第17話(雪原サオリ)

 017(雪原サオリ)



 彼が転校してきた日、自己紹介する姿を見て『なんて陰気臭くて見窄らしい男の子なんだろう』って思った。



 服は学校指定の青ジャージ姿、髪は何の飾り気もないショートヘアに、体が特筆するくらい細くて小さい。多分、当時はあたしよりも小さかったと思う。まともな食事もできないくらい貧乏なんだろうなって、子供ながらに分かるくらいだった。



 彼は、いつも日が暮れるまで自然公園の丘の上で図書室から借りた本を読んでいた。ランドセルを枕にして、本当によく飽きないなって思うくらいにいつもだ。



 たまにあたしが友達と遊具で遊びに行くと、彼はみんなの視界から外れるように端っこのベンチへ行って本のページを捲っていた。

 一緒に遊ぼって誘ってあげようとも思ったけど、そのミステリアスな雰囲気があたしたちの気持ちを遠ざけていたんだと思う。



 凄く大人に見えたのだ。だから、子供っぽい遊びなんてしたくないだろうなって、勝手に妄想していたというのが正しいかもしれない。



「シンちゃん、今日は何が食べたい?」

「んふふ。僕、お婆ちゃんのご飯なら何でも好きだよ」

「そうかい。でも、遠慮しなくていいんだよ。今日は少しだけお金あるから」

「本当に?」

「本当だよ。お婆ちゃん、何でも作ってあげるから言ってごらん」



 地元のスーパーで見かけた彼は心の底から幸せそうだったが、記憶する限り彼の食べたいモノを聞いたことはない。



 住んでる場所が近いこともあって、何度も二人を見かけることがあったけど。彼は、本来よりも大きく見える買い物かごを持ってお婆さんのお手伝いをするだけで。



 他の同級生の子のお家は、お肉やお菓子がたくさん入っていたけど。彼が持ってる買い物かごには少しのお野菜とお魚だけで。保健体育の時間に栄養の勉強をしたあとだったから、道理で体が小さいワケだと納得した。



 一度だけ、ワガママを言わない彼に負け、お婆さんが泣いてしまったのを見たことがあった。その時、彼は「お婆ちゃんのご飯が全部好きなだけなんだよ」と言っていた。それから無理をして片手で買い物袋を持って、お婆さんの手を引いて一生懸命お話をしていた。



 その頃からだ、あたしが彼の事を気になり始めたのは。



 決して恋ではなかった。そこにあったのは、純粋な興味だ。



 彼は他のどの男の子とも違って、常に消えてしまいそうな儚い雰囲気を纏っていたから。どうしてそんなに寂しそうなのか知りたくて、彼が見ている世界を知りたくて、だから彼が借りた本を追っかけて読むようになった。



 やがて、何冊も世界を歩きあたしの見聞が広がってきた頃。その事件は起きたのだ。



「なにすんだよ!」

「うるせぇ! ここは俺たちの場所なんだよ!!」



 みんなで遊んでいると、他の小学校の高学年の男の子たちが遊具を独占しようとした。あたしたちは『みんなで遊べばいい』と主張したけど、暴力の前には無意味だった。



 友達だった一人の男の子が、相手に殴られてしまったのだ。



 それを見て、あたしたちは心の底から怯えていた。殴ったり、殴られたり。朝のアニメの中ではよく見る光景だけど、本当に殴られた人は悲しくって泣いちゃうんだって知ったからだ。



「やめなよ、みっともない」



 そんな時、彼はあたしたちの前に現れた。5人もの高学年の男の子を目の前に、彼は泣いてしまった子と驚いて転んだあたしを庇うように立ち尽くしたのだ。



 ベンチには、ランドセルと文庫本。見上げた背中は、いつもよりも大きく見えた。



「なんだよ! お前!?」

「俺のことはどうだっていい。ただし、お前はどうだ? 五丁目のスーパーで働いてるおばさんの子供だろ?」

「は、はぁ!?」

「俺は、お前がこいつを傷つけたことを知っている。あのおばさん、優しそうないい人だよな。あの人は息子が下級生イジメてるの知ってて、あんなにニコニコしながら働いてんのか?」

「おま……っ。え? なんで!?」



 すると、聞いた手前から二番目の男の子が青ざめて後退る。その様子を見て冷静になったのだろう、他の子たちも強気を控えて身構えた。



 しかし、あの頃は分からなかったけど今思い返してみれば当然ハッタリだ。なぜなら彼は五人の中の誰一人として名指しにしなかった。彼の生活にヒントがあったのだとしても、決して確証はなかった証明だ。



 つまり、偶然当てはまっただけ。該当する子がいなければどうするつもりだったのかなんて、未熟な彼は何も考えていなかったと思う。朧げに、彼の膝が少しだけ震えていたのを覚えているから。



