第16話 待ち伏せ

オフィスビルの地下駐車場は暗闇と静寂に支配されていた。


その暗闇の片隅に潜んでいた阿古屋は、コートのポケットに裸のまま忍ばせていた大型の半自動拳銃をそっと取り出し、冷たい感触を確かめるようにグリップを握り締めた。古びて酸化したグリスのにおいがツンと鼻孔を刺激する。いつも携帯しているニューナンブ回転式拳銃はホルスターにおさめたままオフィスのロッカーに置いてきた。小型で堅牢なニューナンブは、常に作動不良の恐れがつきまとう半自動式拳銃に比べれば構造が簡単で確実に作動するし、阿古屋にとっても警察官時代から愛用していた、いわば使い慣れた古女房のような存在ではあったが、今回の任務に限って言えばニューナンブのような小型リボルバーではものの役に立たなかった。

「願わくばこの聖水、ハイリゲス・ヴァッサーが人類に福音をもたらさんことを」

特効薬を収めたボトルを手渡す際、まるで信者を祝福する司祭のような面持ちで持松がそう言っていたのを阿古屋はふと思いだした。

特防班を去った五人の警察OBは全員射撃のエキスパートだったが、特に城嶋、根来は名手と言ってもいい腕前で、阿古屋は彼ら二人をいつも頼りにしていた。その彼らがいなくなった今、一人で敵に立ち向かわなければならなくなったのは阿古屋にとって正直大きな誤算ではあった。彼は特防班のオフィスを去る時の城嶋、根来の後ろ髪をひかれるような顔をふと思い出した。室長一人で大丈夫ですかと言わんばかりの二人の表情だった。あの時は虚勢を張って見せたが、まったく心細くないと言えば嘘になる。再び持松のセリフを頭に思い浮かべ、阿古屋は無理やり自分を奮い立たせた。

「たとえ体のどこに命中しても、弾頭に仕込んだ特効薬が食人鬼の体内に拡散すれば瞬時に中枢神経を麻痺させ、呼吸困難に陥ると同時に再生能力をも奪ってしまう。とどめを刺す必要すらない。足だろうが腕だろうが命中さえすれば彼らは即死を免れないだろう」

この特効薬を調合した持松はそう太鼓判を押していた。

急所を狙う必要はない、とにかく体のどこかに弾が当たりさえすればいい。

いくら俺の射撃の腕がお粗末でも、あんな大きな的を至近距離で外すことなんてまずないだろう。阿古屋は自嘲気味にフッと笑みを浮かべた。

阿古屋の右手に握られている拳銃は、コルトM1911A1と呼ばれる古いアメリカ製の軍用拳銃だった。通称コルト・ガヴァメント。

この銃を見るたびに、彼は警察学校時代の射撃訓練を思い出すのだった。鬼教官が見ている前で、拳銃の重さに閉口しつつシューティング・レンジの向こうに見える標的に狙いを定め、ゆっくり引き金を絞る。轟音とともに銃口から出現する大きな火の玉、強烈なショック、そして目の前に広がる薄青い硝煙。一瞬の後、硝煙の向こうの標的に穿たれたはずの弾痕を探すが、そんなものはどこにも見当たらない。

頭の中にクエスチョンマークをいくつか並べつつ教官のほうをおずおずと見やると、坊主頭の鬼教官は渋い表情を浮かべ、標的の遥か上の、天井に近い壁面に空いた穴を無言で指さすのだった。そんなことが何度かあった。

坊主頭の教官のサイレント・トリートメントはまだなんとか耐えることが出来た。だが、同じようなヘマをやらかして自分とほぼ同年代の女性教官に罵声を浴びせられたときは心底打ちのめされた阿古屋だった。

大学院の修士課程を終えてから警察入りした、ややトウの立った訓練生ではあったが、このときばかりは悔し涙がこぼれそうになったのを今でもよく覚えている。もっとも、彼女は罵声を浴びせた後に少し気の毒に感じたのか、アドヴァイスもくれた。

