第17話 エピローグ

グラウンドでは泥にまみれたユニフォーム姿の少年たちの歓声が飛び交っていた。


時折、カキーンと金属バットの乾いた音が周囲に響き渡った。晩秋のひんやりした空気が心地よく感じられる土曜日の午後、その河川敷の公園は青空の下でスケートボードに興じる子供たちや、散策する家族連れなどでにぎわっていた。

退院したばかりの阿古屋は勝と美織を伴い、時折強く吹きつける木枯らしに身をすくませながら、まるで大地の堅さを確かめるかのようにゆっくり河川敷を見下ろす堤防の上を歩いていたが、やがてふと立ち止まり、勝と美織のほうに向きなおって少し照れくさそうに言った。

「警察官時代から数えて、今まで何度も命の危険にさらされてきた私だが、今度という今度はもう駄目かと思ったよ。こうやってまた自由に外を歩けるようになるとはね。私の悪運もまだしばらく続きそうだな」

「もう左肩はすっかり大丈夫なんですか?」

微笑みを浮かべつつも阿古屋を気遣うような様子で勝が尋ねた。

「ああ、もう痛みもないし、指先のしびれもなくなった。医者も驚いていたよ。ひどい怪我だったから、たとえ長期間のリハビリを経ても相当後遺症が残ると踏んでいたらしいが、ふたを開けてみればたった三週間の入院でほとんど完治してしまったわけだからね。

美織さん、これも全てあなたのおかげだ。心から礼を言うよ」

美織はそれを聞くと黙ってにっこり笑い、脇にいた勝の方を見て二人うなずき合った。

地下駐車場で織部たちを倒した後、出血多量で意識を失った阿古屋は特防班の救急車で駆け付けた美織に危ないところを助けられたのだった。

「持松先生も喜んでいましたよ。ずっと阿古屋さんの事を心配していましたから。

そうそう、これ、先生から預かって来たんです。退院祝いですって」

そう言って美織は手にしていたトートバッグから四角く平べったい包みを取り出し、阿古屋に手渡した。阿古屋は包みを開けずとも、すぐに中身の見当がついた。

まったくドクトルらしいな。

そう阿古屋は心の中でつぶやき、苦笑した。

それは持松が普段愛用している葉巻の入った箱に違いなかった。入院期間中は当然のように禁煙を強いられていた阿古屋だったが、すぐにでも包みを開けたいのを我慢してそれを小脇に抱えると、勝のほうに向きなおり、問いかけた。

「ところで君はもう、決心がついたんだね、南雲君?」

「はい。もう不安はありません。本当は最初から迷う事なんてなかったんでしょうけど、美織と二人で持松先生を訪問した際、先生からシベリアのオーリガさんの話をうかがって確信したんです。何も心配することはない、きっとうまくいくって。僕たちがこれから辿ることになる道は決して平坦な道ではないかも知れませんが、お互い支え合って、長い道のりを一歩一歩しっかりと前へ向かって歩いて行くつもりです。行方さんやオーリガさん達がそうして来たように」

それを聞いて阿古屋は満足そうに微笑んだ。

「それは良かった。これからは私も、私の特防班も君たち二人を遠くから見守っていることにするよ。ただ、希少種である美織さんには私たち特防班が時おり協力を仰ぐこともあるかも知れないが」

「もちろんです。だってこの世の中には私にしか出来ないこともあるみたいですもの。

いつでも呼んでくださって構いません。喜んで協力しますわ」

美織は少し誇らしげに、両手を腰に置いて笑いながらそう言ったが、次の瞬間遠くを見るような表情でつぶやいた。

「…オーリガさん、今でもお元気なのかしら?」

「たぶんね。美織さんはこれまで私なんぞが思いもよらない景色を長いこと見続けてきたはずだ。これからもそうだろう。いつかどこかで彼女と巡り合うこともあるんじゃないかな?それはそうと、お宅の金谷社長はお元気なのかね?もうとっくに退院したと聞いているが」

「はい。社長は阿古屋さんには済まないことをしたとしきりに言っておりました。もっと早くから阿古屋さんに協力していればこんなことにはならなかったって」

勝がそう答えると阿古屋は言った。

「仕方ないさ。私が金谷社長の立場だったとしてもやはり迷ったと思うよ。

しかし、彼の協力がなければ織部たちと政財界の癒着をとことんまで暴くのは困難だっただろう。私が当初思い描いていた結末とは異なって、かなり荒っぽい解決手段を取ることにはなったが、その結果、押収した織部、臼木の携帯端末を解析して多くの物的証拠を集めることが出来た。私もある程度予想はしていたが、解析結果を見て心底驚愕した。公表された暁にはこの国の屋台骨を揺るがしかねない代物だったのだ。私が入院していた病院に駆けつけてきた旧知の仲の検察官に見せたら、百戦錬磨の彼も青ざめていたよ。何しろ警察その他の官公庁の高級官僚は言うに及ばず、与野党の議員や現職の閣僚も巻き込んだ一大スキャンダルに発展しかねない爆弾なのだ。多方面への影響を考慮し、そのすべてを公表するのは現時点では差し控えるべきだろうと、検察官は私に提案したが、私としても異存はなかった。言うまでもないことだが、食人鬼や希少種の秘密はあくまで伏せておかなければならないし、わが特防班としてはオリベ・エンタープライズを窮地に追い込むことが出来れば当面の目標は達成できるわけだからね。ある程度の妥協はやむを得ない。

