第13話 希少種

「美織嬢があんな恐るべき力を持っていたとはね。まったく、希少種について我々はかくも無知だったという事だ」

昼なお薄暗い研究室で、持松は阿古屋に向かって、自嘲気味にそう言った。

「もっとも、恐るべきというのはあくまで食人鬼の側から見た話で、我々人類にとっては大きな福音だ。彼女たち希少種は驚異的な治癒能力と、食人鬼を瞬時に葬り去る能力を併せ持っているわけだからね」

犬山による襲撃の後、美織は勝と阿古屋に伴われて科学警察研究所を訪れ、持松とそのスタッフによる徹底的な調査を受けた。阿古屋たちに説得されるまでもなく、勝を守るためならと、美織みずから志願して調査の対象となったのだった。

「希少種は例の驚異的な治癒能力の元となる物質を常に体内において生成・分泌しており、特にその唾液の中に問題の物質が豊富に含まれていることがわかった。このこと自体は私が事前にある程度推測していたとおりで、それほど驚くべき新事実ではない。実際、希少種の治癒能力ほどではないにしても、我々やその他の哺乳動物の唾液にもそういった物質は現実に含まれている」

阿古屋がうなずきながら合いの手を入れた。

「上皮成長因子ですね」

「そのとおり。唾液や母乳等に含まれているタンパク質、上皮成長因子は傷の修復を促進するのみならず、若返り効果が期待できることも判明しているが、希少種の治癒能力の元となる物質はそれとは比べ物にならないほど強力だ。進化の過程において、希少種は人体そのものではなく、特定の人間の肝臓のみを摂食するようになり、その人間の肝臓を摂食する際にできた傷を短期間で修復する必要に迫られ、その結果、彼らに備わっていた治癒能力が更に発達したのだろう。

もともと人類に比べて長命だった食人鬼だが、希少種の場合、その治癒能力を発揮する物質は他の生物の延命に寄与するのみならず、長い年月をかけて自らの寿命をも少しずつ向上させたというわけだ。ただ不思議なことに、この生命の源泉ともいえる優れた治癒能力が、こと食人鬼たちに対しては一転して死神のように容赦ない存在となる。例の美織嬢に首すじを噛まれた食人鬼の男、犬山は、南雲青年の証言によれば悲鳴を上げる間もなく絶命したという。

詳しいメカニズムの解明はまだこれからだが、おそらく希少種の唾液に含まれる成分が食人鬼の体内に注入されるや否や自己免疫疾患のような症状を引き起こし、それが連鎖反応的にあっという間に体中に広がり、極めて短時間、おそらく数秒以内に死に至ると推定される。彼ら食人鬼の優れた再生能力をつかさどる免疫系、内分泌系が希少種の唾液に含まれる成分に激しく反応し、それが皮肉にも致命的な結果をもたらすということなのだろう。古来、食人鬼と希少種は、人類と言う彼らにとっての生命の源を奪い合い、激しく対立してきた。食人鬼のような強靭な身体を持たず生存競争で不利な立場におかれていた希少種たちは、やがて進化の過程で瞬時に食人鬼たちに死をもたらす強力な武器を手に入れた、というわけだ」

ひとしきり説明をし終えた持松は愛用の椅子の背もたれに身を預け、手にしていた葉巻を一口吸い、煙をゆっくりと吐き出した。

阿古屋は無言でひとつ大きくうなずき、暫しの沈黙の後、おもむろに尋ねた。

「ドクトル、ひとつ大きな疑問があります。我々特防班は数年前から美織嬢と行方氏の監視を続けてきました。おそらく犬山や蓮海たちも彼らの存在に早くから気づいていたはずですが、なぜしばらく事態を静観していたはずの彼らがここにきて急に、それも美織嬢ではなく南雲青年を襲ったのでしょうか?」

「美織嬢は彼らにとってそれだけ大きな脅威というわけだよ。直接彼女を襲って失敗した際のリスクが大きすぎるということだ。また、これはあくまでも私の推測だが、おそらく希少種は誰をパートナーに選ぶかによって、その潜在能力の発露の度合いも違ってくるのだろう。行方氏は老衰で一人では満足に動けないような状態が長いこと続いていた。美織嬢のパートナーが年老いた行方氏であるかぎりにおいてはその潜在能力もフルに発揮されず、食人鬼たちにとってそれほど大きな脅威ではなかったが…」

その後を阿古屋が継いだ。

「美織嬢が若く活力に富んだ南雲青年と親しく付き合い始めた今、彼女が本来持つ能力は最大限発揮され、食人鬼たちにとっては無視することのできない大きな脅威となった、というわけですか?」

「おそらくそういう事なのだろう。そうそう、これは余談だが、美織嬢が行方氏と、ええと、十九世紀当時の彼の名はバートン氏だったね、そのバートン氏が美織嬢ならぬミリアム嬢と結ばれたのはもう四十歳をすぎてからの事だったそうだ。バートン氏はすでに壮年に差し掛かっていたわけで、希少種の能力をもってしてもその延命には限界があった。彼がもっと若い時に自分と結ばれていたら今頃はまだ元気だったはずなのに、そんなことを美織嬢は私に話してくれたよ」

