第17話
017
タクシーを降りて昨日と同じように嵐山の渡月橋を渡った俺たちは、ゆっくりと歩きながら駅を目指していた。
ヒロインズの過去を知ったミチルは、もう10分以上も黙っている。恐らく、昨日言ったこれまでの生活の中で
そして、同時にミチルが思っているのは、きっと自分がそこへ入ってしまった罪悪感。そんなことも知らずに恋人という結末を導こうとした自分が恥ずかしいと、無言の表情が主張している。
気にするな、と声をかけてやりたいところだったが、こいつがそれを気にしないような女なら俺はとっくに見捨てている。言っても無駄なことを理解して、早くも疲れた足を叩くと彼女の少し前を歩いた。
少し経って、俺たちはトロッコ嵯峨駅へと辿り着く。当日でチケットを購入できなければまた歩くつもりだったが、なんともラッキーなことに席が空いているようだった。
トロッコが到着するまで、あと20分ほど。退屈を凌ぐための文庫本は持ってきていない。かと言ってスマホを弄るようなタチでもないから、俺は目の前に広がる美しい嵯峨野の景色を目に焼き付けることにした。
……やがて。
「多分、すべて正しい。やっぱり、シンジくんはシンジくんだね」
答えに思い至ったのか、ミチルは切なそうな微笑みを浮かべて首を傾げた。自信があったとはいえ確信めいた証拠は見つけていなかったから、彼女がそう言ってくれると助かる。
「ならば、どうしても明かしておかなきゃならないお前についての命題がある」
即ち、なぜ月野ミチルが人を好きにならなければいけなかったのか、だ。
後からハーレムに入ったミチルが、彼女たちの複雑な事情をほんの少しも察することが出来なかったとは思えない。
なぜなら、彼女は友達が欲しかっただけだ。愛の違いを考えられなかっただけだ。それならば、最初から盲目的だった3人と違い冷静に俯瞰出来たハズなのだ。
だからこそ、動けないヒロインズの代わりに晴田と恋人になって絆を強固にしようとした。言わば、あれは彼女の自己犠牲。結果論ではあるが、名前も分からない好意を恋愛と無理やり結びつけ、友達を救いたがっただけなのだ。
「おまけに、白百合ヶ丘学院から転校してきたお前は男に大きな恐怖を抱いていたハズだ。ならば、わざわざハーレムに入ろうってのが不思議でならない」
目を伏せるミチル。口にするのも嫌だから、想像を察してくれるのはありがたい。
ミチルは、俺の手を握った。絶対に逃げないから、せめて力を貸して欲しい。そんな悲痛な叫びが聞こえてくるような、弱くて細くて熱い手だった。
「俺の考えはこうだ。西城高校へ転校してきた月野ミチルは、すぐにヒロインズが周囲の女子から疎まれていることを知った」
もっと深く、榛名が傷付いた例のバスケ事件を考えるべきだった。あんな嫌がらせが、今に始まったモノではなかったのだと察するべきだった。
「ハーレム事変がサオリへの最初の相談だと思い込んでいたことが俺のミスだ。なぜなら、サオリがお前に近付いたのは転校後であり、ミチルは既に自分の過去を話すくらい関係を築いていたから」
目の前にトロッコがやってきた。この駅は終着点だから、しばらくすれば俺たちの目的地へ向かって引き返していく。
「ならば、過去を話す気になるような実績をサオリが作ったと考えるのが自然だし、その実績こそが彼女たちを守るアイデアだった」
「どうして、シンジくんに相談したことと同じ内容だとは思わないの?」
「それが出来ていたのなら、サオリたちが今回の告白の依頼を俺に相談する必要がない。仮にお前が頼んだのなら、あいつは拒んだのさ」
扉が開き、俺が窓際に、ミチルが内側に座った。相変わらず手を離さない彼女を、果たして周囲の乗客はどんな思いで見ているだろうか。以前の俺なら『目の前で盛るな』と勘繰られているだなんて恥ずかしがっただろうが。
