藍女

尾八原ジュージ

藍女

 へぇ。きみ、『藍女らんじょ』のことを知ってるのか。

 どこで聞いたんだい? T芸大の教授からか。あの教授は父と古い付き合いだからなぁ、どうせ酒でも飲んだついでに喋ったんだろう。ははは、ね、その通りだろう。それじゃあきみは、T芸大の学生さんなんだね。洋画を描いているのか。絵の具の匂いがするよ。

 しかし藍女のことを知ってる人なんて、ずいぶんひさしぶりに会ったもんだなぁ。なるほど『藍女』は確かにこの美術館の目玉だった。でも、もう十年近くも展示されていないからね。むかしはそこの壁にかかってたものだが、今はもう別の絵をかけてる。

 なぜって、とても展示できるような状態じゃないのさ。

 まぁどうしてそういうことになったのか、ひとつお話ししてもいいよ。ぼくはこの私設美術館の雇われ館長をやってるんだが、ご覧のとおり閑古鳥の巣窟だからね。暇を持て余しているんだ。

 しかしきみ、この話を聞いても怒ったり、嗤ったりしないでくれよ。僕だって誰かから同じ話を聞いたら、ふざけた与太話をされたと思うだろうがね。

 そういうたぐいの話なのさ。


 さて、この美術館の持ち主が誰だかご存知かね。そう、斉藤欽蔵といって、僕の父にあたる男だ。そしてこのことも併せてご存知だろうが、大金持ちで偏屈で熱狂的な美術品の蒐集家だってので有名な男なわけさ。

 さて、その美術蒐集狂のおやじが大金をつぎ込んで好き放題に建てたのが、この美術館なのだ。この土地の気候がどうとか建築の様式がなんたらとか、うんちくはいくらでも出てくるんだが、しかし今日は『藍女』の話だけにとどめておこう。

 一口に「絵」と言っても色々あるわけだが、おやじはなかでも美人画に拘った。この拘りというのが大変なものでね、他所から相当高価な絵を買い付けるだけでなく、とうとう自分専用の美女を用意しないと我慢できなくなったんだね。ええと、夭折した小島なんとかという洋画家がいただろう。その彼に、丸々一年程かけて二十号ほどの一枚の絵を描かせた。自分の注文どおりの、理想の美女というやつをね。

 それが『藍女』さ。

 なんというか、凄まじい女なのさ。いや、彼女にモデルなんていたのだろうか、僕にはわからない。とにかくそれは名前も定かでない、何かの古典とか神話をモチーフにしたわけでもない、ただ暗い画面に着物をしどけなく着崩した女が描かれているというだけの絵なのだ。藍色の着物を着ているから単に「藍女」と呼んだわけだが、まぁ、確かに美しい女だった。だがやはり普通の美人画とはずいぶん違って、なんだか怖ろしいような女だった。

 絵自体の出来栄えは素晴らしかった。真っ白な肌に青い血管が浮いているさまといい、櫛巻にした黒髪が崩れて首のところに後れ毛がいくつも垂れているところといい……でも一番凄いのは目だったね。三白眼の、まるで愛嬌のない目つきなんだが、どこに立って鑑賞していても、こちらを睨んでいるように感じるのだ。

 ともかく名作には違いない。さっそく美術館へ展示して、その際は式典なぞもなかなか盛大にやったものさ。小さな子供が絵を怖がって泣いたりしたんだが、おやじときたらそれにもご満悦だった。こんな美人画はこの世のどこにもあるまいと言ってね。しかしこの絵が、後にひとりの若者の人生を変えてしまった。


 僕の従弟に祥太郎といって、大変優秀な青年がいた。僕とはまるで違って真面目な男で、その上学業も優秀、顔立ちもすっきりと整った男前で、好青年という言葉が服を着て歩いているようなやつだった。

 父も彼には目をかけていたのだが、この祥太郎がなんと、あの藍女にやられてしまったのだ。先般の式典でこの絵をひと目見て以来、すっかり心を奪われてしまった。

 祥太郎は毎日、休館日にまでこの美術館にやってきては、藍女の前にいつまでも立ち尽くすようになった。最初はおやじも喜んでいた。おれの藍女の魅力がわかるとは見どころのあるやつだというのでね。しかしじきに、そんな生易しいものではないということに気づいてしまった。