いずれにしろ、金谷社長には難しい選択を迫ってしまったようで、私としては大変申し訳なく思っている。その罪滅ぼしと言っては何だが…」

そう言うと阿古屋は不意に二人に背中を向け、話を続けた。

「ご存知の通り、我々公務員には任務を遂行するうえで守秘義務と言うものが常に付きまとう。ここから先は私の独り言だ。軽く聞き流してくれれば幸いだ。

来週早々、おそらく月曜日の株式市場が終了した後になると思うが、検察当局が公文書偽造、株価不正操作、特別背任罪その他の疑いで、会長はじめ役員数名が雲隠れして久しいオリベ・エンタープライズ本社の家宅捜索に入ることになった。あれだけの規模の会社の一大スキャンダルだから、来週いっぱいは株式市場全体が乱高下することになるだろう。早晩オリベ・エンタープライズは経営破綻する。当然株そのものが紙切れに…」

「フフ、皆まで言わずともわかりますよ、阿古屋さん。ウチの社長、オリベ・エンタープライズの持ち株はとっくに売却処分してしまったそうです」

そう勝が阿古屋をさえぎると、阿古屋は二人のほうへ向き直り、少しほっとしたように言った。

「私が独り言を言うまでもなかったか。見かけによらず、お宅らの社長は抜け目がないんだな」

「見かけによらずって、一言余計ですよ、阿古屋さん」

美織がとがめるような上目遣いで阿古屋に抗議したが、その目は笑っていた。

阿古屋は苦笑いをしながら、妻の咲が生前よくこんな表情をしていたのをふと思い出した。

勝もつられて笑い、とりなすように言った。

「仕方ないよ、金谷社長は織部会長と違って、見るからに切れ者という感じじゃないからね。それに社長はIT企業の社長のくせに、少しIT音痴のところもあるし。僕が今の会社に転職したての頃、社長室に年代物のパソコンが大事そうに置かれているのを見て、転職したのを少し後悔したくらいだもの」

それを聞いた阿古屋と美織はしばらく無言で顔を見合わせていたが、やがてどちらからともなく、二人とも堰を切ったように大笑いした。ややあって、少し真顔になった阿古屋が金谷を弁護するように言った。

「長い人生において、人は絶えず取捨選択を迫られ続けているが、時にはなかなか捨てられないものや思いにも出くわす。未練を断ち切ろうとして人はいつも苦悩するが、金谷社長にとってその古いパソコンは大学の先輩だった織部との絆の証だったに違いない。彼はこの先ずっと、そのパソコンを見るたびに織部と訣別したことについて苦悩し続けるだろう。織部の秘密は奥さんにすら打ち明けていないそうだ。彼を本当にサポートしてあげられるのは、すべてを知っている君たち二人だけなのかもしれない」

それまでとは打って変わって、しんみりした様子で阿古屋の話を聞いていた美織と勝だったが、

「大丈夫ですよ、任せてください。だって金谷社長は、私たちの社長なんですから。私と勝さんと二人で金谷社長を支えていきます。ねえ、勝さん?」

美織が自分の胸に手を当ててそう請け合うと、勝も彼女に同意した。

「もちろんさ。社長はきっと立ち直ってくれる。それに社長は織部さんと訣別したんじゃない。今の会社が、社長にとっては織部さんそのものなんですよ」

「なるほど。それもまた、織部の遺産と言うわけか。話は尽きないが、そろそろお別れの時間だ。美織さん、南雲君、君たちには本当に世話になった。金谷社長にもよろしく言っておいてくれ」

二人は少し名残惜しそうに阿古屋の言葉にうなずいたが、その時美織が突然何かを思い出したようにバッグの中をまさぐり始めた。やがてお目当てのものを見つけ、それを阿古屋に差し出しながら言った。

「一番大事なものを忘れていたわ。阿古屋さんの宝物」

それは阿古屋が愛用していた妻からの贈り物のライターだった。地下駐車場で阿古屋が救急車に収容された際、美織が阿古屋のそばに転がっていたのを拾って保管していたのだった。

てっきり紛失してしまったものと思ってあきらめていた阿古屋はライターを受け取り、それを慈しむように眺め、少し照れくさそうに言った。

「ありがとう。未練なようだが、私はこれを常に持ち歩いていないと落ち着かないたちでね。恩に着るよ、美織さん」

「未練を断ち切ろうとして人はいつも苦悩する。でも、断ち切らなくてもいい未練だってあるんじゃないですか?」

美織にそう混ぜっ返され、阿古屋は思わず苦笑した。


秋晴れの空の下、阿古屋は堤防の向こうに二人の姿が見えなくなるまでじっとその場にたたずんでいた。

あの二人はこれから先、阿古屋が年老いてこの世を去り、彼ら二人にとって近しい人間たちがすべて死に絶えた後もなお気の遠くなるような永劫の人生を歩み続けるのだ。

人間は本来限られた生のみを与えられている。

人間の短く儚い一生にふさわしい、脆く傷付きやすい精神。それが果たして永劫の人生という試練に耐え続けられるものなのだろうか?

阿古屋はこれまで何度となく繰り返した疑問を今一度思い浮かべた。

その時、彼は誰かに肩を叩かれたような気がして後ろを振り返った。

突然吹き荒れた木枯らしのいたずらだった。風でコートの襟がはためいていたらしい。

ふと彼の心を、亡き妻の面影がよぎった。阿古屋が何かに思い悩んでいると、いつも咲が彼の肩にそっと手を置いて微笑みかけていたのを阿古屋は思い出した。

あの二人なら大丈夫よ。

吹きすさぶ木枯らしの中にそうささやく妻の声を聴いたような気がして、阿古屋は我知らず微笑み、ひとつ大きく伸びをして、その場を後にした。





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永劫なる眷属 @gonn2026

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