第18話
018
「そこで何をしているの? その子、誰?」
月野の声は、酷く震えていた。
周りをよく見ると、ここは月野の家が見える例の別れ道。恐らく変な時間にベッドから起きた気分転換に窓の外を眺めていたら、街灯下に俺たちの鬱陶しい姿が見えたといったところだろう。
熱は引いただろうか、そんな薄着では少し寒くないか。ただ彼女の様子が具合の悪さに寒気を感じたワケではないのは顔色を見れば明らかであり、ならば青ざめたのは俺が別の女の子を壁に追い詰めていたからだ。
苦しいときに突き放されて、おまけに目の前で別の女とイチャつかれて。やっぱり不憫な女だよな、お前って。
「こんばんは、ミチル」
俺が口を開くより前に、サオリちゃんは月野に挨拶をした。目線は未だに俺に合っている。壁から手を離し彼女から遠ざかると、月野はようやく小さな友人の正体を知った。
「……サオリちゃん」
「ごめんね、お家の前でこんな――」
「黙っててくれ、サオリちゃん」
いつの間にか酔いが覚めている。自分の二つの足だけでまっすぐ立っていられている。いい酒だから悪さが長引かないということか、それともキスで意識が吹っ飛んだからだろうか、或いは生じた罪悪感のせいか。
いずれにせよ、幕を引く準備はできている。余分に濡れた口元を拭うと、微かに彼女の甘い匂いがした。
「月野。急で悪いけど、一つだけお前に確認しておきたいことがある」
「なに?」
「晴田のこと、好きか?」
二つ、息を呑む音が聞こえた。快刀乱麻を断つとはいうが、しかし情緒もへったくれもない俺の質問がラブコメディにそぐわないこともなんとなく自覚している。
上等だ、こんなに俺らしいことは他にない。
「う、うん。好きだよ。でも、
言葉足らずの否定文句は、察して組み立てる要素じゃない。
欲しがったのはあくまで切り出す相手を間違いないための道しるべであって、この期に及んでウジウジ考えるのは愚の骨頂。答えなど
……では、ここで問題だ。
俺は、一体なにを根拠に
月野とサオリちゃん、どちらの想いが強いのか。どちらが俺にとって正しいのか。今日まで生きていた高槻シンジのやり方になぞるなら、必ず二人のデータを見比べて決めるのが筋のハズだ。
他人助けの延長線上に交際があると仮定すれば、体裁を整えた最大公約数的な納得を得ることも出来る。曲がりなりにも正しい答えを出すのだから、一つの結末として飲み込めるだろう。
その為の要素を選ぶのなら、間違いなく現状どちらがより不幸なのかを見るべきだ。俺がいないとダメになってしまう方を選んで、それを助けるやり方を使う。非常に俺好みな理由であり、そしてこれ以上に俺らしいのは他にありえない。
ただし、その方法で救われない人間が必ず一人は存在してしまう。救いようもなく、救われようもなく、後悔に取り残されてしまう人間がいてしまう。
言うまでもない、俺だ。
別に俺が救われないこと自体に文句があるワケではない。女の子と付き合うことが不幸だとは少しだって思っていない。理想通りにいかないことなんて今更慣れたモノだし、ならば与えられた現実の中で何とかする方法を探せばいい。
問題は、そんな俺を見て彼女がどう思うかだ。ある日違和感を覚え我に返って、俺の後悔を知って。果たして、そのまま不自由なく生きることが出来るだろうか。
……確信を持って言える。
彼女には、とても無理だと。
ならば、俺が選ぶべきはこの場所から後悔を消し去る方法だ。心の中に閉じ込められれば、二度と消え去ることのない。きっと一生のキズになる後悔それだけは決して植え付けてはいけない。
みんなが幸せになるヒーローの物語には決してあり得ない。最も正しいのはせめて傷を仲良く分け合って、それぞれが別の生き方を選ぶ方法。誰か一人に押し付けず、誰も幸せにならない最も残酷で平和な方法。
それが、信用できない語り部であった俺の、再び信用を得る唯一の方法。ここでゼロに戻ってこそ、俺は恋をする資格を手にできると信じられた。
……だから。
「ごめんね、サオリちゃん」
「なにを謝ってるの? あたし、全然悲しくなんて無いよ?」
それは嘘だ。幸せな女は、きっとそんな顔をしない。
「小学生の頃のこと、あの頃のサオリちゃんの気持ちを察しなかったこと。並べれば枚挙に暇がない、分かってやれなかった俺がバカだったって今なら言える」
「ふふ、ようやく分かってくれたんだ」
「あぁ、よく分かった。俺が嫌ってることは、すべて俺の過去の何処かにあったことなんだって。ちゃんと心に刻みつけたよ、本当にありがとう」
そして、俺は大きく息を吸い込んだ。
「俺は、サオリちゃんの気持ちには応えられない」
静寂。
俺たちを支配したのは、まるで宇宙船から脱出した孤独なポッドを包み込む、冷たくて痛みを伴う耳鳴りすら置き去りにする静寂だった。
「……え?」
掠れた声。歪な笑顔で首を傾げるサオリちゃんは、明らかに俺の言葉を正しく理解していない。そんな彼女に向けるべき表情を、果たして俺は上手く作り出せているだろうか。
俺とサオリちゃんは、決してフェアじゃない。彼女との今の関係が、俺は心から大嫌いだ。
