第9話 回想

喫茶店のボックス席で、阿古屋は妻の咲から誕生日のプレゼントを手渡された。


夫婦でクラシック音楽のコンサートに出かけ、久しぶりにフルオーケストラの演奏を堪能した彼はその帰り道、行きつけの喫茶店に立ち寄り、妻と共にコーヒーを楽しみつつコンサートの余韻に浸っていたが、思いもかけず彼女から誕生日のプレゼントを贈られ、照れ臭そうにうつむいて何やら低くつぶやいた。阿古屋と結婚してもう何年も経っていた咲は、夫のこんな態度にはとっくに慣れっこになっていた。

「何か言った、仁さん?よく聞き取れなかったのだけど」

微笑みをたたえつつ、咲はやや大げさな身振りで耳に手を当て、夫に聞き返した。

店内に流れていたBGMは、奇しくもふたりがコンサート会場で鑑賞したばかりの曲、ブルックナーの交響曲第一番で、ちょうどその第二楽章に差し掛かっていたところだったが、静かな曲調のアダージョが会話の妨げになっているとも思えなかった。

「ありがとう」

今度は最初よりも幾分大きな声で礼を言った阿古屋は、照れ隠しに首すじを人差し指で軽くこすると、おもむろに包装を取り去って箱から中身を取り出し、銀色に輝く金属製品を手に取ってホッとため息をついた。

それは表面に繊細な蔓草の彫刻が施された洋銀製のライターだった。

どうやら特注品らしく、そのライターの下部にはHAと阿古屋のイニシャルが彫り込まれていた。右手で軽く握った真新しいライターをじっくり眺めまわしつつ、少し不思議そうな面持ちで阿古屋は咲に尋ねた。

「でも、どうしてライターなの?君は俺に禁煙させたかったはずなのに」

「フフ、まだ諦めたわけじゃないわ。そのライターだって一度も使わずに机の上に飾っておいて欲しいと思っているのよ」

「たしかに使うのが勿体無いくらい綺麗なライターだが…」

そう言いかけて彼は口をつぐんだ。

なるほど、そういう事か。

うっかり彼女の計略にはまるところだった、危ない、危ない。

まるで阿古屋の考えを見透かしていたかのように、咲は上目遣いのいたずらっぽい笑顔で夫を見つめるのだった。


阿古屋が咲と初めて出会ったのはクラシック音楽のコンサートホールでの事だった。

欧州から来日していたテノール歌手の独唱会の観客席で、たまたま阿古屋の隣の席に居合わせたのが当時音大の学生だった咲だった。阿古屋はその当時まだ大学院生だったが、少年のころからクラシック音楽を愛聴し、その各分野にわたって造詣を深めていた。彼はテノール歌手のレパートリーについて逐一解説し、咲のみならず、一緒に来場していた咲の同級生の女友達をも大いにうならせた。そんなこともあって阿古屋と咲はすっかり意気投合し、独唱会の終了後、再会を約束して会場を後にしたのだった。

その後も会うごとに親密さを増し、阿古屋の卒業・就職を契機として二人は結婚に踏み切った。音大で声楽を専攻していた咲は在学中幾多のコンクールに入賞し、将来を嘱望されていたにも関わらず主婦業に専念することを心に決め、結婚後はついに公の場でその美声を披露することはなかった。

そんな咲だったが、結婚後も阿古屋のリクエストで歌うことはたびたびあった。コンサートホールではなく、新婚の二人が住まう賃貸マンションの居間で歌うそれはピアノの伴奏もないア・カペラだったが、阿古屋はそれでも大満足で、妻の歌声にうっとり聞き入ることを無上の喜びとしていたのだった。

咲のレパートリーの中でも特に阿古屋のお気に入りだった曲のひとつに「ソルヴェイグの歌」があった。

ノルウェーの誇る孤高の作曲家、グリーグの手になるこの曲は、元々はイプセンの演劇の伴奏音楽の一部だった。故郷に恋人を一人残して世界を放浪し、放蕩の限りを尽くす風来坊ペール・ギュントが主人公の演劇だが、その恋人ソルヴェイグが遠い異郷の空の下で暮らす彼を案じて歌う歌である。のちに劇音楽二十七曲のうち八曲が選び出され、組曲「ペール・ギュント」として編成しなおされた。ピアノ協奏曲等と共にグリーグの代表作として現在でも世界中で演奏され続け、多くのファンに親しまれているが、「ソルヴェイグの歌」も勿論その八曲の中に含まれている。

コンサートにおいては、この歌はオリジナルのノルウェー語ではなくドイツ語の歌詞で歌われることが多いのだが、凝り性の咲はノルウェーからの留学生に発音指導を頼み込み、ついにはノルウェー語の歌詞をマスターしてしまったのだった。


冬が過ぎると 春は急ぎ足で去り

夏が行けば 年の終わりを迎えるだけ

いつか あなたは私の胸に帰ってくる

約束通り 私はあなたを待っているわ


いつも 神様はあなたを見ている

あなたの祈りに応えてくれるはず

だから 私はここで待つの

でも今 天国にいるのなら

すぐに私を呼んでほしい


ベートーベンやシューベルト、シューマンと言った有名どころのドイツ語圏の作曲家たちの歌曲を愛聴し、またその歌詞さえ諳んじていた阿古屋だったが、ことノルウェー語に関しては全くの門外漢だった。それにもかかわらず、直接意味を汲み取ることは出来ないながらも、そのエキゾチックで哀調を帯びたトーンにドイツ語や日本語の歌詞とは微妙に違うグリーグの魂のようなものを感じ取り、やがてそれは彼の心の中でかけがえのない唯一無二の調べとなっていった。

