第15話 罠


薄暗い病室で阿古屋はベッドに横たわる金谷勘吉を静かに見下ろしていた。

阿古屋は入室してからしばらくの間、入院患者と相対してもほとんどしゃべらず、ひたすら金谷を見つめていたが、そのいつになく穏やかなまなざしは、金谷にある決意を促しているようにも見えた。やがて重苦しい沈黙に耐えられなくなったのか、金谷が口を開いた。

「阿古屋さん、私はあなたに謝らなければならないようだ」

金谷勘吉は病院のベッドの脇に佇む阿古屋に言った。

「もっと早くから、あなたに協力するべきだった。こうやって病院のベッドでのうのうとしている自分が情けない。私が優柔不断だったせいで経理担当の西村君は殺されてしまった。私が代わりに死ねばよかったんだ」

「やはりあなたは織部努の正体を以前から知っていたんですね?」

「もう何年も前から知っていました。だが、他の誰にもそのことを打ち明けられなかった。なんと言っても織部さんは私の恩人です。絶対誰にも打ち明ける訳にはいかなかったが、それももはや過去の事となってしまった。私一人ではもうどうしょうもないところまで事態が進展してしまった今、阿古屋さん、私はあなたにすがるしかなくなった。全てをお話ししましょう。何でも聞いてください」

「金谷さん、あなたは彼らの秘密について、何か証拠を握っていた。例の犬山はそれをかぎつけ、その証拠を隠滅しようと単身あなたの会社に侵入し、そこで残業していた経理担当の西村氏を殺害して、偶然出くわしたあなたにも重傷を負わせた」

「まさにその通りです、阿古屋さん。実を言うと、私は以前、織部会長との会話を密かに録音し、オフィスに隠してあったのです。あなたのおっしゃる通り、織部さん達の正体を明かす決定的な証拠です。私はその録音をディスクに収め、誰にもわからない場所に密かに隠してありました。あの犬山という男はどこかでそれを知り、そのディスクを奪おうとしたのでしょう。その結果、西村君は無残に殺害され、更には南雲君まで危ない目に合わせてしまった。私は彼らに合わせる顔がない。死んだ西村君の家族に何とお詫びしたらいいのか。もはや私が死んで詫びるしかないのでしょうか?」

「金谷さん、まだ挽回するチャンスはあります。織部の携帯電話のアドレスは当然ご存じですね?」

「もちろん、知っていますが?」

「では、彼にメールを送っていただけませんか?事態の収拾のためにはあなたの協力が何としても必要なのです」

「…わかりました、おっしゃるとおりにしましょう」

阿古屋は送るべきメールの内容について金谷に伝えた。

「では、手筈通りにお願いします。それから金谷さん、死んでお詫びを、等とは二度と言わないことです。美織さんの好意を無駄にしてはいけません。美織さんも南雲君も、あなたが一日も早く回復することを心から願っているのですから。それではお大事に」

阿古屋が病室を出て行った後、ベッドに仰向けになった金谷は天井を見つめたまましばらくの間身動きひとつしなかった。彼は祈るように両手を固く握りしめ、やがてぼそりとつぶやいた。

「織部さん、私を許してくれ…」




阿古屋が金谷の見舞いに訪れたその日、オリベ・エンタープライズの会長室には夜遅くまで明かりがともっていた。


「まったくバカな男だ。独断で軽率な行動に走り、結局自ら墓穴を掘ってしまった」

織部は役員の臼木を前に、大きくため息をついた。

「犬山は誰にも相談せず、一人で性急に事を起こして悲惨な最期を遂げました。たしかに軽率のそしりを免れることは出来ないでしょう。それに、今回のことがなければおそらく金谷社長も織部会長の秘密については口を閉ざし続けていたはずです。わたしもその点ではあなたに同意します。しかし現に社員の一人が殺され、自身も重傷を負った今となっては、彼が沈黙を守り続けるのを期待するのは難しいのではないでしょうか?」

