第3話(月野ミチル)

 003(月野ミチル)



 海だ。



 目の前には、とても大きな海が広がっている。潮風で髪が靡いて、暗い視界に纏わりつく。制服のブレザーだけでは寒いけど、気にならないくらいの早足で人気のない道を歩いていた。



 塚地さんが教えてくれた場所は、ここから数ブロック先にある。通りすがった交番でお巡りさんに聞くと、その辺りは少し治安の悪いベッドタウンのようだ。



 なんだか、寂しい街だ。妙に高級な家々がシンジ君の生い立ちへの不安を掻き立てる。彼の生い立ちを考えれば、こんな場所で育ったことなど考え辛いのに。



 海岸線の彼方へ目を向けると、ダウンタウンの光が空を青紫色に照らしている。あんな風にネオンで賑やかな場所も、実は私は嫌いではないけれど。シンジ君と出会ってからは、いつかこんな静かな場所で二人、おっとりと過ごしたいだなんて年寄りじみたことを思うようになっている。



 ……なんだか、些細な考え方まで彼に似てきてしまったような気がする。ずっと、みんなの憧れでいようとした嘘が解けたせいで、最近は思考が落ち着いているのに感情の起伏が激しい。



 そのせいだ、今の私の焦燥感は。早く会って安心したい、シンジくんが無事でいてくれているって、ただそれだけのことを知りたい。



 誰かに頼られ続ける彼が、誰にも頼れないで苦しんでいる。その事実だけが、私は心から辛いから。



「知らないわねぇ」

「……そうですか」



 夕飯の時間も過ぎて、とっくに眠る準備に入っている町。外に出ている人を探すのにも一苦労で、シンジくんを知っている人を探すのは更に難しかった。



 そもそも、この辺りに住んでいる人たちが知っているとすれば昔のシンジ君だ。例の盗撮写真……。



 いや、私が盗撮したワケではないですけど。山川くんがSNSに投稿したモノを勝手に保存しただけで。



 とにかく、今の彼の写真を見せたって、知っている人がいるハズもないのに。辿り着いて、もしかしたら僅かな面影に気がついてくれるかもだなんて期待して調査すること二時間。



 気が付けば、深夜になっていた。



 終電も無くなって、町家へ帰る手段も失われている。住宅街の静けさが耳を突き刺す。波の音が微かに聞こえる中で、人を探しながら最早何度目か分からない最寄り駅への往復を目指した。



 その道中、とある住宅の目の前でタクシーが止まった。サインを見ると『賃走』となっている。しばらくして降りてきたのは、白髪に眼鏡をかけた初老の男性だった。



「すいません」



 声をかけてシンジ君のことを聞くと、彼は困ったように首を傾げた。やはり、何度聞いても情報は得られそうにない。そろそろ別のアプローチを考えなければ――。



「あれ。でも、この模様は知っているよ。入れ墨だね?」



 それは、誤って操作したせいで写真がスライドし表示された代物。とある模様が写った用紙の記録、両親を知らない私の出生に関わる唯一の手掛かりだった。



「……これ、ですか」

「うん。わたしの病院に入院していた患者の腕に同じ入れ墨があった。わたしは、この先の丘の上で医者をやっているんだよ」

「別に、この男を探しているワケではないんです」

「はは。見た目に似合わない乱暴な言葉遣いだね。もしかして、なにか因縁でもあるのかな」

「失礼します」



 思わず頭にきて、私は彼との話を早くに切り上げてしまった。踵を返して山の上を見る。真っ暗で何も見えない景色をずっと見ていると、段々と目が慣れてぼんやり黒い影に気が付いた。



 あれが、さっきの人の病院だろう。あの場所に入れ墨の男がいた。シンジくんを好きになる前ならば情報を集めに行ったかもしれないけど、今となってはどうでもいいことだ。



 ……でも、病院か。



 もしかすると、入院している患者さんの中にシンジくんを知っている人がいるかもしれない。何となく、彼の知り合いはお年寄りの方が多いような気がするから、情報が集まってくるなら病院というのも合理的な考え方のような気が――。



