第16話
016
「サオリちゃん、別に待ってなくてよかったのに」
「いいの。それより、こんな時間に外出って一体なにをしてたの?」
「色々だよ、じゃあな」
この酔っ払った頭では、自分がなにを言ってしまうのか想像もつかない。俺は明らか不自然に町谷繁華へ馳せ参じていたサオリちゃんから離れるために、話を聞かず住宅街へ向かった。
「待て待て待てぇ。どう考えたって『どうしてこんな時間に女の子が町谷繁華へ?』と疑問を持つところでしょう? 一日に二回も偶然は重ならないよ?」
「サオリちゃんが何やってても俺は驚かねぇよ」
「あれ、あたしってそんなに南方熊楠っぽい?」
「そんな感じ」
歩き出すと、サオリちゃんは俺の首筋を触ってから同じ方向に歩き出した。何となく、吐息から漏れ出す酒の匂いに気が付かれたことは分かった。
因みに、南方熊楠とはあらゆる文化に通じ、あらゆる言語を操り、挙げ句には日本の民俗学やエコロジーに関する生態学の根幹にまで多大なる影響を及ぼした明治時代の超天才だ。
何をしてもおかしくないという例えにそんな人物を出してくるとは、きっと俺の脳みそが正しく働いているのかを探ったのだろう。
「あんな変なビルに用事なんて、お主もワルだねぇ」
「成り行きだよ」
「本当に偉いねぇ」
「……仕方ねぇよ」
まただ。
また、少し上から男を褒める。こいつはきっと、男のプライドをへし折って骨抜きにするのが一番の性癖なのだ。秀雲学園にはサオリちゃんに脳を蕩かされたメンズが多そうだな。
「ミチルのところには行った?」
「あぁ、お別れしてきたよ」
「なら、告白は成功したの?」
「いや、まだだ。ただ、恋人が欲しければ勝手にやるだろ。成功は間違いないし、もう関与しねぇよ」
「ふふ、ミチルが欲しいのはシンちゃんだと思うけどね」
俺は、歩く足を止めてサオリちゃんの手を掴み引き止めた。あまり力のない俺でも、引き寄せれば抵抗できないくらいに彼女の体は軽い。
「あまり誂うなよ、サオリちゃん。お前にガタガタ抜かされる筋合いはない」
「部外者扱いかよぉ、本当にツレナイなぁ」
「今さら思い出から出てきて引っ掻き回すなっつってんだよ。お前は過去の人間だ」
「ふふ。そうやってムキになるくらい頑張ってたんだから、やめちゃうキミの考えを改めさせる役目があたしにはあると思うよ」
どう考えても怪しい彼女の言葉を聞いたとき、俺はふと月野が最初に出会ったとき口にしていた言葉を思い出した。
――ずっと謝りたい人がいるって言ってるから。
今朝サオリちゃんと会ってから、この言葉に引っかかっていた。なぜなら、月野の話を知る理由付けならば俺の名前を使わないことになんのメリットもないハズなのに、サオリちゃんは相手を隠していたからだ。
そして、今更起きた偶然の再会。サオリちゃんの言う通り二度も偶然が重ならないというのなら、今朝から何らかの目的意識を持っているのも明らか。俺は彼女が偶然を装う謎をどうしても解き明かしたくなった。
……やがて、思考は吸い込まれるように辿り着く。
目を逸らし続けたあの日の、本当の真実の中へ。
「あのリコーダー、本当に小池が盗んだのか?」
「おやおや、急に昔の話を持ち出しますなぁ」
「月野に吐露した、お前が謝りたい人間の正体。それって、本当は俺じゃないんじゃないか?」
「どういうこと?」
「サオリちゃんのリコーダーの消失、それ自体が仕組まれていたんじゃないかってことだ」
握る拳を思わず強くしてしまう。俺のトラウマが、俺が病的に一途を信仰する最後のピースとなったトラウマが、そんな理由であっていいハズがないのに。
すべてが、そこへ収束していくからだ。