 祥太郎は恋をしていたのさ。藍女を一枚の絵ではなく、ひとりの女として見ていたのだ。

 おまけに奇妙なことには、あの藍女のやつまでだんだんおかしくなっていった。祥太郎がやってくるとなんとなく表情が艶めかしくなって、切れ長の目のふちがほんのり赤くなるのだ。いや、本当なんだ。僕だって藍女が油絵に過ぎないってことは百も承知なのだが、しかし、祥太郎と見つめ合う顔が普段と違って見えたというのは、僕だけでなく、おやじや叔父、祥太郎や僕の兄弟なんかも言うところなのだ。

 祥次郎は藍女を買い取ろうとしたが、もちろんおやじが売るわけがない。いくら大金を積まれたってやるものかと、大変な騒動になってしまった。おやじと祥太郎の仲は、じつに険悪になったね。しかし祥太郎は、美術館に通ってくるのを一向にやめようとしなかった。

 僕は何度か彼と話をしたのだが、どうにもならなかった。「藍女のことが好きで好きでたまらない」と言って、泣くのだよ。大の男が。あの生真面目でしっかりものの祥太郎が、別人のようにめそめそしているんだ。僕は気味が悪くなって、あまり彼とは関わらないようになった。

 そのうちとうとう、藍女をどこかへ移そうという話になってね。むろんひっそりと、祥太郎の知らないところへさ。僕もそれがいいと思った。祥太郎も一時は辛かろうが、現物がなくなればそのうち恋を忘れて、立ち直ってくれるのではないかとね。そのうち現実の女を好きになって、堅実な男に戻ってくれるのではないかと期待したのだ。

 ところがそうはいかなかった。


 その日はやっぱり人気の少ない日でね。この展示室にいたのは、僕と、祥太郎と、祥太郎のおやじさんと弟、うちのおやじ、それに掃除婦だけだった。

 おやじは藍女の額縁を、ガラスのないものにしていた。女が呼吸できなくなりそうで厭だと言ってね。今となっては、それが災いしたのだと僕は思う。ふたりの間に隔てがなかったことが、発作的にあんな行動を、祥太郎にとらせてしまったと思うのだ。

 言った通り、藍女はそこの壁にかけてあった。前にはこう、客が絵に触らないようにロープが張られていたのだが、その日もいつものように藍女を見に来ていた祥太郎が、突然そのロープを越えて、こう、絵に向かって両手を差し出したのだ。あたかも生身の女に抱き着くようにね。

 僕は慌てて止めに入ろうとした。絵を傷つけられると思ったのだ。が、遅かった。

 祥太郎の両手首が、まるで泥沼にでも入ったかのように、ずっ、と絵の中にのめり込んだ。次の瞬間、祥太郎の姿は消えてしまった。

 そら、そんな顔をするだろうと思った。しかし僕は本当に見たんだ。にわかには信じがたかった。しかし周囲を見ると、おやじも、叔父も従弟も掃除婦も、同じような表情をして固まっていた。彼らも確かに、祥太郎が消えるところを見たのだ。

 僕は彼らの顔を眺めて、それからようやく絵の方に顔を戻した。途端に背筋がぞうっと冷たくなった。

 なんと、絵の中に消えたはずの祥太郎がいるじゃないか。ついさっきまで女がひとりだけだった真っ暗な画面の中で、灰色の背広を着た祥太郎が、藍女と寄り添って座っているんだ。藍女はいかにも嬉しそうに、祥太郎の胸にもたれている。祥太郎は慈しむように女の肩を抱いている。とんでもないものを見てしまったと思った。次の瞬間、バターンと大きな音がした。頭に血ののぼったおやじが卒倒したのだ。大騒ぎになった。

 それでどうなったかって? どうしようもないさ。絵の中にいる二人に、どうしたって手を出しようがないじゃないか。

『藍女』の展示はとりやめになって、今はうちの蔵に仕舞われている。たまに叔父や叔母が息子の顔を見にくるのだが、病人みたいな顔をして帰っていくよ。おやじはもう、藍女なんか最初からいなかったような態度でね。よほど腹を立てているんだろうが、それでもあの絵を捨ててしまうことはどうしてもできないらしいのだ。

 僕かい。僕は見ないことにしている。ふたりともあんまり幸せそうなもんでね、目の毒だよ。

 きみもあんなもの、見ないに越したことはない。

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