「どこに当てるかを考えるより、どこに当たるかを考えなさい」

彼女は手短にそう言った。

判じ物のようなアドヴァイスにまだ若かった阿古屋は首を傾げた。

当時の彼は、他のことはいざ知らず、射撃に関しては全くの落ちこぼれと言ってもよかった。とは言っても、キャリア組の警察官は実際に現場で銃を扱うこともまずないし、特に阿古屋の場合、その他の科目において常に圧倒的に優秀な成績を収めていたので射撃訓練での不首尾はある程度は大目に見られていたのだが、阿古屋本人は常に自らのふがいなさに歯がゆい気持ちを抱き続けていた。特にこのコルト・ガヴァメントは彼にとって鬼門と言っても良かった。比較的小型の三十八口径リボルバーならともかく、表面仕上げがところどころ剥げ、見るからに年季の入った米軍払い下げの鋼鉄の塊を彼はいつも射撃場で持て余していた。野球のグローブのような手をした大男の米兵ならこんなハンド・キャノンでも軽々と扱えるのだろうが、他の日本人男性と比べてもあまり手の大きいほうではない阿古屋は自分のお粗末な射撃の腕を棚に上げ、オーバー・スペックの四十五口径弾を使用するこの大型コルトを今の今まで無用の長物扱いしてはばからなかった。

実際、長らく米軍の制式拳銃として君臨したコルトM1911A1は、よりコンパクトで貫通力に優れた9ミリ弾を使用するイタリア製のベレッタM9にその座を追われてから久しく、二十一世紀の今日においてはもはや老残の身を晒していた。

それがどうだ、今や究極兵器並みの扱いだ。

食人鬼を倒すための致死量分の特効薬を収めるには、生半可な大きさの拳銃弾頭では間に合わない。コルト・ガヴァメント専用の弾薬、拳銃弾としてはかなり大ぶりな45ACP弾なら弾頭内に規定量の毒を収めてもまだ余裕があったが、これはコルトM1911A1を引退に追いやった張本人、比較的大型の万能拳銃弾である9ミリパラベラムでさえも今回の用途に供するには小さすぎたのとはまさに対照的だった。ライフルならより大きな弾頭を備えた弾薬を使用可能だが、隠密行動という制約があるうえ、近接戦闘が予想される以上は拳銃でなくてはならない。至近距離で絶大な威力を発揮し、45ACP弾よりも大きいスラグ弾を発射するソードオフ・ショットガンも考えないではなかったが、たとえコートの中に忍ばせることはできても、いざという時の取り回しという点では圧倒的に拳銃のほうが有利だった。

また、万が一標的を撃ち漏らしたときのことを考えると、予備弾倉さえあれば素早く再装填できる半自動式拳銃が今回の用途に最適なのはゆるぎない事実だった。

阿古屋はコルトの安全装置を外し、初弾を薬室に装填すると、いったん起き上がった撃鉄をまたそっと両手を使って元に戻した。

今や過去の遺物となり果てた古びたコルトは、思いがけず再びスポットライトを浴びた往年の名女優さながら、阿古屋の手の中で恥じらうように鈍色の光を放つのだった。


待つこと一時間余り、もう暗闇にもすっかり目が慣れてきた頃、三つの人影が駐車場に侵入してきたのを阿古屋は認めた。

エレベーターが止まっているので三階のオフィスに侵入するには表通りに面した階段を使うか、地下駐車場に連なる裏の階段を使うか、選択肢はこの二つしかない。表通りからの侵入は目立ちすぎるので当然こちらへ廻ってくるだろうと踏んでいたが、まさにその通りだった。

何やらひそひそ相談しながら三つの人影は階段に通ずるドアの前までやってきた。

ドアの錠がとうの昔に壊れてしまっているので、新たに掛け金が取り付けられ、南京錠で施錠がしてある。

防犯上の理由から普段こちらの階段は閉鎖されていて、駐車場を利用する際もビルに立ち入るためにはいったん正面玄関へ廻って表側の階段か、エレベーターを使うことになっていた。