「そもそも、月野は何気ない会話の中で聞いたと言っていたが、恐らく吐露って表現は正しくない。何でも見通すお前なら、月野から俺へ伝わるよう意図的に学級裁判の話を持ち出す術も思いついただろう」
「ほうほう」
「そして、俺が違和感を決定的に意識したのはお前が『俺の中の真実』を誂ったとき。今朝、サオリちゃんはこう言ったんだ」
――だって、あの学級裁判からキミは一度だって間違えたことがない。
「何がおかしいの?」
「分からないか? 俺がサオリちゃんなら、きっとこう言ったハズだ」
キミは、私と出会ってから一度だって間違えたことがない。
「つまり、俺はあの学級裁判で答えを間違えたんだ。小池が他の子の体操着を盗んでいたってのが、お前のリコーダーを盗んだことへのミスリードになっていたんだ」
「言葉の綾だよ」
「いいや、お前には明確な意思があった。敢えて、ヒントを残すような言い方をしたんだ」
口にして疑惑は確信に変わった。否定するための証拠が俺の中には何もない。
「だったら、なんなのかな?」
「お前が俺に会いに来たのは、月野から晴田の話を聞いて俺があの事件の真相を暴けると確信したから。そして、ハーレムを破壊した俺の活動で、仕組んだ意図が実ったことを知ったからだ」
大きく息を吸い込む。心臓は、不思議なくらいに落ち着いている。
彼女が罪を押し付けた人間。ここまでくれば、彼女が謝らなければならない相手など一人しかいない。俺はフラッシュバックした裁きの瞬間を振り切って、静かに新たに生まれた『俺の中の真実』を口にしたのだった。
「サオリちゃん。あのリコーダー、小池の机に入れたのはお前だろ」
……防ぐ暇もなかった。
言葉の終わりと同時に、サオリちゃんは俺の手を思いっ切り引っ張って唇を奪ったのだ。
首に手を回し体重をかけて俺の姿勢を崩し、背伸びをして強引に舌を入れてくる。酒で正しく機能していない脳みそが、液体になって顔中の穴から流れ出すんじゃないかって快感だった。
なんて、ファーストキスだ。
「……あはっ。あははっ。あはははっ!!」
酒がなければ拒めたのだろうかと考えたが。何より、それすらも織り込み済みだったのかもしれないと思うと、俺は心の底からサオリちゃんが怖くなった。
黒く塗り潰された大きな瞳が、今にも俺を吸い込みそうに見ている。
彼女は、まさしく闇だった。
「御名答だよ。長かったねぇ、よく頑張ったねぇ。シンちゃん、本当に頭が良くなったんだねぇ」
「お前……っ」
「好き、好き好き大好きだよ。ずっと、ずぅっと好きだった。あたし、キミを好きになった時から今日が来るのをずっと待ってたんだよ? シンちゃんをあたしだけのモノにする為に、本当に苦労したんだから」
彼女の匂いが、暗闇の中で俺の輪郭を包む。頬が熱を帯びたのは、柔らかい唇の感触をようやく理解し始めた頃だった。逡巡したのは、喜ぶべきではないとだけ分かったからだ。
「シンちゃん、あたしに聞いたよね。『俺に惚れてたの?』って」
「あ、あぁ」
「教えてあげる。あたしは、『惚れてた』なんてモノじゃないよ。『殺してしまいたい』くらいがちょうどいいレベルだよ。不幸で、不憫で、不器用で。それでも、正常位を貫くシンちゃんのことが昔っからずうっとね」
「なんだよそれ。だって、お前は俺をハメてたじゃねぇか。最初っから全部仕組んで、俺を除け者にするつもりだったってことじゃねぇかよ」
「違う、先にあたしを裏切ったのはキミの方だよ。あれくらいの罵倒、受け止めてくれないとフェアじゃない」
「はぁ?」
サオリちゃんは、制服のネクタイを掴んで顔を近づけた。
そこには、深淵に映し出された夜空が広がっていた。
「シンちゃんは、不幸な人を放ってなんておけない。誰彼構わず助け出して、そのクセ人助けに見返りを求めない。キミは昔からそうだよね」
