第5話

 005



「ここか」



 609号室はすぐそこにある。どうやら、特別治療用の個室らしい。



 俺は、見舞い用のフルーツバスケットをぶら下げて廊下を歩いている。ついぞ、あの女性の瞳の正体を掴むことは出来なかったが、悩んだまま金主に出会うのは申し訳ない。



 借りるときだけペコペコ頭を下げて、返すときは恨み節。そんなんじゃ向こうだって腹が立つだろうから俺は爽やかに接しなければ。真摯にやっておけば、支払い催促もある程度は落ち着いてくれるだろうし。



 そう考えて、病室の中へ入った。



「……よぉ、シンジ。久しぶりだな」

「……う、鵜飼さん?」



 俺の頭がおかしくなったのでなければ、目の前でベッドに横たわり、痩せ切った体にニット帽と病衣を纏い、鼻や腕に管を繋いでか細い呼吸をしているのはトリカイローンの鵜飼さんだった。



 忘れるハズがない。だって、俺に婆ちゃんとの思い出をくれた人だ。それが、こんなに弱った姿で。もう、生きているのがやっとじゃないか。



「ほ、本当に鵜飼さんですよね?」

「か、カカッ。オメーには、こんな姿見せたくなかったなぁ。最後までかっちょいい男で……ゲホッ。いたかったのになぁ……」

「どうしたんですか? そんなに痩せてしまって。だって、別れた時は健康そのものだったじゃないですか」

「持病だよ。俺は生まれたときから体が弱くてよ。無理やり燃やしてきた命の火が、とうとう燻っちまったってところだ」



 ……目を塞ぎそうになった。



 なんだ。



「ゲホッ……っ」



 なんなんだ、これは。



「ヒュー……っ、ヒュー……っ」



 その今にも死にそうな掠れた呼吸はなんだ? 色褪せて輝きを失った入れ墨はなんだ? これがあの鵜飼さんなのか? 俺のことを助けてくれた、甘え方を知らない俺の話を聞いてくれた、いつだって強さを見せつけてくれた男なのか?



 俺が憧れた男が、俺が初めて生き様に感動した男が、こんな――。



「それで、どうしたんだよ。オメー、どうしてここが分かった?」

「そ、その、ウチの大将が亡くなりまして。遺書に、鵜飼さんのマンションの住所が書かれてまして……」

「あぁ……。なるほど、そういうことか」



 言って、窓の外を静かに見る。



「あのジジイ、死んだのか」



 その言葉に、どんな感情が込められているのかが分からなかった。やがて、彼は震えながら俺が握っている遺書に手を伸ばしたから、何も言わずにシワクチャになった便箋を封筒ごと渡す。



 読んでいる間、俺は何も言えなかった。ただ、鵜飼さんが文字を目で追う仕草を眺め色々なことを考えたが、いつの間にか俺の中にこんな疑問が浮かんでいた。



 ――この人が、大将を殺したのか?



「なるほど。ジジイめ、余計なことしやがって」

「お金、貸してたんですか?」

「あぁ。まぁ、知っての通りもう債権なんか消え失せちまったけどよ。……いや。確か生命保険の受取人は俺の女のままだったか」

「あなたが、大将を死ぬまで追い詰めたんですか?」

「それが仕事だからな」



 強く歯を噛む。ギリ、という音が病室に響く。



「最初から、俺との関係を知っていたんですよね」

「あぁ」



 ……ッ!



「だったら! なんで俺に話してくれなかったんですか!? 誰かが少しでも話を聞いていれば、もしかしたら死ぬまで追い詰められることはなかったかもしれないのに!」

「そんなことしたら、オメーはジジイの分まで負債を背負うつもりだったろ」

「当り前じゃないですか! 俺には恩返しする以外に生きる価値なんてないんですよ! それだけが、俺がこの世界に存在していい理由なんですよッ!!」



 息を荒げてベッドを叩く。彼は少しも動じずに、しかし鼻で笑うようなこともせず、ただ俺の目をジッと見つめている。



「婆ちゃんのこと話しましたよね! 二度と後悔したくないって言いましたよね! なのに、どうして!! どうして俺に大将を救うチャンスをくれなかったんですか!?」

「……月野んところに行った娘、ありゃベッピンだったな。オメーが町家で一番だなんて言った理由もよく分かる」



 きゅ、急に何を言い出すんだ。



「弟の方は、そろそろ小学生か。あれも男前だろ」

「何が言いたいんだよッ! テメーッ!!」

「あそこのボンクラ社長はツラのいいガキが好きだからな。もしかすっと、どっちも月野が引き取ってると思ってたんだよ。大方、ヨソに自慢しまくってんだろうなぁ」



 ……その閃きは、まるで彗星のように俺の脳裏を掠めた。



 今日までの出来事が走馬灯のように思い浮かび、幾重にも立ちはだかる重苦しい理論の壁が脆く崩れていくような気がした。俺が心から嫌悪する、誠実でない恋愛の末路。好き勝手に侍らせて実らせた、ハーレムという形の語られないエンディングの正体。



 漠然とした恐怖が、今、俺の目の前に降り立ったのが分かった。

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