「ひ、卑怯だぞ! これは俺たちの喧嘩じゃんか!」

「喧嘩になってねぇだろ、こっちは女が3人もいるのに。そういうフェアじゃねぇ奴らが俺は大嫌いなんだよ」

「ぐ……っ! クソ! ふざけやがって! 覚えとけよ!」

「そっちこそ、俺はお前たちの顔を絶対に忘れねぇからよ。なんかあったら、確実に探し出すからな」



 捨て台詞にまで脅しを食らってしまい、彼らは自転車に跨ると蜘蛛の子を散らすように急いで公園から離れていった。それから、彼は転んだままのあたしに手を差し出すと優しい口調でこういったのだ。



「大丈夫、俺がついてる」



 今日まで、あたしたちは彼を遠ざけていたのに。ずっと、一人ぼっちでいたのに。さっさと逃げ出して、関係ないって言い張ってもおかしくないのに。



 それしか一人で救う方法がなかったから、卑怯なやり方を使ってでも彼はあたしたちを命懸けで守ってくれたのだ。



「高槻、シンジ」



 その日の夜。



 図書カードに刻まれた名前を人差し指でなぞり、あたしは何度もその名前を呟いていた。



 借りた本の表紙の裏には、必ずこの名前が刻まれている。それが、何だか彼があたしを見守ってくれているような気がして。この先に、いつも彼が待ってくれているような気がして。



「高槻シンジ、高槻シンジくん。ふふ、いい名前」



 彼の名前の響きが好きだった。彼の苗字に自分の名前をくっつけて、何だか幸せって気持ちにもなったりしてしまった。もしも高槻サオリなんて呼ばれたら、あたしは嬉しすぎて死んじゃうかもしれない。



 『俺がついてる』って、呆れるくらいキザったらしいセリフだったけど。あの頃のあたしには、家で本を読む時間がたくさんあったあたしには、もう一人ぼっちじゃないって思えるおまじないが本気で嬉しかったのだ。



 だから、って分かった。彼の事を、本気で知りたいと思ったのもその時だ。



 ……翌日、教室で本を読む彼を見つめる視線は三つだった。



 あたしと、昨日一緒に遊んでいた女の子二人のモノ。当然といえば当然だけど、彼女たちもあたしと同じようにポッと熱くなってしまったらしい。



 服は学校指定のジャージ姿で、スッキリした短髪に難しそうな分厚い本と知的な幼顔。何ともアンバランスで見窄らしい王子様。それなのに注目されるのだから、案外男の中身に恋をする女の子は多いのだろう。



 彼のこと、好きになるのなんてあたしだけだと思ったのに。こんな、いきなり二人もライバルが出来るなんて不安だった。



「よぉ、シンジ」

「あぁ、おはよう」

「昨日はありがとう、本当に助かったよ」

「気にするなよ、俺も役に立てて嬉しい」



 それから、彼はクラスに馴染むようになっていった。救われた男の子二人は特に親友と呼べる間柄になっていたみたいだ。気が付くと、彼らはいつも一緒に遊んでいた。



 ……時は経ち、3ヶ月後。



「ねぇ、シンジ。お前、なんか女子に見られてるよ?」

「マジでか、もしかして俺って臭い?」

「スンスン。いや、そんなことないよ。普通の石鹸の匂い、ちょっとお線香」

「そっか。じゃあ、あれかな。貧乏くせぇから見下してんのかな」

「う〜ん、そういうんじゃあないんだよなぁ」



 実はほんのちょっぴりだけ、彼がハーレムに気が付かなかったのも仕方ないと思うこともある。彼は、自分を客観的に見ることの出来る人だから。彼は、自分が嫌われてしまう自分の理由に察しがつきすぎたから。



 自分が人とは違うことを、すべて欠点だと思い込んでいたから。



 それでいて、彼は人助けのたびに誰かの王子様になっていった。まるで、自分に無いモノを誰かがなくさないように。それが、自分のためだってことを言い聞かせるように。



 本当に、あたしたちはどうしようもない関係だった。



 やがて、あたしは周りに遅れを取りたくなくてよくお話をするようになった。同じ気持ちになった女の子たちも、同じように彼の元へ集まった。給食の時なんて、彼におかずを渡す女の子まで現れるようになっていた。



 彼はそのたびに不思議そうな顔をして、自分がひもじいから恵んでくれてるんだって。そんな彼の言葉と切なくて申し訳無さそうな笑顔を向けるたび、女の子たちは儚さで胸をキュンとさせていたのだ。



 庇護欲って幼い女の子にもあるんだと思う。あたしだけが分かってあげられるって、そんな思い上がりが女の子の根本的な恋の根拠なんだって、その時に初めて理解した。



 けれど、あたしは唯一の女になりたかった。どうしても二人きりになりたかった。だから、とある休日に彼が詰めていた図書館へ向かい、前触れもなく隣りに座って彼に聞いたのだ。