臼木はいつもの慎重な態度を崩さず、それでも織部に自身の疑念を表明した。

もう秋だというのに小太りの臼木は額の汗をしきりにハンカチで拭いつつ、度付きの黄色いサングラスの奥で神経質そうにまばたきをしていた。

「金谷君はおそらく今でも迷っているはずだ。今回の事も犬山ひとりが暴走した結果なのは重々承知しているだろう。彼の性格からして、金谷君は例の秘密をまだ誰にも話していないと思う。だとすれば彼が入院中でオフィスにいない今、その記録媒体を我々がこっそり回収して跡形もなく不利な証拠を消すことは十分可能だ。ただ、困ったことに彼がどこにそれを隠しているのか皆目見当がつかない。ありきたりの場所ではないことだけは確かだが」

「犬山の襲撃をうけた後、どこか別の場所に移し替えたということも考えられるのでは?

本当に自分のオフィスに隠しているのなら、いっそのこと放火するなりしてオフィスごと証拠隠滅をはかる手もありますがね」

慎重居士の臼木らしくなく、今度はやや投げやりにそう言い放った。

また会長の悪い癖が始まった。いつもは即断即決の織部会長が、こと金谷社長が絡んでくると情に流されて途端に優柔不断になる。さもそう言いたげに、臼木は縮れ気味の頭髪を片手でかきむしりながら少しうんざりしたような表情をしていた。

「まあそう慌てるな。確かにその手もあるが、それはあくまでも最後の手段だ。あまり派手なことをやらかして事を荒立ててもまずい。金で警察を手なずけるにも限度がある」

織部の忠告を受け、臼木が苦虫をかみ潰したような顔でつぶやいた。

「金で手なずけることが難しい輩もいますがね」

「阿古屋か。真相は闇の中だが、犬山はあらかじめあの男が仕掛けていた罠にかかった可能性が高い。でなければそう簡単にやられるとは考えにくい。容子の時と同様、犬山の死体を秘密裡に回収して襲撃の事実を世間から隠蔽したのも奴の組織だろうが、それとて我々に有利に働いている。もし阿古屋の特防班でなく、警察がかぎつけていたら?我々の息がかかっていない警察組織の末端の連中まで沈黙させるのは至難の業だっただろう。

あの阿古屋という男は確かに我々にとって目の上のたんこぶには違いないが、もはや奴一人では何も出来まい。奴の手足となって働いていた連中がいなくなった今、しばらくの間はおとなしくしているしかないだろう」

「なるほど。金の力で外堀を埋められてしまった以上、ただ一人残った本丸の阿古屋が打って出ることは難しいですからね。しかし伯耆美織と南雲勝についてはどうなのです?我々は以前から希少種である伯耆美織と、適格者の南雲勝を長いこと別個に監視下においていました。希少種ほどではないとは言え、南雲勝や行方操に代表される適格者もその数は決して多いとは言えません。ですが会長、我々は事態を楽観視しすぎていました。行方氏の死後、伯耆美織は別の適格者を見つけられずに終わり、やがて死を迎えるだろうと考えて推移を見守っていましたが、その予想は見事に裏切られ、我々にとって最悪の事態が発生しました。今やあの二人が結託して、我々の前に大きな脅威となって立ちはだかっている事実に変わりはないのです」

「たしかに脅威には違いないが、切迫した危機ではないと私は思っている。おそらく伯耆美織は行方老人の死後、せっかく見つけた適格者の南雲勝を守るのに精一杯で、我々に対して事を起こそうなどとは思ってもいないだろう。それに、我々にとって脅威なのはあの二人だけではない。数こそ少ないが、希少種と適格者は他にも存在する。これは間違いのない事実だ。だからこそ我々は政府機関が管理している遺伝子情報のデータベースにアクセスして彼ら以外の希少種と適格者の存在を洗い出し、必要に応じて我々を脅かす存在をいつでも排除できるよう準備をしておかなければならないわけだ。そのためにはわが社のさらなる発展は必要不可欠だし、君が陣頭指揮をとって行ってきた政財界へのはたらきかけもこれまで以上に重要になってくる。君の腕の見せ所なのだよ、臼木君。

とは言え、君が目先の脅威としてあの二人がどうしても気になるというのはよくわかる。容子はいなくなってしまったが、彼女が統括していたわが社の調査部門はいまだ健在だ。優秀な彼らがあの二人の動向を常に把握し、なにかあったら直接会長の私へ報告してくれることになっている。心配することはない」

