第12話 襲撃

終業時刻が過ぎ、帰り支度を整えた勝は美織と連れだって会社を後にした。


二人はその日、今後の事について阿古屋と話し合うことになっていたのだった。

勝に自分の素性を明かして心の重圧がとれたのか、美織はここのところ以前の快活さを取り戻しつつあった。阿古屋と会う約束をした喫茶店に向かう途中でも、勝と目が合うとにっこり微笑む美織だったが、勝はその屈託のない笑顔を見て、美織はやはりこうでなくては、と心の底から安堵を覚えるのだった。

なごやかな雰囲気の中、二人は歩きながらしばらくとりとめもないおしゃべりをしていた。

やがて会話がとぎれると、不意に美織が勝に言った。

「これからは私が勝さんのことを守ってあげるわ。どんなことが起ころうとも」

それを聞いた勝は美織の言っていることがすぐには理解できなかった。

俺を守る?美織が?

勝は希少種が持っているという不思議な治癒能力の話をすでに城嶋たちから聞いていた。

おそらく美織はその話をしているのだろうと見当をつけ、あいまいにうなずいたが、よく考えると少しおかしな話だった。食人鬼と違って、強靭な身体能力に恵まれているわけでもない希少種の美織がいったいどうやって彼らに対抗するというのだろう?

勝を元気づけるためにあまり根拠のない安請け合いをしたのだろうか?

いぶかしく思いつつ美織の顔を覗き込んだ勝は、その大きく見開いた明るい鳶色の瞳に見つめられ、いつぞやのようにその中に吸い込まれそうな不思議な錯覚を覚えた。

それと同時に彼は不意に城嶋がつい先日、ファミリーレストランでの会見で言っていたことを思い出し、言い知れない不安にかられた。

「美織さんがまだ君に告白していないことがあるのかも知れない」

美織に内心の動揺をさとられないよう、勝はさりげなく目をそらし、下を向いた。

それ以外にも勝が不安に思っていることがあった。

希少種は少なくとも普通の人間の数倍の寿命を持つらしい。そしてその希少種に選ばれた人間もまた相当の長寿が期待できるらしい。勝はそんな話を城嶋たちから聞き、高校時代に世界史を教えていた老教師が授業中にふと漏らした言葉を思い出していた。

それは念願の中国統一を果たし、初代皇帝として絶大な権勢を誇っていた秦の始皇帝が不老長寿の薬を求め、やがて中国だけでなく海外にも人を送って探し回ったという史実に対する、いわば教師の所感だった。

古来、洋の東西を問わず、権力者たちはほとんど例外なく不老長寿を求めてやまなかった。

だが、不老長寿とはもろ手を挙げて歓迎するほど素晴らしいものなのだろうか?

人間だれしも悩みは尽きない。金持ちは金持ちなりに、また、権力者は権力者でそれぞれ言い知れぬ悩みを抱えている。長く生きれば諸々の悩みが解決されるわけでもなく、むしろ悩みがいたずらに長引くだけなのかもしれない。また、長く生きればそれだけ愛する者との別れも多く経験することになる。別れを絶え間なく経験することに、我々のような平凡な人間の心は果たして耐えられるものなのだろうか?

死を人間の魂にとっての大いなる休息と考えると、休息の無い生に耐えることが出来る強靭な精神の持ち主は果たしてこの世に存在するのだろうか?

確かそんなことをあの老教師は言っていたな。

勝は思った。俺は果たしてそんな試練に耐えうる精神を備えているのだろうか?

行方老人のあの安らかな様子は、ひょっとすると三世紀にわたる呻吟の後、死を目前にしてようやく生から解放される喜び故のものだったのではないか?

相変わらず屈託のない様子の美織のすぐ横で勝がそんなことを考えていると、二人は社長の金谷が通りの向こうから歩いてくるのに出くわした。その手には小さな紙の箱がぶら下げられていた。この近所にある中華料理店のロゴが入った箱だった。これから会社に戻って、一人で残業している経理担当の社員の労をねぎらうつもりらしい。金谷は社員全員の食べ物の好みをすべて把握していて、ときどき自分で買い出しをしては残業中の社員の陣中見舞いをしていた。勝は以前一人で残業していたときに社長が好物のサーモンサンドウィッチを差し入れてくれたことをふと思い出した。