山川たちを助けたときのように、感謝を貰った思い出が蘇る。これは、俺を必要としてくれる人を真摯に受け止めたいという根本的な欲求の影だ。
「だったら、なんだってんだ?」
「その結果、キミは意図せずハーレムを築いてしまった。当たり前だよね。そんなカッコいい男の子、小学生の女の子が好きにならない方がおかしいもの」
クスクスと笑い、更に顔を近づけるサオリちゃん。
「あたしを置いて、無自覚に惚れさせた女の子で身の回りを固めていった。キミは気がついていなかったけど、キミの周りには目をハートマークにして見つめる子が何人もいたんだよ?」
――気持ち悪い。
「何を読んでるのか知りたくて、本を読むシンちゃんの周囲にはいつも女の子がいた。それを見て、周りの男の子たちはどう思ったかな。今のシンちゃんなら、よく知っているよね?」
――気持ち悪い。
「そして、嫉妬した男の子は憤りを発散するために女の子にイタズラをする。そのイタズラをシンちゃんが解決して、またキミを好きになる女の子が増える。酷いマッチポンプなのに、一番残酷なのは本を読んでいたからってシンちゃんが気が付いてなかったことだよ」
――気持ち悪い。
「だから、あたしはキミを許せなかった。自分のことを知らないキミに本気で腹がたった。憎んで、憎んで、あたしの恋心を弄んだことを本気で憎んで。もう、恋と怒りがグチャグチャに混ざりあって。復讐のためか、一緒にいるためか分からないけど。いつしか、シンちゃんを独り占めにするってことだけで頭がいっぱいになったよ」
……どうして、こんなに大切なことに気がつけなかったのだろう。目を逸らし、自分の世界にのめり込んで知ろうとしなかったのだろう。
「くたばれハーレム。あたしは、心の底からそう思ってた」
思い返せば分かりきったことじゃないか。
なぜ、必要以上に俺がハーレムを嫌うのか。俺が一途であることと、ハーレムが存在することに矛盾がないという矛盾。
彼らに理由がないのなら、必然的に根拠は俺だ。月野に『自分が晴田と付き合えば嬉しいか?』と聞かれたときチラついた、事なかれ主義の弱い俺だったんだ。
これらすべてのファクターへ、一つの答えをあてはめるのなら。
「……そうか」
俺が感じた、ハーレムにおける生理的嫌悪感の正体。
それはまさしく、同族嫌悪に他ならなかった。
「そして、あたしは学級裁判を起こしキミの周りから女の子を排除することにした。私の名前の入ったリコーダー、どうしてここにあるんだろうって小池先生は不思議に思っただろうね」
彼女が隠したのは、絶対に見つからない場所。体育の時間に失われたのではなく、例えばその日の朝からリコーダーは既に無かったのだ。
職員室。そこだけが、決して生徒が探すことのできない場所だから。
「だが、あいつはロリコンの変態だ。泣き真似をするお前を見ても、幸運を手放したくなくてリコーダーをお前に返そうと思わなかった」
「んふふ、分かってたとは言えうまくいって安心したよ。人って本当に何も考えて生きてないんだなって、シンちゃんに罵声を浴びせるみんなや性欲塗れの小池先生を見てそう思った」
「……同感だ」
「けれど、一つだけ想定外のことが起きた。シンちゃん、キミが二度目の裁判を起こして判決を逆転してしまったことだよ」
サオリちゃんは、俺の薄っぺらい胸板を叩いた。頼り甲斐のないトンという音を聞いて更に彼女は揺らめき笑う。
「本当なら、頃合いを見てシンちゃんを優しく慰め、心を丸ごとあたしのモノにするつもりだったのに。キミは、たった一人で立ち向かい小池先生の罪を白日の下に晒した。そんな事になってしまえば、幾らあたしでも手出し出来ないよ」
「だから、監視するために俺と同じ高校へ進んだ月野とコンタクトを取ったのか」