掛け金に取り付けられた南京錠を見ても特に慌てる様子もなく、一人がポケットから小さな棒状のものを取り出し、掛け金に向かってごそごそやっている。

ドライバーかなにかで掛け金を破壊するつもりのようだ。

定刻通りならもうそろそろ、か。

阿古屋は腕時計にちらりと目をやり、じれったい思いを抑えつつ、彼らの作業を見守った。

侵入者たちの錠前破壊作業開始から二、三十秒ほど経ったとき、耳をつんざく轟音があたりに響き渡った。ドライバーを持った男が掛け金を破壊し終わり、ドアを開け放ったのとほぼ同時だった。すぐ脇の線路を貨物列車がけたたましく通過し始めた音だ。

任務の性格上、秘密裡に事を運びたいが、そのためには警察の介入は何としても避けたい。

そこで阿古屋は、列車が通過する際の騒音を利用しようと考えたのだった。

高架に連なった跨道橋を列車が通過する際のリズミカルな大音響を隠れ蓑に、周囲に気兼ねすることなく発砲しようという魂胆である。

阿古屋は拳銃のグリップを握ったまま右親指で安全装置が解除されているのを再確認し、いったん下してあった撃鉄を素早く起こして、ここぞとばかりに駐車場の真ん中に勢いよく駆け出し、射撃時の閃光を直視しないようにうつむき加減で目を細め、天井に向けて一発ぶっ放した。

あらかじめ薬室に装填してあった初弾だけは特効薬を内蔵していない通常弾だった。

食人鬼どもは一瞬ぎょっとして辺りを見廻したが、暗闇の中でもすぐに持ち前の驚異的な視力で前方の人影を特定したようで、

「あいつだ!」「阿古屋だ!」

と口々に叫びながらこちらに猛然と駆け寄ってきた。

阿古屋はことさら一人であることを誇るかのように、その場に仁王立ちになった。

奴らの視力なら、俺が孤立無援であることも既に視認しているはずだ。

一人も取り逃がしたくない、全員この場で始末する。

その為には奴らがこちらに向かってくるように仕向けないと。

そう考えながら阿古屋はコルトを右手で構え、更に左手でその右手を押さえながら、素早く向かって一番右側の人影に照準を合わせた。最初は胸部を、少し考え直して下腹部から大腿の辺りに狙いを定める。

三人は阿古屋がかざした拳銃にひるむ様子もない。

地下駐車場は階段に通ずるドアから縦長に阿古屋の立っている方向に伸びていて、両側には補強のためのコンクリートの四角い柱が何本か壁から張り出したような形で均等に並んでいる。

深夜のこととて、本来なら遮蔽物になりうる自動車も存在しない。比較的見通しのいい、隠れる場所のないレイアウト故、二手に分かれて挟み撃ちという戦術は採り難かった。

敵側からすると多少の損害は覚悟で阿古屋に向かって猪突猛進するしか方法がなかったが、阿古屋はそういった地形効果も当然考慮に入れていた。

阿古屋は腰を落として重心を低く保ち、右から左へ舐めるように三つの人影に向かって弾丸を次々と叩き込んだ。発砲に伴う閃光で眼がくらむが、その閃光で浮かび上がる次の標的のシルエットを発射する毎に確認したため、暗闇でも狙いを正確に定めることが出来た。

