エピソード8
志貴は自宅に着くと、煌々と輝く月明かりのまま、冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、ベランダに出た。
さっき、彼女と一緒に見た満月が、まだ大きく輝いている。
カシュとビールの蓋を空け、ぐいっとあおる。
志貴は不思議な気持ちだった。
普段なら、帰り道に女性と会っても声は掛けない。ましてや食事に誘うなんてないし、次回の約束を取り付けたりもしない。
なのに、帰り道、見覚えのある後ろ姿に、どうしても声を掛けてみたくなった。
いきなり声をかけたら、驚くだろうか。焦るだろうか。
本人は隠しているつもりでも、全部表情に出ているのを見るのは楽しい。
困っている時も、考えている時も、何を思っているのかなんとなくだが、すぐにわかる。
それを良かったと思ったのは初めてだ。
「……」
もう一度月を見上げて、ビールを喉に流し込んだ。
きっとそれは、彼女が志貴の顔じゃない、他のところをたくさん見てくれたからだと思う。
箸の持ち方を褒められたのなんて初めてだ。
意識をしたことが無かったから、なおさらびっくりしたし、嬉しかった。
そのあとのお会計のシーンも思い出して、「ふっ」と一人ベランダで笑みを漏らす。
あれは絶対に、割り勘をしようとしてお金を出したが、こういうデートの時は男性に華を持たせるのが正解だと思い至って、出したお金をどうすべきか悩んでいた顔だ。
ポケットから二つ折りの財布を取り出す。
そこには彼女の出した5,000円が入っていた。
今度はこの5,000円で。
その言葉に嘘はないし、本当に行きたいと思っていた。
いろんなことを一生懸命に考えて、コロコロ変わる表情が面白い。
考えていることも一切隠せておらず、全部出てきてしまっているのも面白い。
志貴は大切にその5,000円札を財布にしまった。
「(次はどこに行こう)」
そう考えるのは人生で初めてかもしれない。
天気の良い日だった。
かがりが5,000円で払えるところは、レジャー施設くらいしかなく、大人2人でも楽しめる(と思われる)水族館に行くことにした。
舞から動きやすそうなデニムパンツを借りて、薄手のトップスを合わせる。
普段はこんな恰好はなかなかしないが、舞のコーディネートなので仕方がない。
約束の時間の15分前くらいだった。
腕時計を見ながら、時間まで余裕があると思ってゆっくり歩く。
すると、待ち合わせ場所にはすでに彼がいて、漫画でしか見たことがないような人だかりを作っていた。
「(…あれがイケメンパワー…)」
現実世界に本当にイケメンを囲む女子がいることに感心してしまった。
世の中の女性たちはとても勇気がある。
かがりだったら絶対声は掛けられない。
知らない人に掛けることもできなければ、迷惑そうな顔をされたら傷ついてしまう。
そんなことをしみじみ考えていたら、こちらに気付いた彼が右手を上げた。
同時に周りにいた女性たちもかがりの方を見る。
少し遠くて何を言っているかわからないが、絶対に「あの子が彼女?」「地味過ぎない?」等の少女漫画要素満載のセリフをつぶやいているに違いない。
彼は、女性たちを「じゃあね」と振り切ると、足早にこちらにやってきた。
平日の帰りのラフな出で立ちとは違い、レザーのジャケットに細身のパンツを合わせた、スタイル抜群のファッションだ。
「…す、すみません、お待たせしちゃって」
「全然。むしろ、この前のイタリアン、びっくりするくらい舞さんが早かったので、今度は俺が待とうと思って」
「え…?」
「あと、さっき、絶対『漫画みたいに女の子に囲まれてる』って思ってましたよね」
彼はそう言って楽しそうに笑う。
「え…!?」
なぜバレてしまったのか。かがりは慌てて頬を押しつぶして表情を消そうとする。
「なんか、わかっちゃうんですよね」
失礼な話しかと思ったら、本人は何も気に留めてないようで、さらに楽しそうなので、かがりが恥ずかしいだけの話しだった。
「……見ないでください」
「イヤです」
「えぇ…」とショックを受けているかがりの手を、彼がつかんだ。
大きくて、思ったよりも少しだけひんやりした手。
「行きましょう。おごってくれるんでしょ?」
「えぇ…」
語彙力を失ったかがりは、彼に手を引かれるまま水族館の中に入って行った。
無邪気というのはこういうこと。
と辞書に載せたくなる光景だった。
大ぴらに大騒ぎしているのではなく、水槽の前に立って、静かに目をキラキラさせている。
きっと本当は水槽に手を付いてのぞき込みたいのだろうな、と想像がつく。
しかし、周りにいる子どもたちに気を使って少し後ろから水槽の中の様子をじっと見つめている。
キョロキョロと水槽の中の生きものを探し、時折、急に迫りくる魚にびくっと肩をすくめる。
そして、定期的にこちらを見て、はぐれていないか、志貴の存在を確認する。
目が合うと、ホッとしたように目を細める。
志貴は水槽の生きものそっちのけで彼女の様子を見ていた。
可愛い、とはこういう事をいうのだろうか。
外見の可愛さじゃなくて、行動の可愛さ。
彼女が望むものを叶えてあげたいとすら思う。
医者の一人娘なのに、イタリアンは初めて食べたかのように感動して、居酒屋に行ったら割り勘しようとして、水族館では子どものようにワクワクしている。
「(…こりゃ、両親は溺愛だろうな…)」
志貴はそっと彼女に近づき、触りたそうにもぞもぞ動く手を握った。
驚いたように目を丸くして見上げる。
そしてゆっくり水槽に近づくと、手を握ったまま水槽に手をついて中を見上げて見せた。
すると彼女は嬉しそうに微笑むと、空いている反対側の手も水槽について、一緒に水槽の中をのぞき込んだ。
綺麗な熱帯魚がひらひら気持ちよさそうに泳いでいる。
「好きな魚はなんですか?」
「魚、ですか…?魚は、見ているのは好きですが、そんなに好きって程じゃ…」
その答えに、志貴は笑ってしまった。
「そんなに好きじゃないのに、そんなに真剣に水槽見てたんですか?」
「え…!そんな食いついてました…?」
「はい。ものすごく」
「……恥ずかしい…」
彼女は顔を隠そうとしたが、片方の手は志貴に握られているため、半分しか隠せてない。
そんな彼女を見ながら、彼は自然と微笑んだ。
「んじゃあ、強いて言うなら?好きな生きものは何ですか?」
「…ペンギンです」
「ペンギン!いいですね。じゃ、見に行きましょう」
そう言って少しだけ握る手に力を込めると彼女もうっすらと握り返してくれた。
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