「……え? シンジ、くん?」

「……よぉ、奇遇だな」



 緩やかにカーブを描く堤防の道を歩いていると、一人で暗い海を眺める彼を見つけた。本当に、なんの前触れもない再会に、私の脳の処理が追いつかない。



「な、なんでここに……」



 最初に口を出たのは、あまりにも意味不明な質問。それはシンジくんが聞きたいことだろうに、彼のことを考え過ぎたせいで思わず聞いてしまったのだ。



「野暮用だよ」

「野暮用?」

「あぁ。でも、もう終わった」



 言いながら、シンジくんは自分が着ていたコートを私の肩に掛けてくれた。白い息が闇の中を踊る。耳たぶが熱くなって、安心で視界が潤んでしまって。一体、どれだけ心配したかって、怒って伝えようと思っていたのに。



 なのに、どうしてそんなに寂しそうな顔をするのだろう。まるで、目の前にいる私のことが少しも見えていないみたいで。それどころか、私を見ないようにしているように思えてしまって。



 ……そんな顔をされたら、何も言えないよ。



「俺は、大将のことを救えたんだと思ってた」

「え……っ?」

「俺がいれば、もう寂しくないって。酒に頼らなくたって、きっと大丈夫だって。一人になったって、自分を傷つけるようなマネはしないだろうって。そう思ってた」



 心が、痛い。



「どうして、俺は修学旅行なんかに行っちまったんだろうな。勝手に舞い上がって、勝手に盛り上がって。どう考えたって、あれは大将が自殺するために俺を遠ざける作戦だったっていうのに。俺は金の出所を自分の都合の良いように解釈して、まんまと誘き出されたんだ」



 ち、違う。そんなハズがない。



「絶対に違うよ! ダイスケさんは、シンジくんのためを思って――」

「遺書があった。塚地さんにも見せてない、大将の本音が書かれている遺書さ」



 彼の悲痛な表情を、もう見ていられない。



「俺じゃ、ヨウコさんの代わりにはなれなかった。あの人の苦しみを分かってあげられなかった。俺がやったことは、ただ辛い人生を長く歩ませるための無駄なお節介だった」

「……っ」

「大将には借金があったんだよ。もう、一生掛かっても返せないような莫大な借金が」



 そんな話、塚地さんは少しも……。



「ヨウコさんはさ、アメリカで高額の手術を受けて失敗したんだ。よくあるだろ、難しい手術を受けても生存率は30%みたいな話。彼らは、その賭けに負けた」

「……うん」

「そんな人の逃げ道を、俺は奪ったんだ。まったく、自分の頭の悪さにはほとほと呆れちまう。本当に――」



 私は、思わずシンジくんの背中に抱き着いていた。もう、聞いていられなかった。ただひたむきに自らを証明し続けた彼の結末が、最も愛している人を苦しめていただなんて。



 そんなの、あんまりだったから。



「もう、やめようよ」

「なにを」

「人助け、もうやめようよ。シンジくんはたくさん頑張ったよ。これ以上は、本当に耐えられなくなっちゃうよ!」



 すると、シンジくんは私から離れ肩にコートを掛け直してくれた。そして、どうしてだろう。目線を合わせるのではない、まるでお父さんのような優しい目をして私の頭を撫でた。



「なんで!? なんでシンジくんがそんなに頑張らなきゃいけないの!? そんなに大変な思いをして! それなのに少しだって救われてない! 今だって! 私が……っ! わ、私が優しくしてあげなきゃいけないのに……っ」



 あの日のような、恋を感じる仕草ではない。温かいのに、一番遠い距離にある。髪の毛から伝わってくるのは、そんな不安だ。



「そうだな。正直、俺の限界はこの辺なんじゃないかって思ってた。ミチルの言う通り潮時かもしれない」

「なら――」

「だが、もう一人だけ絶対に救わなきゃならない奴がいる。そいつは俺のせいで、多分、二度と立ち直れないくらい傷付くだろうから」

「え……っ?」



 そして、シンジくんはコートのフードを私の頭に被せた。



「ごめんな、ミチル。俺は、もうお前の側にはいられない。俺の気持ちは、すべてニセモノだった」



 瞬間、滲んでいた視界が真っ白に染まった。



 もう、何一つ分からない。言葉を失った私を見て、シンジくんは静かに微笑んだ。

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