ。


「父が…、アルコール依存症になって、母親と離婚したからです」

「……」


返事はなかった。


それでもかがりはそのまま続けた。


「離婚する数年前にリストラされて、そこから働かなくなって、毎日お酒におぼれるようになりました。…それよりも前に、母親の不倫を知っていたからだと思います」

「…え…」

「母はずっと昔から不倫してたみたいなんです。…私の小学校のクラスの担任の先生と」


かがりは雲一つない空を見上げた。


あのころは、空を見上げるなんてことをしたことがなかった気がする。


毎日が早く過ぎ去ってほしくて、学校から帰っても、公園のベンチに座って、暗くなるのを待っていた。


母に会いたくなかったから。


すると、月がきれいに登るころに、いつも仕事帰りの父が迎えに来てくれた。


『まーたここにいた』


たまにベンチではなく、滑り台の下の土管の中に隠れていたりすると、父は困ったように笑って見つけてくれた。


『お父さん!』

『今日は寒いからおでんにしたぞ。…今日もお母さんは仕事が忙しいみたいだから』


掲げたビニール袋から立ち上る湯気。


母親が遅いときはきっと担任の先生と会っていたんだろう。


それでも子供心に父親を困らせまいと、知らないふりをし続けた。


あの時は父がいてくれたらそれでよかった。


かがりのために働いて、急いで帰ってきてくれて、料理はできないけど、かがりが喜びそうなものを買ってきてくれる。


『よし、帰るぞ』


差し出された手をぎゅっと握り、二人で家路につく思い出がよみがえる。


あれから20年近く経ち、大きくなった手を見つめる。


父と手をつなぐと、寒かった外も温かかった気がする。


「……私が中学生になったころ、会社の業績不振でリストラされることになったんです」


大きい会社ではなかったものの、親会社の業績不振は、父が働く小さな子会社にも影響が及んだ。


かがりを養うために、何とかリストラされないようにできないか、あらゆるところに掛け合っていたが、それも無駄に終わってしまった。


中学2年生になる前に、父はリストラされた。


その時から、よく父と母が喧嘩している様子を見るようになった。


これからの生活費、かがりの養育費、家賃、お金がかかることはたくさんあった。


それでも何とかやりくりしようと、なけなしの貯金を崩しながら生活していた時に、


「…母が妊娠しました」

「……っ」

「もちろん、それは父の子ではありません」


薄々気付いていた父は、かがりのために、養育費分の慰謝料だけもらって、すっぱり離婚するつもりだった。


しかし、かがりの母はこれまで見栄を張って、相手にさんざんお金を使ってきたようで、貯金はほとんどなく、慰謝料を払えるような状況ではなかった。


これから生まれてくる子供のお金を心配しなければいけないほどに。


『…お父さん、私も働く』


毎日、資金繰りに苦しんでいる父にそういった。


こんな状況でも、父は首を横にしか振らなかった。


その時からだ。お酒におぼれるようになったのは。


「…やるせない気持ちを忘れるためには、もうお酒しかなかったんでしょうね」


毎日転がる酒瓶を片付けながら泣いていた自分を思い出した。


もっと大人だったら、もう少し違う未来が待っていたのだろうか。


父はいつでもかがりのためだった。


それでももう限界だったのだろう。


「それからです。父がアルコールのせいで暴れるようになって、病院でアルコール中毒と診断されたんです」


学校に通っているかがりに父親の面倒を見るのにも限界がある。


家から出ないように、と言ってもお酒を買いに出て行ってしまうし、いつの間にか飲んで、人の家の壁を壊したり、何度も警察に迎えに行っていた。


中学を卒業する直前、主治医の先生に、父を療養病院に入院させることを勧められた。


女一人の手で、大の男を止めることは難しいし、このままだと高校に通うことすら難しくなる。


これを機に家を引っ越して一人暮らしをしながら、ちゃんと学生らしい生活をしたほうがいい。


父のことは心配だったが、自分一人でどこまで面倒を見られるのか、不安だった。


しばらく考えて、その提案を受け入れた。



「…それから、私の生活はここで始まったんです」

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