阿古屋に向かって殺到した三人は45ACP弾の強烈な打撃力をまともに喰らって、音もなくその場に崩れ落ちた。誰一人として、再び起き上がることはなかった。

予想外にあっさり決着がついたが、たかが拳銃弾ごときで命を奪われるなどとは、驚異の再生能力を誇る彼らにしてみれば夢にも思ってもみなかっただろう。

力みかえっていた阿古屋は少々拍子抜けしてしまった。

どこに当たるかを考えろ、か。

少しは自分のお粗末な射撃技術もましになったかな、などと考えつつ、阿古屋は二十年越しで、初めてあの警察学校時代の女性教官に対して感謝の気持ちを抱いたのだった。

特殊弾頭の威力は絶大だった。発射したのは全部で五発。用意していた予備弾倉を使うまでもなかった。五発のうち四発が命中し、三人全員を死に追いやった。

それでなくとも打撃力では定評のある45ACP弾だが、弾頭の変形防止のための合金製コーティングを省略した、いわゆるダムダム弾を使用したため、柔らかい鉛の弾頭は着弾の際の衝撃で体内においてマッシュルーム状に変形し、筋肉、内臓などの組織をズタズタに破壊して、ぽっかり空いたその大穴の中で弾頭に仕込まれた毒を広範囲に、そして瞬時にまき散らした。全員苦しむ間もなく絶命したのは明らかだった。


貨物列車が走り去った後は何事もなかったように再び静寂が地下駐車場を訪れていた。

射撃の際の閃光で眩惑されたため、阿古屋はしばらく周囲を視認することが出来ず、暗がりに再び目が慣れるまでその場にじっとうずくまって、やがておもむろに立ち上がった。錠前を破壊されて開け放たれたドアから明かりが漏れているので、薄暗い駐車場内の様子はそれほど時間をかけなくても比較的容易に視認出来るようになっていた。

緊張の糸がプッツリ切れてしまった阿古屋は放心したようにひとつ大きく息を吐くと、死体を検分するためにそちらのほうへゆっくり歩き始めたが、その時ふと彼の心中にひとつの疑念が生じた。

オリベ・エンタープライズの役員の中でも阿古屋たち特防班が密かに食人鬼としてマークしていたのは会長の織部を含めて六人。そのうち蓮海容子と犬山はすでに死亡している。

とすると残りは四人。

目の前に転がっている死体は三つ。

残りのもう一人はいったいどこに?

阿古屋ははたと立ち止まった。と、その時だった。

背後のかすかな気配に反応してとっさに振り向こうとした瞬間、頭に強い衝撃を受けて彼は昏倒した。数秒間の意識の混濁の後、彼は最初に立っていた場所から数メートル離れた壁にもたれかかるようにしてうずくまっている自分に気が付いた。頭部の激痛が耐え難く感じられる。これだけの衝撃を頭に受けて首の骨が折れなかったのは不幸中の幸いだった。

ふと前を見ると、黒い人影が片手で掴んだ折り畳み式のパイプ椅子をズルズル引きずりながら、ゆっくりこちらに近づいてくる。地下駐車場の警備員の詰め所跡に長らく放置されていたパイプ椅子らしかったが、どうやらあれで頭部を力任せに殴打されたらしい。

近づいてくる人影は織部努だった。

仲間を目の前で殺されたにもかかわらず、表面上は、織部は冷静そのものだった。

色白の端正な顔には汗ひとつ浮かんでおらず、目尻のやや吊り上がった黒い瞳はまばたきすらしなかった。椅子を手にしたまま少し離れたところで立ち止まり、彼は言った。

「阿古屋君、今日はまたずいぶんと姑息な手段に訴えるじゃないか」

ささやくような口調でそう言うと、手にしたパイプ椅子の背もたれと座面を力まかせにもぎ取り、残った脚部のパイプの直角の部分を飴細工か何かのようにまっすぐに伸ばしたかと思うと、今度は棒状になったパイプを両手で前方に掲げ、ぐいっとねじ切って二つにしてしまった。