「私が手伝うとよけいに時間がかかってしまいそうだからねえ。出来ることと言えばせいぜいこれくらいかな?」

そういって金谷は少し照れくさそうに微笑みながら料理の入った紙箱を掲げ、軽くゆらすのだった。金谷のいかつい体が薄暮に紛れて見えなくなってしまうと、美織はにっこり笑いながら言った。

「やさしい社長さんね。いつも社員みんなのことを考えて下さっているわ」

勝は微笑み返し、だまって大きくうなずいた。勝自身、常日頃から金谷が私心の無い態度で社員たちに接するのを見て感服していた。福利厚生も万全とは言えない零細企業だし、時には長時間の残業を余儀なくされることもあったが、今の会社に転職して本当に良かったと勝は思っていた。

そろそろお目当ての喫茶店も間近に迫った時、勝の携帯電話が鳴動した。

金谷からのメールだったが、それは何故かタイトルも文面もない空のメールだった。

おおかた新しいスマートフォンを入手して間もない金谷が操作を間違え、うっかり空のメールを送信してしまったのだろう。そう思って勝が携帯を仕舞いかけた時、再び携帯が鳴動した。やはり空のメールだった。続いてもう一通、金谷からの空メール。

一通だけならともかく、三通立て続けに空メールを送ってくるとはただごとではない。社長に何か不測の事態が発生したに違いないと確信した勝は、いぶかし気に自分を見つめる美織にあわただしく言った。

「すぐに会社に戻ろう、急いで!」

二人は慌ててもと来た道を小走りで引き返した。

息せき切ってオフィスビルに戻った二人はホールのエレベーターのボタンを押したが、ランプは点灯しておらず、何度ボタンを押しても無反応だった。

「こんな時に限って!」

故障しているらしいエレベーターを離れ、勝は美織の手を取って階段を駆け上がり、三階のオフィスへと急いだ。階段を上がり切ってオフィスへ向かう途中、エレベーターをふと見ると操作パネルが大きく潰れて歪んでいる。エレベーターは故障したのではなく、意図的に破壊されたらしい。

オフィスが何者かに襲撃されたのはもはや明らかだった。

廊下の突き当りのオフィスのドアは開け放たれ、室内には明かりがともっているのが見えたが、しんとしていて人の気配が感じられなかった。

賊がまだ中にいるかもしれないと思い、用心しながら忍び足で中に入った二人は目の前に広がった光景に息を飲んだ。デスクや椅子が横倒しになり、書類が床に散乱していて、その向こうに経理担当の中年の男性社員と社長の金谷が二人、床に横たわっていた。

金谷は血まみれになった腹部を手でかばうようにして仰向けに倒れ、苦しそうにあえぎながらも現れた二人に気づき、ゆっくり首を左右に振り、しきりに目くばせをしていた。そのすぐ脇には無残に踏みつぶされて中身をあたりにぶちまけた中華料理の箱、血まみれの金谷のスマートフォン、そして同様に鮮血にまみれた小型のバールが転がっていた。中年の男性社員のほうは出血もしておらず、一見無傷のようだった。しかし、うつ伏せの姿勢にもかかわらず、その首は大きくねじ曲がっていて、顔面は天井を向いていた。両目を大きく見開いた顔は青黒く膨れあがり、すでにこと切れているのは明らかだった。勝と美織はまだ息のある金谷のほうに駆け寄った。腹部のけがは想像していた以上に深刻だった。バールの先端部分で一突きされたらしい腹部からは大量に出血していて、よく見ると金谷が手で抑えているその下には腸がはみ出しているらしい。

もはや手遅れなのを悟り、勝は悲しそうに美織を見やったが、彼女はそんなことはお構いなしに、服が血で汚れるのもいとわず金谷の前でかがみこみ、決然とした表情で瀕死の金谷の左腕を手に取って、それを自分の口に当てた。すると、それまで苦しそうにあえいでいた金谷はがっくりと首をうなだれ、急に静かになった。

勝は何が起きているのか全く分からず、ただおろおろするばかりだった。

「大丈夫。気絶しただけよ。勝さんはそこでじっとしていて。社長は私が治すから」

そう美織は言うと、今度は金谷を抱きかかえるように両手を体の下に差し入れ、顔を金谷の血まみれの腹部にうずめて嘗め回すようなしぐさをした。

その不可思議な光景を目の当たりにして、勝は今まさに美織が行っていることを以前夢の中で見たこと、そして夢の中の二人が金谷と美織という、少し変わった組み合わせだったことをようやく思いだした。しばらくそうしていた美織だったが、やがて顔を上げ、勝に向かって微笑みながら言った。