「その通り。因みに、ミチルに起きた例の悲劇を知ったのはそのときだった。目的の為に近づいたとはいえ、あれには流石のあたしでも同情しちゃったかな」
いつの間にか、俺はサオリちゃんに引っ張られて壁際に彼女を押し付けるような体勢になっていた。ジトッとした彼女の垂れ目は、変わらず俺を捉えて離さない。
「月野は、お前を信じて打ち明けたんじゃねぇのかよ。サオリちゃん、頭良くなり過ぎて人の心とか忘れちまったんじゃねえの?」
「そんなことないよ。むしろ、欲望に忠実で自分のことが一番大切で。この世界の誰よりも人らしい人だって、あたしはあたしを思ってるよ」
ならば、彼女には俺がどう見えているのだろう。あまりにも人らしくなくて、気味悪く感じていそうだな。
「それに、あの子は誰でも良かったんじゃないかな」
「なに?」
「だって、あたしと一緒だもの。あの子は、ずっと誰も信じてなんていない」
その意味を聞き返すより先に、サオリちゃんは言葉を紡いだ。
「そうして、やってきたのが今回のハーレム事変。これは使えるなって、ミチルには申し訳ないけどそう思っちゃった」
「俺の、ハーレムへの意識と決別の確認か」
「またまたその通り。シンちゃんが尽くし、シンちゃんを好きになってしまった女の子をシンちゃんがフッたことで、キミが絶対にあたしを裏切らないことが証明された。シンちゃんは、一人のために他の女を切ることが出来る男に成長したんだよ」
「なぜ、その相手がお前だと言い切れる?」
「決まってるよ。高槻シンジは、今でも雪原サオリを好きだから」
彼女は、これで終わりだと言うようにニコリと笑った。
種明かしをどうもありがとう。しかし、この説明自体がまるで悪役で、俺には恋愛の合理性を欠いているように思える。
「それら全部バラしちまったら、俺が離れるって思わなかったのか?」
「言ったでしょ? シンちゃん。あたしは、キミのことを買い被ってなんてないんだよ」
「というと?」
「もしここで説明しなくたって、あたしと付き合っていればキミは必ずこの真相に辿り着く。また一人で戦ってしまったら、それこそ致命的な傷になっちゃうでしょう?」
「なるほど、賢明だ」
実を言うと、俺は自分の体と壁でサオリちゃんを挟んだまま別のことを考えていた。彼女の恋をこれ程までに歪めてしまった罪を、どうやって償うべきなのか迷ったからだ。
この迷いは、きっと正しい。
罪を自覚している俺は正しくて、罰を与えたサオリちゃんも正しいのだから。正しい二つのモノを衝突させて、それでも突き抜けるのは考えることを止めたサルのやることだ。
そんな人間が認められる世界はフィクションの中にしか存在しない。みんなが幸せになる方法はあり得ない。どこかに必ず不幸を被る人間が存在してしまうのなら、俺は俺のやり方で問題を解決するべきだ。
なぜそれを選んだのか、数式の答えを導くため仮定の方程式を事細かく解答欄へ記入するように、俺の正しさがより強固であると伝えるしか無いのだ。
失ったモノを、埋めるモノ。そこに収まる最も辛い一つを、俺は確かに知っているから。
「……シンジ、くん?」
その時、暗闇の中からパーカーを羽織った少女が現れた。見るまでもない、月野ミチルの声だ。
眼下に佇むサオリちゃんはどこか不安げに笑った。さっきまでの尊大な態度は息を潜めている。何事も見通し俺の上を行くサオリちゃんが、年頃よりも年下の普通の女の子に見えた。
「よぉ、月野。見せもんじゃねぇぞ」
不幸な少女が二人。
今まさに、俺はどちらを救うべきかの岐路へ立たされていた。
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