「シンジくんって、どうしていつも本を読んでいるの?」

「ん。俺には、知らないことが多すぎるから」



 彼は、特に驚く素振りもなく答えた。



「そんなにいっぱい読んでるのに、まだ知らないことがあるの?」

「いっぱいあるよ。少なくとも、この図書館には俺の知らない本が一万冊以上眠ってる。そのすべてに、俺の知らない知識があると思う」



 あたしは言葉を失って俯くことしか出来なかった。こんな男の子、他に一人だって知らない。大人にだって、同じことを言える人が何人いるだろうか。



「そんなことないよ。シンジくんは、誰よりもモノを知ってる」

「買いかぶり過ぎだよ」

「けど、どうしてそんなに知りたいの? 知って、何をしたいの?」

「正しいことと、正しくないこと。俺は、それを自分で見極められるようになりたい」



 見極める。



 その言葉を聞いたのは生まれて始めだった。意味はわからないけど、きっと彼にとって最も大切なことなんだって分かった。



「その、ミキワめをして、どうするの?」

「正しい人を、正しくない人から救いたい」

「この前の公園の時みたいに?」

「そうだよ」



 彼はなんの迷いもなく答えてくれた。自分の拙さを認めて、それでも裁く為の力が欲しいのだと教えてくれた。



「でも、叩かれたら痛いよ? たくさん本を読んでも、強い人と戦ったら負けちゃう」

「……別に、殴られる事は怖くないんだ」



 その日初めて、彼はあたしの目を見てくれた。やっぱり、儚くて悲しい大人びた目だった。



「なんで?」

「もう、慣れてるから」



 ……息が苦しかった。



 静かに捲って見せてくれた彼の細い首に、古いアザや痛々しい傷が深く残っているのを見つけてしまったから。



「世の中には、平気でこういうことをする大人がいる。そして、俺がどれだけ泣いても助けなんて来ない。弱い人はその暴力が自分に振るわれる事が怖いから、見て見ぬフリをするんだよ」

「う、うん」

「だから、俺は二度と理不尽に屈しない。暴力に負けないって、そう思える自信が欲しい。抗うために暴力以外の力が欲しい。本を読むのは、知識こそが何もない俺を唯一強くしてくれるモノだって信じたからだよ」



 ……あたし、泣いてた。彼の心の内側を想うだけで悲しくて仕方なかった。



 今でも覚えてる。彼の家庭で何が起きたのかを考えるだけで胸が苦しくて、彼の父親が彼を殴り、そして母親は無視を続けて、救いなどない狭い部屋の中で絶望して。そんな彼が思ったことを想像した瞬間に、心の痛みで気が触れそうになった。



 きっとそんな痛みを思ったあたしの想像ですら、軽く凌駕する絶望を経験したハズだ。普通の価値観を失ったって不思議じゃない家庭だったハズだ。



 ならば不幸な出来事のすべては絶対に彼のせいじゃないのに、罪をこじつけ誰のせいにもせず一人で背負って。そんな悲しい過去をエネルギーにして理不尽に立ち向かって。



 自分が悪いって思わないと立っていられないくらい脆弱で貧しい心を。それでもお婆さんすら守ろうとする彼を、もう慰めてくれる人はいないんだって知ったから。



 だから、強い彼の代わりにあたしが泣いたのだ。



「ごめんね、サオリちゃん」



 そんな時、彼は優しく頭を撫でてくれた。か細くて、骨に薄皮が張り付いたような硬い手で優しく髪を梳いてくれた。それがとても心強くて。温かくて。本当に優しくて。



「……なんで、シンジくんが謝るの?」

「サオリちゃんが悲しそうだから」



 あたしは彼を助けてあげたいって思った。人助けの呪いに掛かってしまった彼を、あたしだけは守ってあげたいって思った。



 ……あたしが彼を分かる理由。きっと、彼はオカルトな方法だなんて思ってるんだろうね。



 違うよ。



 あたしが彼を分かる理由は、他の人の事を考える彼と違ってずっと彼一人のことだけを見てきたからだ。彼のことだけを考えて、彼のやり方を調べて、彼の言葉を聞いて。



 彼のように悪を覆す力なんていらない。物事の正しさを測る力なんていらない。ただ、彼を分かってあげたいだけなのだ。



 だから、あたしは彼の事だけは何でも知っている。決してオカルトではない、他の事なんて分からない。強い想いの結晶だけが、高槻シンジを見破る力を齎しているのだ。



「ふふ、キモいなぁ」 



 けれど、もう立ち止まれるところにあたしはいなかった。知ってしまって、分かってしまえるのだから。この好きを抑えることなんて出来ない。



 ならば、せめて彼の大好きなお婆さんのように優しくしてあげよう。あたしじゃ包んであげられないかもしれないけど、少しでも彼が落ち着くように接してあげよう。



 そして。



「あれ、シンちゃん。今日も難しそうな本読んでるね、偉いねぇ」

「し、シンちゃん? なんだよ、その口調。気持ち悪いぜ」

「えへへ。だって、あたしはもう読んでる本なんだもの。何なら、教えてあげようか? シンちゃん」

「いや、いい。自分で知りたいから」

「そっか、かわいくないなぁ」



 せめて、彼よりも上にいられるように。彼の先をいけるように。優しく、温かく、行いを褒めてあげようって。



 ……そう、深く誓ったハズだった。

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