トレードマークである黒のロールネックセーターとスリムのジーンズに身を包んだ織部は、どこかで脱ぎ捨てでもしたのかジャケットを着ていなかった。

ほっそりした体形の織部だが、パイプをねじ切った時の上腕筋が大きく隆起する様は、この暗がりでもはっきりそれとわかるほど異様な光景だった。

奴さん、どうやら変身するつもりは毛頭ないようだな。

阿古屋は激痛をこらえながらぼんやり考えた。

今夜の織部の狙いはあくまで例の記録媒体であって、その前に立ちふさがる阿古屋は単に除去すべき障害物でしかない。

ショボくれた中年男一匹片づけるには、正体が第三者にばれる危険性を冒してまでわざわざ変身し、彼が本来持つ能力を最大限発揮せずとも、あの驚異的な筋力をもってすれば朝飯前ということなのだろう。

それにしても迂闊だった。

待ち伏せで有利に事を運べると思っていたら、まんまと裏をかかれたのはこっちのほうだったという訳だ。あの三人をおとりにして見えない敵に先手を打たせ、襲撃者の正体をはっきり見極めてからおもむろに反撃を開始する。織部は最初からその腹だったのだ。

殴打された時に吹っ飛ばされた阿古屋のコルトは、彼がうずくまっている場所のはるか右前方に転がっている。

絶体絶命だが、まだ阿古屋には奥の手があった。

祈るような思いで上着の内ポケットを右手でまさぐり、ポケットの中の細長いプラスチック・ケースを、織部に悟られないようにコートの陰で静かに取り出して中身を確かめる。

内容物が壊れていないことを確認すると、ほっとした様子で阿古屋はその内容物を床にそっと置いた。


先端が細く尖って歪んだパイプを、キリストの処刑に立ち会ったという古代ローマの百人隊長よろしく両手に携え、織部は壁際にうずくまったままの阿古屋の前に立った。

「阿古屋君、君にはずいぶんと苦杯を舐めさせられたが、どうやら私の勝ちのようだね。

まったく、君のその職務に忠実な姿勢には心から敬意を表するよ。札束を目の前に積まれるとすぐに私になびいた警察の上層部の連中とは大違いだ。安定した老後のためならだれにでも尻尾を振る。まるで野良犬のような連中さ」

「織部、貴様は十二年前、E市の公営住宅で独り暮らしの老人を手にかけ、たまたまその現場を目撃した若い女をも殺した。覚えているか?」

「フフ、藪から棒にそんな事を言われてもねえ…E市で独り暮らしの老人と若い女?確かにそんなことがあったな。ああ、覚えているとも。あの辺りは一時私の狩場だった。いつものように食事が終わった後、女が家の中に入って来たので口封じのためにね。あの女も運が悪かったな。あんなところで血まみれの姿の私を見てしまったのだから。私としてはそうするしかなかったのさ。で、それが何か?」

「彼女は私の妻だった。当時、独り暮らしの老人の世話をするのが常だった彼女は、あの日もいつものように老人の家を訪れ、そこで貴様と鉢合わせしてしまったのだ」

「…そういうことか。その私怨で君はずっと私たちを追っていた。なるほど、金を積まれてもなびかなかった理由がようやくわかったよ。しかし残念だったな、君の仇討ちも結局成就されずに終わるのだからね」

「織部、貴様が憎いのは確かだが、私は決して私一人の私怨で食人鬼を追ってきたわけではない。貴様たち食人鬼が我々人類の敵だからそうしてきたのだ。たとえ私が今ここで死んでも貴様たち食人鬼に安住の場所はない。復讐の炎を燃やす私のような大勢の人間の影におびえ続けながら一生を終えるのだ。貴様たちの祖先が過去二十八万年の間そうしてきたようにな」

「たいそうな演説だな。君の言う通り、確かに私たちはずっと人類の影におびえながら生きて来た。いつも餌食にしている連中の影におびえながらね。考えてみればずいぶんと滑稽な話じゃないか。食人鬼はそうやって現在に至るまで細々と生きながらえて来たが、ここに至ってその存続が危ぶまれている。何も知らず日々を平穏に過ごす大衆をしり目に、君の特防班と同様の秘密組織が世界各国で暗躍し、我々の仲間たちは絶滅の瀬戸際へとじりじり追い詰められているのだ。

そう、私たち食人鬼はいわば絶滅危惧種なのだよ。

人類の敵?そうかもしれない。しかし人類は、食人鬼と切磋琢磨することによって知恵を蓄え、その文明を発展させることが出来たのではないのか?食人鬼と人類とは切っても切れない関係なのだ。

君たちに私たちの苦しみがわかるか?

