エピソード21
古いアパートは、外の音がよく聞こえる。
隣の人が帰ってきたとか、大学生が道路で大騒ぎしているとか。
かがりは誰かがゆっくりアパートの階段を登ってくる音が聞こえて、ソファから体を起こした。
そしてその足音は、かがりの部屋の前で止まる。
「……?」
大家さんだろうか。
かがりはふと棚の上に置かれた小さな巾着を見た。
大家さんが定期的にくれる金平糖。
いつも季節に合わせた花柄で、かわいい巾着に入っているのをいただく。
大家さんがまだ家族と暮らしていたころ、娘さんにあげていた習慣なんだそう。
悲しいことやつらいことがあっても、甘い金平糖を食べれば元気になると。
かがりはこのアパートに引っ越したてのころ、父親のことでいろいろあった時に、そう言って金平糖を手渡してくれた。
それ以来、つらいことがあったときは、無意識にこの金平糖を口に含んで心を落ち着かせていた。
コトン。
扉に付いているポストに入れた音がした。
かがりは大家さんだと思い、ドアに向かって歩いていった。
見ると、思った通り、ポストには桜色の巾着がある。
「…大家さん…?」
そう言って玄関の扉を開けると。
「……っ」
すらっとした、身長の高い背中が少し先に見えた。
背中を小さく曲げて、今にも階段を降りようとしていた。
しかし、かがりの開けたドアの音に気付いたのか、驚いたようにこちらを振り返っていた。
「……かがりさん…」
***
受け取った巾着を見ながら、ゆっくり階段を登っていた志貴は、急に不安にかられてきた。
もう会わないと言った相手が、こうやって家まで押しかけるなんて。
どうしても会いたい一心で来てしまったが、ふと冷静になると、あまり好感の持てる行動じゃない気がする。
そう思いながらも、もうここまで来てしまった。
ゆっくり、ゆっくり、階段を踏みしめながら登る。
『…かがりは、あなたにもらったペンギンのぬいぐるみを大事にしているの』
ここに来る前に、舞に言われた言葉だった。
あの時は、純粋に一緒に過ごせたことが楽しくて、何か思い出になるものを、と思ってあげたペンギンのぬいぐるみだった。
感想も独特で、感性も不思議で、目が離せなかった。
同じ気持ちだと思いたかった。
志貴も、あの時の5,000円札を大事にしていた。
かがりにもらったくすぐったい気持ちも、温かい気持ちも、嘘じゃない。
そう再認識しながら、扉の前に立った。
ドアノブに手をかけようと伸ばす。
しかし掴めずに、その前で手が止まった。
『あなたにもらった優しさも、苦しいくらい大事にしてるから』
舞の言葉が脳裏に響く。
「……」
志貴がかがりに優しさや愛しさを伝えるたびに、彼女は苦しんでいたのだろうか。
そう思ったら、手が動かなかった。
自分がこんなに優柔不断だと思わなかった。
こうやって何度も肯定して、そのたびに何度も否定して。
今もこのドアノブをつかむ勇気がない。
志貴は、それ以上伸ばせない手を、力なくおろした。
そして、反対の手に握っていた小さな巾着を見る。
これは大家さんからのエールだ。
きっと、かがりと、そして志貴への。
自分の不甲斐なさへ落胆しながら、そっとポストにその巾着を入れた。
扉の向こうでコトンと入る音がする。
それを見届けて、志貴はゆっくり扉に背を向けた。
これが本当の自分なのだ。
これ以上嫌われることに恐れて、肝心なところで踏み出せない。
外見だけ取り繕って、みんなにいい顔をして。
階段を降りる手前、最後に一目見たいと思い、扉のほうを振り返った。
年季の入った扉。
毎日彼女が仕事に行くために開け、帰宅して開ける、扉。
その姿を想像しながら、ふと小さく笑った。
そして階段を降りようと足を踏み出した時だった。
ガチャ、と扉が開く音がした。
見るとそれは、さっきまで想像していた風景と全く同じで。
あの扉から、彼女がこちらをおそるおそる見ていた。
もう現実か幻かもわからない。
「……かがりさん…」
消えないように、つなぎとめたくて、消え入るような声で彼女の名を呼んだ。
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