第12話(雪原サオリ)

 012(雪原サオリ)



 自分の客室に戻ろうとエレベーターホールに立っていたけど、訪れるエレベーターにはたくさんのお客さんが乗っていて私たちが収まる隙間が無かった。



 繁忙期のホテルって、こんなにたくさんのお客さんが宿泊しているのね。上から下へ向かっていくということは、彼らは四条あたりで遊んだりするのだろう。



 京都の大人のお店って、一体どんなだろうか。やっぱり、店員さんは舞妓さんの格好をしているのかしら。そんなどうでもいいことを考えるくらい、あたしは自分の依頼のことを考えられないでいた。



 ……違う。



 あたしが集中出来ないのは、ミチルのことが気になるからだ。



「ねぇ、ミチル」

「なに?」

「あたしがシンジにキスしたこと、怒ってる?」

「怒ってないよ」



 またしても到着したエレベーターには乗れず、諦めて隣に設置してあったベンチに座る。すると、ミチルは何かを考えたあとで小さくため息をついた。



「でも、嫉妬は凄くいっぱい」

「ふふ。あんた、本当にかわいいわね」

「それは褒めてるの?」

「褒めてる。シンジ以外の人間を褒めたのなんて、きっと人生で初めて」



 ビックリするくらい、嘘の混じっていないあたしの言葉。純粋なミチルの気持ちを思い知って、どうにか応えようとしているシンジを感じて、そこにあたしが入り込む余地なんてないって分かったからだ。



 ちゃんと諦めるつもりだったのに。冗談だってわかってるけど、今のあたしだったらきっとずっと好きでいたなんて。あんなことを言われちゃって、気にしないワケないじゃない。



 ……バカ。



「いいよね、サオリは」

「なにが?」

「だって、シンジくんの言うこととか、逆に自分が言うこととか。全部お互いに分かりあってて、相性抜群って感じだもん」



 この子、どうして自分の強みを理解していないのかしら。なんて考えたけど、自分のことを本当の意味で客観的に見ながら行動できる高校生なんて、それこそ世界広しといえどもシンジくらいだと思った。



 そのうえで、あいつも相当な我の強さがあるけどね。



「私は全然ダメだよ。さっきもさ、本当はサオリが『シンジくんが全部教えてくれてた』って言ってくれなければ、結論を思い付くことなんて出来なかった」

「……そう」

「羨ましいよ。彼の読んでる本とか、むしろ知らない知識とか。サオリはきっと、いっぱい知ってるって思う。私は強がっているけど、なんでシンジくんが私のことを見てくれないのか、それも全然分からないし」



 言うと、彼女はベンチの上で膝を抱え小さくなった。



「彼が私を知ってくれてるのは嬉しい。でも、私は彼のことを知らない。それが、凄く不安なんだよ」

「信じてないの?」

「信じてるよ。でも、だからこそ。他の子に彼の気持ちが傾いたとき、私は絶対に置き去りにされるって確信出来ちゃうの」



 抱えた腕の中から、ミチルは左目だけを覗かせてあたしを見る。



「サオリにも、その気持ちは分かるでしょ?」



 ……分かってる。



 いいえ、分かってた。



 だから、あたしはシンジの部屋を出たのだから。



「あいつが好きなのは、成長してる真っ最中の不完全な女よ」

「なにそれ、サオリだって前よりもずっとかわいいじゃん」

「あたしは違う、最適化しているっていうのが正しい」



 最適化、その言葉をミチルは反芻した。



「既に完成した人格から、余計な部分を削る作業に取り掛かってる。自分でいうのもなんだけど、才能のある人間の思春期ってそういうモノなんだと思う」

「わ、分からないよ。そんなこと、どうして決めつけるの?」

「私たちが、人のために人助けをしているから。自分を作り上げるのに大変な人は、他人のことなんて考えてられないくらい必死なハズでしょう?」



 黙りこくるミチル。なぜ、シンジは人の為に力を尽くせるのか。なぜ、真剣なハズのあたしたちが彼に少しも及ばないのか。今の言葉に、応えがすべて詰まっている。



 エレベーターは、とうとうあたしたちのいる5階を飛ばして1階まで直行していった。



「あのクソ男は自分が一番人間らしくないくせに、誰よりも人間的な矛盾を愛してる。その最たる例が恋愛でしょ、ムカつくことだわ」



 掠れた声で、曖昧な発音の返事を返すミチル。本当に、この子はかわいい。女のあたしが嫉妬する気も起きないくらい真面目に頑張っていて。小賢しい作戦を思い付くあたしでは、二度と取り戻せない心を彼女は失っていなくて。



 本当に、思い浮かんだあらゆる幸福を些事だと思えるくらい、あたしは月野ミチルが羨ましかった。



「人間って、自分に無いモノをパートナーに求めるらしいわ。シンジはあたしに無いモノを全部持ってるけど、あたしにはシンジの持っていないモノがない。あいつがあたしを求める理由が、何一つとして存在してないってさ――」



 四度、エレベーターが開く。今度は人が乗ってなかったけど、あたしたちは動かずに見送ってポツリと呟いた。

 


「さっき、ようやく認められた。あたしは、人助けを理由にしてシンジから逃げてたの。本当に、ダメな女だわ」

「ち、違うよ……っ」



 ……あらら。



「なんで、あんたが泣くのよ」

「だ、だって。……ひっ。サオリは、そんなんじゃないよ。……ひぐ」

「そうだったから、あたしの恋はこんな結末なのよ。シンジってば、いつの間にあんな優しくなったのかしらね。半年前までのあいつなら、きっと『キメェから死ね』くらいのことを言って突き放して。そうすれば、あたしだって歯向かって諦めなくてさ」

「う……っ。う、うん……っ」



 思わずミチルの頭を抱き締めていた。果たして、慰められているのはどちらなのかと考えたけれど。奇妙なことに、あたしがミチルに寄りかかったとしか結論付けられなかった。



 が失恋した日と、真逆だ。



「……人としての優しさと、男としての優しさって、きっと最も遠い場所にある別のモノなのよね」



 ミチルが下を向いて泣き、あたしが前を向いて笑う。だとすれば、あの日のミチルも今のあたしと同じことを考えていたのだろうか。



 答えは、聞かなくても心で理解できた。もう、寂しくなんて無い。一人の男に固執して、病的に惚れてしまったあたしに彼は薬をくれていたのだ。嘗て恋だった闇を捨てて、前に進むには失恋しかなかったんだって今なら分かる。



 ……ねぇ、シンジ。



 そんなふうに思えるあたしにしてくれて、本当にありがとう。



「あんたは間違えないようにね。もう、ミチルはを持ってるんだから」



 優しく頭を撫でると、髪の毛がサラリと流れて彼女の瞳を隠す。短くした彼女の髪が、いつの間にか長くなっている。あたしたちが失恋を経験してから、こんなにも時間が経っていたのだ。



 彼女がここまで来る間、やはりあたしは立ち直れず何もしなかった。怠惰なあたしが負けたって、あたしは少しも傷付いたりはしない。



 シンジはシズクに初恋を託したという。ならば、あたしの初恋はミチルに託そう。恋愛に興味ないなんて嘘をつかず、シンジ以外の男に興味が湧かない今を認めよう。そして、次に奇跡が起きたときは必ず、相手を真っ直ぐに愛すると誓おう。



 それが、長かった雪原サオリという物語の終わり。他には語ることなど何も無いのだ。



 ……エレベーター到着のベルが、チリンと鳴った。

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