「自分の罪を棚に上げるつもりはないけど、お前だってやり過ぎだ。自分で暴くまでもなく、かなり引いちゃってる」
「でも、あたしのこと好きでしょ? 一途なら、これくらい許してくれるでしょ?」
「そう。一番の問題はそこだよ、サオリちゃん。確かに俺の初恋はお前のモノだった。自分の記憶を疑ったこともあったけど、他に考えられないくらい好きだったさ」
「だったら!」
「けど、その恋は終わったんだ。もう、お前のいる場所に俺はいない」
彼女が俺を手に入れられない理由は、過去に囚われ続けたことだ。
先へ進み、傷を負い、いつしか俺は純粋に正しいことを追い求めなくなった。失い続けた心は歪んでしまって、前も後ろもわからなくなって。今だけを必死に生きる内に、善悪に関係なくただ成功者を妬み負け犬を贔屓する強さから最も遠い場所にきてしまった。
あの頃に抱いていた正義感なんて、現実に踏まれとっくに擦り潰されてしまっている。きっと、今の俺はサオリちゃんの大好きな高槻シンジでないだろう。
ただし、それは生きるという一点について正しいのだと俺は思う。他でもない、今の高槻シンジは唯一それだけに真剣なのだから。
「け、けけ……っ。けどさ、一途ってそういうことでしょう? あたしは、キミのこと絶対に裏切らないって分かったでしょう? シンちゃんは一途なんでしょう!?」
「それは違う。一途とは、停滞することなんかじゃ決して無い。ましてや、別れて離れることを否定することなんかでもないんだ」
俺の中の真実。
それは、広辞苑や国語辞典に載っている正しい言葉の意味とは少し違う。俺の、高槻シンジの人生において最も正しい事実のことをいう。
俺が欲しいモノ、欲しがったからこそ盲信した理由はたった一つだけだった。
「一途とは、冷たい暗闇の中で迷いを切り裂く力だ。前に進まなかったお前は、俺のことを信じたことなど一度だってない」
そして、俺はまるで小さい子供をあやすように。サオリ
この世界で、俺が最も嫌っているのは裏切りではない。彼女ならば、きっと答えに気が付けたハズなのに。
本当に、かわいそうだ。
「……シンちゃんは、あたしのこと信じてたの?」
「信じてたよ」
何もわからないで間違っているかもしれない知識を学ぶ俺が、一体どれだけ孤独だったか。借りた本の図書カードにお前の名前を見た時、一体どれだけ心強かったか。
サオリちゃん。お前にだって、きっと分からない。
「なら、どうしてこんなことになるの? あたし、あたしは……っ」
「それが信じられたのは、あの学級裁判の日までだ。お前の計画は、始まった時既に失敗してたんだよ」
しかし、何よりも皮肉だったのはあの学級裁判があったからこそ『俺の中の真実』を得られたことだろう。ほんの少しでもやり方が違えば、結末もまったく別の方向に落ち着いたと思う。
分かるか?
俺を成長させてくれたのは、他でもないお前だったんだ。
「だから、そこにだけは謝らないよサオリちゃん。俺たちは、互いに何も間違ってなかったから」
「……サオリちゃんって呼ばないで」
「無理だよ、サオリちゃん。だって、お前はまだ学級裁判に取り残されてる」
「昔のままで呼ばないでっ!!」
きっと俺は知っていた。ひと目見た今朝から、彼女の内側は外見よりも幼くて酷く脆いことを察していた。初恋の女なのだから、それくらいは分かって当然だったと自信を持って言える。
この経験は、恋愛がいいモノだって確かな証拠だ。俺は、お前に初恋を捧げられて本当によかったよ。
「……っ」
声を堪えた月野の表情を見た。泣き方を忘れてしまったサオリちゃんの代わりに彼女が泣いたのだろうか。それとも、俺の意図を正しく汲み取ったから痛みに苦しんでいるのだろうか。
きっと、サオリちゃんのように今へ取り残されることはないだろう。本懐がどこにあったとしても、彼女の涙は現実を受け入れた証拠なのだから。
「『俺がついてる』って言ったじゃない!!!」
「その約束を守らない今を『裏切り』と呼ぶのはお前の勝手だよ、サオリちゃん」
責任は果たした、言い訳もしない。心の中には迷いを振り切った清々しい気分と、初恋を失った喪失感が渦を巻いている。
不思議な感覚だ。俺は初めて、俺自身を助けたのかもしれない。
「またね。今度はきっと、俺の知らない本のことを教えて欲しい」
それだけを言い残して、名残る一瞥の後に踵を返して自分の家へ向かう。俺の足音だけが虚しく響く、ここはどうやら人生の大きな別れ道でもあったらしい。
……部屋に入ってからシャワーを浴びて、着替えてミルクコーヒーを飲んで月野に渡したマニュアルのマスターデータを消去して。
冷たいご飯に茶を注いでたくあんとかきこんで、ずっとつきっぱなしだったラジオを消して布団をひいて電気のスイッチを切ったとき。
そのとき、自分がほんの少しだけ泣いていることに気がついた。
婆ちゃんがいなくなって以来、この部屋が寂しいと思ったのは初めてのことだった。
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