「ところが、南雲青年はまだ二十代の後半に差し掛かったばかり。希少種である美織嬢と結ばれた今、行方氏をはるかに上回る、我々人類からすれば異次元の領域とも言える長寿が期待できるかもしれない」

と、阿古屋。

「美織嬢と共に、気の遠くなるような永劫の人生を歩むことになるわけだ。以前話したプロメテウスの例えではないが、果たして彼にその覚悟が出来ているのかどうか。私の印象では、彼はまだ少し迷っているようだった」

「そうでしょうか?南雲青年はもう心に決めていると私は見ていますがね。それはそうと、ドクトル、今や食人鬼たちにとってあの二人は無視できない大きな脅威となり、しかも美織嬢は金谷社長たちを襲った相手の正体を知ってしまった訳ですが、事態は重大な局面に差し掛かったとみて間違いありませんね」

「そのとおり。金谷社長たちが襲われ、復讐の炎を燃やす美織嬢が反撃してくるのではないかと危惧した蓮海たちの仲間は、先手を打って近日中に捨て身の攻撃をかけてくる可能性が高い。阿古屋君、その備えはもう出来ているのかね?」

「万全とは言えません。そこでドクトルに頼みがあるのです。美織嬢の持つ特殊能力、すなわち、食人鬼たちを一瞬にして葬り去る例の物質を人工的に合成することは可能でしょうか?」

「理論的には十分可能だよ。実を言うと私のスタッフがすでにその作業に取り掛かっている。まもなく実用可能な合成物質が出来上がるだろう。これはある意味ノーベル賞級の研究成果かもしれないが、フフ、いずれにせよ晴れて世間の注目を浴びることもないだろうね。所詮は日陰者の研究と言う訳さ」

「さすがです、ドクトル。世間が注目せずとも大いなる賞賛に値する研究なのは間違いありません」

「…しかし、君自身が食人鬼を相手にその効果を実証して見せるつもりかね?」

「必要とあらば、その覚悟はできています」

いつになく頑なな態度を崩さない阿古屋を見て持松は苦笑した。

「相変わらず無茶な男だな。そういえば、君は十二年前に一度死んだ男だったか。今更怖いものはないという訳だね?」

「そうかもしれませんね。もっとも、食人鬼どもを根絶やしにするまでは死んでも死に切れませんが」

「根絶やしか。確かに食人鬼退治の特効薬の秘密を手にした今、我々が彼らを根絶やしにするのは少なくとも不可能事ではなくなった。だが、いったい我々人類にそれを実行する権利があるのだろうか?人類と食人鬼、そして希少種はお互い密接にかかわり合いながら過去二十八万年間をともに生きて来た。この数か月間というもの、私はことあるごとに食人鬼の謎に直面し、また希少種というものの存在を目の当たりにして、あらためて生命の神秘に触れた思いだ。

希少種の特殊能力は我々人類を生かし、また自らを生かしもするが、その一方で食人鬼どもを情け容赦なく殺戮する恐るべき凶器ともなる。彼ら食人鬼、別名ホモ・カニバリスやその亜種である希少種との絶妙な均衡を保ちつつ、我々ホモ・サピエンスは進化を続け、現在まで繁栄を続けて来た。生命の進化のメカニズムはまことに不可思議というしかない。たかが我々人類の叡智とやらで、それらすべてを解明するなど、永遠にかなわぬ夢だろう」

「今日はまたずいぶん謙虚ですな、ドクトル?」

少し茶化すように阿古屋が言った。

「何を言うのかね、私はいつも謙虚さ。自然科学を真摯に探究する者は自然の偉大なる力、生命の進化の驚異に触れ続け、いずれ謙虚にならざるを得ないのだよ」

持松は葉巻の煙の向こうから、そう阿古屋に語りかけた。

「自然における神の栄光、神の見えざる手というわけですね」

「フフ、君もたまにはいいことを言うね。厚労省の役人も我々科学者に負けず劣らず謙虚だったとは知らなかったよ」

「何しろここ最近は奇妙な体験の連続でしたからね。あなた同様、私も謙虚にならざるを得ませんよ。ドクトル、今日は大変参考になるお話をうかがいました。例の特効薬の完成の目途が立ったころ、またお邪魔することにします」

阿古屋は持松に暇乞いをし、研究室を後にした。

阿古屋がいなくなっても、持松は愛用の古い唐木の椅子に身を沈めたままの姿勢をとり続け、やがて誰に言うともなくつぶやいた。

「…神の見えざる手か。食人鬼も我々や希少種と同様、神の創造物だ。我々の好き勝手で彼らを根絶やしにするなどと言うことが果たして許されるのだろうか?所詮我々は、神の掌の上でちょこまかと動き回るちっぽけな存在にすぎないのだよ、阿古屋君」

そう言うと、手にした葉巻の灰が床にこぼれ落ちるのも構わず、持松はまるで石像のようにその場をじっと動かなかった。


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