「もう大丈夫よ。しばらく安静にしていれば回復するわ」

金谷は目を閉じたまま仰向けの状態で微動だにしなかった。よく見ると胸部がゆっくりと上下に動いていて、まるで安らかに寝息を立てているように見えた。ついさっきまで苦しそうにあえいでいたのが嘘のようだった。勝はまだ半信半疑の様子で、それでも黙って金谷を見つめていたが、さきほど金谷がしきりに目くばせをしていたのをふと思い出した。

オフィスは入口から入るとすぐ広い共用スペースになっていた。更にその奥に廊下があって廊下沿いに備品を収納する物置や流し台があり、一番奥が社長室になっていた。

社長はしきりに社長室のほうを見て合図をしていた。

きっとまだ奥に賊がいるに違いない。

そう判断した勝は美織に言った。

「君はここで待っていて。僕は社長室を見てくる」

美織をその場に残し、勝は廊下伝いに社長室へとゆっくり静かに近づいた。ふと前方を見ると社長室のドアが大きく開け放たれている。部屋の中に入ってみると、デスクの引き出しが投げ出され、中身が床にぶちまけられていた。部屋の奥の金庫も扉が破壊されている。金谷を襲った際に使われた凶器のバールはもともと金庫をこじ開けるためのものだったらしい。入口そばの共用スペースと同様、ここでも書類や備品類があたり一面に散乱していた。

社長室の中が静まり返り、人の気配がないのに安心して外にでようと思ったその時、勝は突然後ろから羽交い絞めにされ、その場に引き倒された。

賊は物陰に隠れ、息をひそめていたらしい。

床に転がされた勝は、馬乗りになって自分を押さえつけている黒いTシャツの男に見覚えがあった。以前オリベ・エンタープライズを訪れた時、なんどかその男と廊下ですれ違ったことがあるが、いつも無言で勝をにらみつけてきたその男が役員の一人であったことを思いだしたのだった。男の力は強く、勝は身じろぎする事すらままならなかった。

「おまえさえ、おまえさえいなければ!」

憎しみを込めてそう低くつぶやき続ける男は勝の首を両手でつかみ、もの凄い力でぐいぐい締めあげた。勝は激痛と息苦しさで気が遠くなりながらも、なぜ男がこれほどまでに自分に憎悪を燃やしているのかまったく理解できなかった。

男はドアに背を向けて勝に馬乗りになっていた。その男の背中越しに、美織が足音もたてずゆっくり近づいてくるのが見えた。美織だけでも無事に逃げて欲しいと願い、勝は彼女にしきりに目くばせをしたが、美織は一向に応じる様子がなかった。

勝はこんな彼女の表情を今まで見たことがなかった。

いつもは表情豊かな美織なのに、今の彼女の顔にはなんの感情もうかがえなかった。口を真一文字に閉じ、一見無表情にも見えた。しかし、その明るい鳶色の瞳は憎悪で沸々と沸き返っているのが勝にもはっきりと見て取れた。まるで獲物を狙う猫のようにゆっくり音もなく近づいた美織は、次の瞬間目にもとまらぬ素早さで男に背後から飛びかかった。

勝が万事休すと思ったその刹那、馬乗りになっていた男が急にぐったりと覆いかぶさってきて、それと同時に彼は首のいましめが解けて楽になったのを感じた。自分を襲った男がまるで木偶人形のように急に動かなくなったのを不思議に思いながらも、男の体を押しのけてその顔を覗き込んだ勝は言葉を失った。

男は両目を大きく見開いたまま苦悶の表情を浮かべ、絶命していた。

最前まで勝の首を強く締め上げていた男の両手は何かをかきむしるような形のまま硬直していて、半開きになったその口からは白い泡を吹き、顔面は血の気を失って蒼白になっていた。

いったい何が起こったのか即座には理解できずに美織を見ると、彼女はまるで魔法が解けたかのようにいつもの美織に戻っていた。

「無事でよかった。やっぱり勝さんは私が守ってあげないと」

美織は血にまみれた姿でそう言うと、床に這いつくばったままの勝に向かってにっこり微笑むのだった。


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