「本当に大丈夫でしょうか?調査部門の連中の大多数は蓮海さんの指示通りに動いているだけで、事の真相を知らない。もちろん、我々の正体についても。何か手違いが起こらないといいのですが」

不安げな面持ちで織部を上目遣いに見やる臼木だったが、織部は彼をなだめるように言った。

「そう心配するな。容子と犬山はやみくもに動いて自滅してしまったが、我々はあの二人の轍を踏まないよう、よほど慎重に行動しなければならない。現に今も私の…」

そう織部が言いかけたところで、デスクに置いてあった織部の携帯電話が鳴動した。

「ほら、待てば海路の日和あり、だ。金谷君からのメールに違いない」

そう言って椅子から立ち上がり、携帯のメールを確認した織部だったが、メールの文面を見たとたん、眉根にしわを寄せて低くうなり声をあげた。

「会長、どうしました?金谷社長からではなかったのですか?」

臼木はいぶかしげに織部のほうを見た。

「いや、金谷君からで間違いない。だがこのメールは一体…」

そう言いつつ、織部は臼木にメールの文面を見せた。そこには一言、

「ウインドウズ98」

とだけ書かれていた。

「…ウインドウズ98?何かの暗号ですか?」

織部とメールを見比べ、そう問いかける臼木に対して織部は相変わらず眉間にしわを寄せたままつぶやいた。

「私にも何のことかよくわからん。てっきり例の録音のありかを伝えて来たと思ったのだが…そうか!そういうことだったのか!」

いきなり口調が変わった織部を不審そうに見やる臼木に織部は言った。

「まさに録音の隠し場所だよ。私が今の会社に移り、後を任せるために社長として呼び寄せた金谷君に業務の引継ぎをする際、古いパソコンを一台社長室に残してきたのだよ。どうせ使い物にならないから処分しようと言ったのだが、彼はそのうち使うこともあるだろうからと、それを残しておくことにしたのだ。まさか今でも置いてあったとは」

昔を思い出し、感慨深げに語る織部に臼木はもどかしそうに尋ねた。

「で、それがウインドウズ98のパソコンだったのですね?」

「そのとおりだ。以前から私は、彼に録音を手渡してくれるよう頼みこんでいたが、彼はいつも迷っている様子だった。こっそり私との会話を録音していたことをずっと後ろめたく感じていたのだろう。そうか、やっと打ち明ける気になってくれたか」

「お二人の思い出のパソコンという訳ですか。その中に録音を収めたディスクが隠してあるということですね。ひょっとすると金谷社長は、あなたがヒントを汲み取って密かに回収してくれることを願っていたのかもしれませんね」

臼木は探るような目つきで織部にちらりと視線をくれた。

「そうかもしれん。いずれにせよ、犬山なんぞには思いもよらない隠し場所だったという訳だ」

織部はそう言いつつ、インターホンで隣室に待機している二人の側近を呼びつけた。

隣室から間髪を入れず二人の男が会長室に入って来た。二人とも黒々とした髪をオールバックにし、灰色のスーツに身を包み、がっしりとした筋肉質の体つきをしていて、まるで双子のようにそっくりな外見をしていた。蓮海容子が以前、腰巾着と陰で呼んでいた織部の側近中の側近、下地と広崎だった。

「下地、広崎、行動開始だ。例の録音のありかがわかった。臼木君と一緒に金谷社長のオフィスに向かってくれ。臼木君、既に手筈は整えてある。詳細はこの二人から聞いてくれないか?私もおっつけそちらに向かう」

突然のことに臼木は織部と灰色スーツの二人を見比べて少しきょろきょろしながらも、織部がいつものテキパキとした動きを取り戻したのを見て嬉しそうににっこり笑った。

「わかりました、行動開始ですね!それでこそ織部会長です」

三人があわただしく会長室を出ていくと、織部は椅子の背もたれに掛けてあったツイードのジャケットをひょいと肩に乗せ、入り口に向かっておもむろに歩き出しながら低くつぶやいた。

「…ありがとう、金谷君。恩に着るよ」


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