エピソード20

かがりは溜まっていた有給休暇を利用して、退院後も自宅で療養期間を過ごしていた。


体調は万全、とまでは行かなくても、軽く動くくらいならもうなんともない。


ぼーっとテレビを見たり、本を読んだり、家の掃除をしたり。


たまに図書館まで散歩したり。


かがりにとっては穏やかな日々を過ごしていた。


志貴と過ごしていた時間が夢だったんじゃないかと思うほど、これまでと変わらない、かがりの時間が流れていた。


しかし、ふとした時に感じる喪失感に、夢ではなかったのだと思い知らされる。


ベッドの端にちょこんと座るペンギンのぬいぐるみ。


なかなか落とせないでいるラベンダーカラーのネイル。


恋なんて、始まってもいなかったのに、なんだか失恋をした気分だ。


世間一般の恋人たちは、別れたら思い出も品も全て捨ててしまうのだろうか。


かがりはゆっくりペンギンのぬいぐるみを見た。


もふもふで暖かくて、まるで彼を形にしたようなぬいぐるみ。


触れ合うと温かくて、ふわふわした気分になる。


ぽっかり空いた穴を埋めるように、ペンギンのぬいぐるみをぎゅっと抱き締めた。


「(…私が、)」


舞だったら、きっと全てが上手くいっていたのだろうか。


医者の娘で、素晴らしい両親に育てられて、将来も約束されていて、それでいて気さくで優しい性格の、彼女のような人だったら。


自分だって、不幸なだけではないと思っている。


優しくて見守ってくれる大家さんがいるアパートに住めているし、大学では舞とも出会えた。


仕事は充実していてやりがいもあるし、のんびり過ごす休日も悪くない。


「……」


なのに、彼に出会ってから、欲張りになってしまったみたいだ。


一緒にいたい、なんておこがましいことばかり考えている。


身の丈に合わない望みはさっさと捨てなければいけないのに。


かがりは、目を閉じた。


頬を、温かいものが伝う。


もう枯れたと思ったのに、いくらでも溢れ出てくるものなのか。


それを隠すようにペンギンの背中に顔を埋めた。




***


志貴は走っていた。


舞に教えてもらった目的地を目指して。


見慣れない街並み。


懐かしい雰囲気が漂う住宅街。


そこで彼女が生活している姿を思い描くと、キラキラ輝いて見える。


本当の彼女のことは何も知らない。


けれど、彼女だって志貴のことは何も知らない。


だから、始まってもいないのに、終わらせることなんて出来ない。


久しぶりに全力で走ったせいか、足がガクガクしてきた。


さすがに三十路の体には響くようだ。


でも、1分でも1秒でも早く会いたい。


その思いだけが志貴の体を突き動かしていた。


しばらくして見えて来たのは、年季の入った古びたアパートだった。


アパートの前で、腰の曲がったおばあさんが、草むしりをしている。


上がる息を整えながら、志貴はおばあさんに近づいた。


「…あの、」


声をかけると、優しそうな表情をしたおばあさんがゆっくり顔を上げる。


「…や、山田かがりさんは、こちらに…」


尋ねたものの、不審がられるかもしれない。


いきなり声をかけて、驚かれるかもしれない。


そう思ったら、言葉が続かなかった。


しかし、おばあさんは何かを悟ったのか、じっと志貴の顔を見つめると、ふっと微笑んだ。


「…おや、まぁ」


なんだか少し嬉しそうで、志貴の方が戸惑いを隠せない。


むしった草を、ほかの草の山に乗せると、「よっこいしょ」と腰を支えながら起き上がった。


「ちょうど良かった」


おばあさんはにっこり笑うと、付けていた花柄のエプロンのポケットから小さな巾着を出した。


桜色の綺麗な柄が描かれた手のひらに収まるサイズの巾着だった。


「そろそろ無くなると思ってね」


そう言って、その巾着を志貴に差し出した。


「お前さんが届けておくれ、かがりちゃんに」

「え…?」


おずおずと差し出した手のひらに乗せられる巾着。


何やら丸いものが入っているのか、カランコロンと中で転がる音がした。

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