私たちは長いこと人類の社会に潜んで暮らし、ついには自分たちも人類なのだと錯覚し始めるまでになった。だが現実はどうだ?生きるために、その人類の命を奪い、肉を喰らわなければならない。さもなければ己の命が危ういのだ。君たち人類は食人鬼を化け物と呼ぶ。だが、私たち自身、自分たちの真の姿に恐れおののいているのだよ。

その気持ちが君にわかるか、阿古屋君?

夜、暗い部屋の中で一人になった時、鏡で自分の真の姿を見てそっとつぶやく。これは私じゃないと。だが、まぎれもなくその鏡の中の醜い化け物は私なのだ。君には私たちの気持ちなど到底わからないだろう。

たとえ外見が化け物であろうとも、種の存続のために私は生き抜かなければならない。

死んだ容子や、仲間たちのためにも」

阿古屋は織部の弁明に黙って耳を傾けていた。

今や阿古屋はその武器を奪われ、裸同然の身だった。

油断した織部が少しでも自分に近づいてくれればチャンスはあるのだが。

阿古屋はそう心の中で願い続けていたが、織部はいっこうに近づいてくる様子を見せなかった。


暫しの沈黙の後、思い直したように織部は再び口を開いた。

「君の奥さんはとても心の優しい、親切な人だったようだね。だがその優しさ、親切心があだとなってしまった。仕方ないこととはいえ、君にも、君の奥さんにも悪いことをしたと思っている。心からお詫びするよ。せめてもの罪滅ぼしとして、今ここで君を奥さんのもとへ送ってあげることにしよう」

そう言うと織部は右手のパイプを高く掲げ、勢いよく阿古屋の左肩に突き刺した。

あまりの激痛に阿古屋は思わず低く呻き声を漏らした。阿古屋の左鎖骨の下から突き刺されたパイプはそのまま肩甲骨を貫通し、勢い余って後ろのコンクリート壁にまで達していた。

動けないようにしてからとどめを刺すつもりらしい。

阿古屋は息も絶え絶えに、喘ぎながら言った。

「織部、最後にひとつ頼みがある、聞いてくれないか?」

阿古屋を文字通り壁に釘付けにして気持ちに余裕ができたのか、織部は微笑みながら小首を傾げて言った。

「なんなりと。もっとも、今更見逃してくれと言われても無理な相談だがね」

「そうじゃない。そこに転がっている、それを私に手渡してくれないか?」

阿古屋があごで示す方向、織部の斜め右後方に、亡き妻からの贈り物である阿古屋愛用のライターが銀色に鈍く輝いていた。

壁際まで飛ばされた際にシャツの胸ポケットから転がり落ちたらしい。

織部は阿古屋の処刑に使う予定の聖槍を左手で掴んだまま、右手でライターを拾い、表面に刻まれているイニシャルを確認した。

「なるほど、奥さんからのプレゼントか。愛しい奥さんの腕に抱かれて最期を迎えたいというわけだね?」

阿古屋はそうだと言わんばかりに首を縦に動かした。

激痛と出血で今にも意識を失いそうだった。

織部はライターを阿古屋のほうへ放り投げようとしてすぐに思いとどまり、直接手渡すために彼に近づいた。

おそらくパイプで刺された際に神経組織や筋肉を損傷したためだろう、左手は激痛も相まって今やほとんど動かせないが、わずかに動くその指先の何本かを震わせて、阿古屋はライターを催促した。

指先をほんの少し動かすだけで左肩全体に激痛が走るが、今ここで右手を使うわけにはいかない。すべてをあきらめた様子の阿古屋が右腕さえ動かせないのを見て安心したのか、彼の正面で仁王立ちになった織部は相変わらず微笑みを浮かべながら、ライターを手渡すべくその場でかがみこんだ。

今だ!

