エピソード2

ついにこの日を迎えてしまった。


かがりは舞に借りた薄緑色のワンピースを身にまとい、木造の古びたアパートの自室に設置してある姿見鏡の前に立った。


もちろん舞の私物は高級品で、かがりの部屋には似ても似つかない。


違和感しかないその姿を少しでも緩和しようと、ネットを見ながら練習したお嬢様風ハーフアップのヘアアレンジを施す。


ある程度整ったところで、壁にかけられた時計を見るが、まだ約束の時間の1時間前。


どうも緊張してしまい、早く目が覚めてしまったのだ。


遅刻するよりは良いだろうと思い、このまま家にいても仕方がないので、かがりは早めに家を出ることにした。


あまりは着慣れない、5cmヒールのパンプス。


普段のかがりとしての生活には必要ないアイテムだが、舞を演じるには仕方のない靴だ。


「(…さすがに黒のスニーカーで行くわけには行かないしな…)」


かがりはすくっと立ち上がり、丸いドアノブを回してドアを開けた。


彼女の故郷はここではない。


高校のときに親元を離れ、それ以来ずっとここに住んでいる。


もうかれこれ12年だ。


あの頃は、この古ぼけた木造アパートも、自分だけの自由な空間だと思うと、お城に来たような気分だった。


家具や家電も、お金がないなりに少しずつアルバイトをして貯めて買い揃えたお気に入りばかり。


しょっちゅう雨漏りはするし、強風が服と窓ガラスがガタガタなるような建物だが、かがりは居心地よく暮らしていた。


パタンときしむドアを閉め、小さな恐竜のストラップがついた鍵で施錠する。


これから少しの間だけ、この空間を忘れよう。


これからかがりはお金持ちのお嬢様・舞になって、医者の跡取り息子と少しだけの出会いを演じて、きれいさっぱりお断りをする。


その時だけは貧乏人・かがりではなくなる。






指定された場所は、少しカジュアルなイタリアンのお店だった。


お昼の時間よりも少し早いからか、そこまでお客さんも多くない。


かがりは入り口に出てきた店員に待ち合わせてあることを伝えると、落ち着いたこじんまりとした個室に通された。


あまり気負いしないくらいのおしゃれなお店で、人目を気にしないように個室まで予約してくれるとは。


かがりは椅子に座りながら、「ふぅ」と小さく息をもらした。


「(…なんだ。勝手に医者の偉そうな御曹司だと思っていたのに)」


気遣いのできる男性だと思ったら少しだけ気が楽になった。


まだ来ていない、誰もいない向かいの椅子を見ながら口元を緩めた。


注がれた水を口に運びながら、昨日の夜に塗ったマニキュアが目に留まる。


普段はネイルなどしないが、舞に借りたワンピースを見たとき、すっぴんの爪で行くのが恥ずかしくなったので、急遽マニキュアを塗ることにしたのだ。


大学のとき舞をふざけて買ったラベンダーカラーのマニキュアがここで役立つとは思わなかった。


久しぶりに引き出しから取り出したときは油と色素が分離していたが、慌てて混ぜたらそれっぽくなったので、まぁよしとしよう。


春の木漏れ日が通る窓に向かって手を広げてみた。


たまにはこうやっておしゃれするのも気分転換になっていいかも。


そんなことを考えていると、後ろのドアが開く音がした。


「すみません、まさか先にいらっしゃるとは思わず…」


少し低めの落ち着いた声。


かがりは早く来てしまったことを後悔しながら振り返った。


「い、いえ…!こちらこそだいぶ早く来てしまってすみません…!」


恐る恐る顔を上げると、思っていたよりも少し上に目線が上った。


スラリとした体躯に、整った顔立ち。


少しだけ茶色みがかった髪の毛は、ゆるくワックスで整えられていた。


「……?」


かがりはそこで少しだけ違和感を感じて、じっと初対面の彼を見つめてしまった。


「(……あれ、…こんな感じの人だっけ…?)」


見えない目を細めてぼんやり見ただけのお見合い写真。


なんとなく感じた違和感に首をかしげそうになるが、目の前の彼は何事もなかったのように「一條透です」と名乗った。


これは紛れもなく一條家の跡取り息子だ。


かがりは気のせいと納得して同じように「西園寺舞です」と名乗った。


改めて向かい合うと、目の前の端正な青年になんとも気恥ずかしい気持ちになってきた。


職場でも、近所でも、こんなイケメンな青年を目にすることがなかなかない。


まともに視線を合わせられず、店員が用意していくナイフとフォークを眺めるしかなかった。


「…舞さん、とお呼びしても?」


視線が合わないことを気にしたのか、彼は少し覗き込むようにかがりを見て尋ねた。


かがりは少しだけビクッと肩をすくめながら「…はい」とうなずいた。


よくよく考えてみたら、生まれてこの方、28歳になるまで男性と付き合ったこともなければ、ちゃんと話したこともないかもしれない。


そんなかがりに密室空間での二人きりは難易度マックスだった。


しかし彼はそんな彼女を気遣うように、小さく微笑むと、当たり障りのない質問で少しずつかがりの緊張を解こうとしてくれた。


「舞さんはイタリアンはお好きですか?」

「え、えぇ…。好きです」

「良かった。舞さんの好みが分からなかったので、無難にイタリアンにしてみました」


そう言って笑う彼を見て、かがりもつられて微笑む。


「…お気遣い頂き、ありがとうございます」

「そんな。イタリアンくらいで気遣いだなんて」


首を振りながら答える彼に、答えを間違ってしまったのかも、と一瞬焦る。


しかし気を悪くした様子もなく、変わらず微笑んでかがりを見ている。


きっと舞はこんな感じじゃない。


しかし、それでも許してくれそうな相手の雰囲気に、かがりは少しだけ居心地の良さを感じた。

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