第2話 ②(月野ミチル)
「詳しくは知らないけどね、あいつを虐待していたのも本当の両親じゃないんだよ。色んなところをたらい回しにされて、たどり着いたのがそこだった」
「ど、どういう……」
「酷い話だよ。あいつ、サチさんと会うまで何を食って生き延びたと思う? 清掃活動が活発なせいで残飯もないから、池の金魚や雑草を食ってたっていうんだ」
山川くんとミキちゃんが後ずさった。
「服も着ないで、薄汚れて湿った毛布に包まって。駅の裏の公園があるでしょう? あそこの土管の中にさ、声も出ないくらい衰弱した姿で蹲ってたらしい。本当に、サチさんが見つけなければどうなってたか」
「こ、ここ、日本なんですよ? そんなことって――」
「俺だって信じられなかったよ。でも、スプーンとフォークの使い方も知らなかった、名前すら持ってなかったあいつを見たら、もう信じざるを得なかった。普通なら幼稚園にいるようなガキがさ、一つも言葉を喋れないんだ。舌っ足らずで、既に動けなくて、だから『助けて』って叫ぶことすら出来なかったんだよ」
目眩がした。座っていられなくて、唇を噛み締め必死に正気を保つ。
「それでも、生きようとした。あいつのへこたれなさは異常さ。普通なら大人でも諦める」
「……そんな人が、なぜ人助けに自分の価値を見出したんでしょうか。あたしなら、きっと周囲を憎んで見返そうと考えます」
目を逸らしながら語るミキちゃん。しかし、彼女が言うからこそ何よりの説得力を生んでいる。
「サチさんに恩を返せなかったからだって、前に言ってたよ。小さな自分では何もできなくて、あと少しでも長生きしてくれたなら力になれたのにって。全然、そんなこと無いって言うのにね」
「……それが、彼の一生物の後悔ですか」
何度も何度も聞いた、シンジくんの言葉。後悔だけはさせたくないと、どんな形であれ物事に決着を付けたがる彼の根源はそこにあった。
「いつか言っていたよ。『愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ』とかだったかな」
「ビスマルクの言葉ですね」
塚地さんは、小さく頷いた。
「あいつが自分を賢いと言わないのは、あいつ自身がすべての不幸を経験しているからなんだろうね。負け方はたくさん学んだからその逆を実践すればいいだなんて。まったく、何ともシンジらしい考え方だよ」
これで、シンジくんについて知っていることはすべて。塚地さんは、そう言ってお茶を一口飲んだ。
「……ダイスケさんは、なぜ亡くなったんですか?」
「急性アルコール中毒だよ。シンジのいない間に飲み過ぎて、そのまま心臓が止まっちゃったんだって」
「なぜ、昨日まで誰にも見つけられなかったんですか?」
「それは、シンジがいる時以外に店が開いてないからだよ。ダイスケさんはシンジと会いたくて店をやってたんだ。もちろん、シンジは知らなかっただろうけどね」
……あまりにも儚い二人の関係に、言葉が一つも浮かばない。
「ヨウコさんが死んだときに、本当はダイスケさんの人生は終わってたんだよ。もう完全に自暴自棄になって、包丁を握る力も無くなって。思い出を見に競馬場へ行ったら、たまたまそこで働いているシンジと会ったんだってさ」
「それなのに、なぜ今になって無茶な飲み方をしたんでしょうか」
「……前に、こんなことを言っていたのを覚えてる。『小僧のお陰で、もう思い残すこともなくなった』って。多分、彼はシンジにすべて伝えたことで使命を終えたんだと結論を出したんだよ。修学旅行は、お誂え向きな状況だった」
それはつまり、ダイスケさんが自ら死を選んだということなのではないだろうか。命を粗末に扱うだなんて、ましてやシンジくんだっているのに、あまりにも残酷な話だと思う。
「まぁ、若い子にはきっと理解出来ないさ。俺は、ダイスケさんの選んだ結末もありだったと思う」
「どういう、ことですか?」
「ジジイには、ジジイなりの苦悩があるんだよ。同じ歳の友達がみんな死んでいって、自分だけが取り残されて。そんなの、寂しくないワケがないだろう? だからといって、自分よりも若い子にちょっかいかければ迷惑がられて、そんなの惨めに決まっているだろう?」
聞いただけの私では、ただの無口で無愛想で頑固なお爺さんでしかないけれど。シンジくんは、ダイスケさんが喋らないその意味をずっと分かっていたのかもしれない。
「だから、死を選んだ。ダイスケさんはシンジを解放したんだ。それを否定する資格は、未来ある若者には決してないと俺は思うよ」
もちろん、正しい保証なんてどこにもない。そう言って、塚地さんはニコリと笑った。
尋常ならざる二人の信頼に、私は完全に圧倒された。果たして、私の恋はダイスケさんがシンジくんを想う気持ちに届いているのだろうか。不安がって取り乱した私では、とてもそうなれているとは思えない。
「……おっと、もう時間だ。俺はそろそろ行くよ」
「ま、待ってください。あと一つだけ、聞かせてもらってもいいですか?」
このまま塚地さんを返してしまえば、私はシンジくんに二度と会えないような気がしたからだ。
「なんだい」
「前にシンジくんが住んでいた家って、どこにあったかご存知ですか?」
言うと、塚地さんはスマホの地図を開いてしばらく操作し、「あったあった」と呟きながら隣県のとある町を見せてくれた。
「この辺だよ。詳しい場所までは知らないけど、シンジはここから歩いて町家までやって来た」
「分かりました、ありがとうございます」
「ところで、キミ。なんだか、シンジに似ているね」
「……時々、自分でもそう思うときがあります」
こうして、私たちは深くお辞儀をしてからヨウコを後にした。路地裏には夕焼けのオレンジが差し込まない。仄暗い曲がり角が、疎らに町行く人を飲み込んでいく。
「遠いわね、今日はもう無理かしら」
「明日も学校あるし、一回引き上げて――」
「私、行ってくる。見つけるまでは帰ってこないよ」
前を向いたまま言うと、二人の足音が止まった。止めても無駄だということを、言わなくても分かってくれたらしい。
「了解した。俺たちはこっちでもう少し情報を探してみるよ。何かあったら連絡する」
「うん、ありがとう」
「ねぇ、ミチル」
遠くなった声に、後ろを振り返る。目を合わせるとミキちゃんは一度だけ俯いて、それから複雑な表情で再び私を見た。
「……いってらっしゃい」
今の言葉には、きっと幾つもの意味が含まれていた。彼女は確かに、シンジくんに救われた人間の一人のようだった。
「ありがとう、行ってくる」
ブーンという鈍い音の後、街灯がポツポツと光り、冷たいアスファルトを等間隔で照らし始める。商店街にはお惣菜の香りが充満していて、しかしそのどれもが私の足をここへ引き止めているように感じた。
……どうしてだろう。
いつもと同じ景色のハズなのに、今の私にはこの道が酷く長いモノに見えたのは。
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