阿古屋が織部のセーターの左袖を掴み、そのまま自分のほうにぐっと引きつけると、前傾姿勢の状態で不意をつかれた織部はそのまま前のめりになり、阿古屋に覆いかぶさるようにして転倒した。

すかさず阿古屋は右手を織部の袖から離し、内ポケットから取り出しておいた注射器を素早く床から拾いあげ、それを織部の左脇腹に勢いよく突き立て、注射器の中の液体を親指で押し込んで一滴残らず彼の体内に注入した。

阿古屋は万が一のことを考え、特効薬を満たした注射器を密かに懐に忍ばせていたのだった。

注射器の中の液体は優に十人以上の食人鬼を死に追いやるだけの量があったが、阿古屋はそのすべてを織部ひとりに食らわせた。

絵に描いたような過剰投与だった。

「ハイリゲス・ヴァッサー…」

誰に言うともなくつぶやいた阿古屋のほうへ物問いたげな視線を送った織部は、次の瞬間がっくり首をうなだれ、その左手に握られていた即製のロンギヌスの槍は床に転がり落ち、カランとうつろな音をたてた。もともと色白だった織部の顔は、今や漂白した紙のように蒼白だった。


遠くで救急車のサイレンが聞こえた。

サイレンの音は少しずつこちらへ近づいていた。それは紛れもなく、例の符牒を伴った特防班の救急車のサイレンだった。その哀調を帯びたサイレンが徐々に大きくなるにつれ、今や出血多量で意識が朦朧としていた阿古屋には、そのサイレンの音色がいつしか妻の歌声とダブって聞こえるようになっていた。懐かしいメロディだった。彼にとってはおなじみのメロディだったはずなのに、なぜか曲名が思い出せない。徐々に薄れゆく意識の中で軽い苛立ちを覚え始めた時、ようやく彼は思い出した。

そうだ、「ソルヴェイグの歌」だ。

それは阿古屋が好きでよく妻にせがんでいた「ソルヴェイグの歌」に他ならなかった。

そのお気に入りの調べにじっと耳を傾けていると何とも言えない心の安らぎを覚え、織部たちとの戦いなどは次第にどこか遠い世界の出来事のように思えてくる。それだけでなく、外の世界で起きているすべての出来事に対して彼は関心を失っていた。

妻の懐に抱かれて泥のように眠り続けること、今やそれが彼のただ一つの願いであり、関心事だった。


冬が過ぎると 春は急ぎ足で去り

夏が行けば 年の終わりを迎えるだけ

いつか あなたは私の胸に帰ってくる

約束通り 私はあなたを待っているわ


いつも 神様はあなたを見ている

あなたの祈りに応えてくれるはず

だから 私はここで待つの

でも今 天国にいるのなら

すぐに私を呼んでほしい


阿古屋は心に響く妻の歌声を聞いてかすかに目を細めた。

天国だって?天国にいるのは咲、君のほうだろう?

相手は食人鬼とは言え、多くの命を奪った俺をいったい神様が許してくれるものだろうか?

それとも君は、俺を地獄まで迎えに来てくれるのかな?

…寒くなって来たな。君のぬくもりが、恋しいよ…。


サイレンの音色はやがて間近に迫って来た。

既に阿古屋は意識を失い、その魂は生死の境をさまよっていたが、開け放たれた階段のドアからは薄明かりが細く長く伸びていて、地下駐車場の片隅に横たわる二人の男を慈母の眼差しのように暖かく、おぼろげに照らし続けていた。

事情を知らない者には、寄り添うようにして冷たいコンクリートの上に臥せる二人は、再会を歓ぶ旧友同士に見えたに違いない。



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