今は、特に何も思わない。自分が経験していれば、憎しみなんて抱かないのも当然。大人になるということは、こういうことなのかもしれないな。
「更に、三叉路でお前たちと話した夜。サオリはミチルをこう表現したんだ」
――あの子はずっと、誰も信じてなんていない。
「俺はこれを聞いて、最初はお前が過去を話す相手なんて誰でもよかったんだと思った。力を貸してくれて、だからサオリを選んだんだと思っていた」
「違わないよ」
「いいや、違わないハズがない。お前はさっき、俺の当てずっぽうのような過去の推測を否定しなかった。俺がどんな惨めな経験を考えたのかくらい、今のお前なら分かるだろう。女としてそれを否定しないでいられるのなら、そもそもお前は人を好きになる必要なんてないくらい強かったハズだ。一途な想いの告白程度で、俺に傾くハズがなかったんだ」
ミチルの手を離す。彼女は、深く息を吸い込んだ。
「ならば、考えられる可能性は一つ。お前は、白百合ヶ丘学院での悲劇よりも辛いことを既に経験していた。転校なんて、お前にとってはどうでもいいことだったからサオリに告白できた」
つまり。
「ミチルが人を好きにならなければいけなかった理由。それは、どんな悲劇が自分の身に降り注ごうと、それでも人間は美しいと信じなければいけない程の恩を受けたからだ」
俺は、窓の外を見たまま告げる。
「お前、命を救われたことがあるだろ」
それは、俺が血の繋がりのない婆ちゃんに救われたからこそ導けた答えだった。ミチルがヒロインズを救おうと動いたとき、真っ先に自己犠牲を選んだことが辿り着くためのキッカケだったのだ。
「……もう、シンジくんには何も隠せないね」
彼女は、月野家の実の娘ではない。
父親がレースに出資するほどの金持ちにも関わらず、両親が共に夕飯時を外出していたからミチルとカケルは俺の家にやってきた。こんな地方都市に住む投資家の妻が、小学生の息子を家に置いておくほどの事情とは一体なんだろうか。
父親が若手のエリートやベンチャーの社長なら10個も離れているカケルとの年の差に整合性が取れない。最も働き盛りの時期に、企業勤めで働きあれほどの豪邸に住めるほど賢い人間が、そんなリスクを負うとは到底思えないのだ。
「だから、俺はお前の両親が何らかの事情で子供を作ることの出来なかった壮年の夫婦なんじゃないかと考えた。そうすれば、すべての条件を満たすことが出来る」
母親が急用で子供の食事を用意出来ない理由。それは、恐らくお腹に命を授かれなかった不幸の病の治療だ。ただし、俺の家へ遊びに来るくらいだから、今では命が危険な状態ではないのだろう。
加えて、あれだけ近所に住んでいる俺とミチルは幼馴染ではない。つまり、月野夫婦は少なくとも俺の婆ちゃんが死んでから町家へやってきたことになる。中学生になった俺は働いていてほとんど家にいなかったから、互いに知らなくたって不思議ではないからだ。
そして、引っ越してきた理由が妻の療養ならば、外出しないで働けるであろう投資家という職はこの上なく適切だ。
「つまり、あの日は定期的に訪れる検査入院の日だ。お前らを置き去りにすると辛そうにする父親に迷惑をかけない方法を考えた結果、俺のところに来たんだろう。いい迷惑だったぜ」
……なんて茶化し、長い話の緖を締めるとミチルは笑った。
随分と幼い、嬉しそうな笑顔だった。
「私ね、シンジくんの一途な気持ちを聞いたとき分かったんだ。この人は、きっと私と同じような経験をしている。だからこそ、こんなにも一途な想いを抱いていられるんだって」
彼女の瞳を見つめていると、得体の知れない何かが俺の心を満たしていく。
「本当に、私がどれだけあなたに感謝しているかなんて理解出来ないと思う。私がどうやったって、何をしたって終わらなかった彼女たちへの被害を、シンジくんは一瞬で終わらせた。あそこであなたが実力を示してくれたから、もう誰も傷付かなくて済んでるんだよ」
胸の中につかえていたモノも包まれて、まるで最初から無かったかのような感覚に陥る。
「どうして俺に話してくれなかったんだ。終わらせたかったのなら、俺を閉じ込める必要なんて無かっただろう」
「何とかしたい気持ちと同じくらい、早くシンジくんに追いつきたかった。あなたに出会った私なら、きっと何とか出来ると思った」
「……そうか」
「本当に、私って下手くそだよね。そのクセ、実力もないのに理想ばっかり高くて、今度こそなにか出来るって自分に期待して。挙句の果てに、自分だけじゃどうにもならない程に失敗して――」
涙声。
俺は、青空が眩しくて目を細める。
「まだまだ、シンジくんの背中が遠いよ。あはは……」
瞬間、俺を襲ったのは過去にも何度か訪れた不思議な感覚。ただし、今回のは強烈だった。
どうしようもなく不器用な月野ミチルが、ただ俺のような凡人を目指して。合理と非合理の狭間で気が触れそうになりながら藻掻いて。そんな彼女の安堵した表情の意味を知ってしまったから、俺はとうとう我慢できなくなったのだ。
……すいません、青海先輩。
約束、守れそうにないです。
「よく頑張ったな」
俺は、窓に反射するミチルの頭の位置を確かめると、外を眺めながら彼女の頭を撫でた。優しく、優しく。自分がこんなにも優しく人に触れることのできる男なんだと、初めて知ったくらいに優しく撫でた。
「……んふふ」
柔らかくて、しなやかな髪の感触。スルリと指の上で踊って、跳ねるように流れた。
「でも、まだ私は何も結果を得られてないよ。……ぜ、ぜんぜん。全然、シンジくんのことも分かってないし。グス……っ。あれ……? なんで、私……っ」
それがなんだってんだ。
俺はもう、お前を認めてしまった。これまで出会った女の中で、誰よりも美しいと知ってしまった。きっと、俺の狂気を知って共有してくれる唯一の女なんだと確信してしまったのだ。
だから。
「ミチルの最初の悲劇を、俺は考えないことにするよ」
高槻シンジは、充分に月野ミチルを知った。
こいつはクソ不器用で、小生意気で、ポンコツで、料理が下手で、嘘はもっと下手で、向こう見ずで見切り発進でその後の展開も想像出来ないような熱血バカだけど。か弱くて、優しくて、頑張り屋で、気高くて、誰よりも綺麗なのだ。
それ以上、俺を好きでいてくれる女の何を知ろうと言うのか。過去を漁るよりも、俺が俺自身の意識を変革することの方がよっぽど有意義だ。彼女の想いに応えられる俺を作ることの方が、よっぽど大切なハズだ。
それが、信じるということだ。分からないことを愛することだ。何でも知ろうとすることは、何一つ信じていないことと同義だ。知ることで安心することは、心から遠ざかる行動でしかないのだ。
だから、やめる。やめて、ミチルの言葉を信じる。
……あぁ。
ここにたどり着くまでに、どれだけ遠回りをしただろう。俺の求める一途の真実が、確かにこの手の中にあった。
「そうだろ?」
すべてを吐き出して、この上なく満足な気分だ。まるで、俺が俺じゃないみたいにスッキリしている。なぜこの旅行で俺が晴田にムカついていなかったのか、今ならハッキリ分かるよ。
「うん……っ」
声の出ない彼女の頭から手を離す瞬間、肩を僅かに震わせたのが分かったから、座席の間に設置してある肘置きにわざとらしく右手を乗せる。
ミチルの手は、何よりも温かかった。
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