幼いころに母と死別した阿古屋は少年期・青年期を通じて母の愛情に飢えていた。

少しでも寂しさを紛らわすことが出来ればという思いで父が買い与えたクラシック音楽のCDを聴くのが少年期の阿古屋の楽しみのひとつだったが、特に技巧を凝らした異国の名歌手たちが唄う歌曲集の数々が彼のお気に入りで、その調べに耳を傾けている時だけは現実のつらさ、母のいない寂しさを忘れることが出来るのだった。

阿古屋の父は当時貿易商社に勤務しており、そのためしばしば海外出張もしなければならず、それゆえ年間を通じて家を空けることが多かった。妻を亡くしてからというもの、まだ幼かった二人の子供を家に残しておくのは当然不安もあっただろうが、妻亡き後、残された二人の子供を養うためには仕方のないことだった。

子供のころ、正月やクリスマスで世間が浮かれ騒いでいても幼い妹と二人きりで留守番をし、寂しさを兄妹で分かち合うしかなかった阿古屋は、妻の咲が情感を込めて熱唱する姿に無意識に亡き母の在りし日の姿を重ね合わせていたのだった。

阿古屋が咲と結婚してからしばらくの間、二人の生活は何事もなく淡々と過ぎて行った。

子宝にこそ恵まれなかったが、咲と二人きりで居られるだけで阿古屋は満足だった。

多忙な警察の業務を終えて心身ともに疲労し、夜遅くに帰宅することの多かった阿古屋だったが、彼を玄関口で迎える妻のはじけるような笑顔が職場でため込んだ疲れをすべて吹き飛ばしてくれるのだった。

時折一緒にクラシック音楽のコンサートに出かける以外は、これと言って共通の趣味を持たず、時には夫婦喧嘩をしたりもしたが、寂しい少年期を過ごした阿古屋にとっては、妻といっしょに過ごす平凡な日常こそがかけがえのないものに感じられた。


結婚して九年が経った早春のある日、妻の咲は突然帰らぬ人となってしまった。

子供のいない咲は近所の公営住宅に住む独居老人たちの住居を訪れ、かいがいしく彼らの面倒を見るのを日課としていた。当時その公営住宅では住人が何者かに殺害され、その死体が食い荒らされたような状態で発見されるという奇怪な事件が頻発していたが、阿古屋は妻の身の上を案じ、なるべくその近所には近づかないように忠告していたばかりだった。咲は人の出入りの多い昼間しか訪れないから大丈夫と笑って答えた。しかし、その日の午前中に彼女が顔見知りの老人宅を訪れた時、老人を殺害してそのまま退散しようとしていた犯人と玄関口で偶然出くわしてしまったのだった。

知らせを聞いて急遽病院に駆け付けた阿古屋は、まったく思いもかけずに変わり果てた姿の咲と霊安室で対面することとなった。鋭く尖った刃物のようなもので喉元から脳髄を一突きされ、ほとんど即死状態だった咲には他に目立った外傷は見当たらず、霊安室に安置されたその遺体はまるで眠っているように見えた。実際、阿古屋が頬に触れてみるとまだほんのり温かかった。

今朝がたマンションの玄関で自分を見送った時はあんなに元気だったのに…。

突然訪れた別れに、何ひとつ心の準備が出来ていなかった阿古屋は妻の遺体にしがみつき、ただただ号泣するばかりだった。


妻の葬儀を終え、四十九日が済んでも阿古屋は生ける屍のように日々を茫然とすごしていた。妻がこの世を去ってから二か月ほど経った非番の日のことだった。その日も阿古屋は朝からウイスキーを痛飲しつつ、無為に時間を過ごしていたが、飲酒の合間に一服点けようとしてライターが見当たらないのに気が付いた。前の晩も酔い潰れてそのまま寝入ってしまったが、そのときどこかへライターを置き忘れてしまったらしい。大事な妻の形見のライターをなくしては一大事と、酔いもすっかり覚めてしまった阿古屋はあちこち探し回り、やっとのことでライターを見つけたが、なぜかそれは台所の食器棚の上に無造作に置かれていたのだった。自分で置いた覚えのない阿古屋はなぜこんなところにと不思議がったが、ふとライターの横に目をやると、妻が生前愛用していた手文庫が食器棚の上に置かれているのに気がついた。何の気なしに手文庫の蓋を開け、中をのぞくと便せんや封筒、筆記用具、その他の文房具類がきちんと収納されていて、その便せんの束に隠れて小さな黄色い表紙の手帳がチョコンと顔をのぞかせていた。

阿古屋は何気なく手帳を手に取り、パラパラとめくってみた。どうやら咲はその手帳を日記帳として使っていたようで、細かい字でびっしりと日常の出来事などが書きつけてあった。

日記はその年の元旦から始まっていて、夕食の献立、夫婦連れだってコンサートに行った時のこと、阿古屋の喫煙をめぐって夫婦喧嘩をした時の愚痴、なかなか子宝に恵まれなくて夫にすまなく思っていることなどがこまごまと書かれていた。阿古屋は台所の冷たい床に座り込んだまま、時間が経つのも忘れて日記を読み耽った。半ばほどまで読み進み、老人の世話をするために公営住宅へ赴いたときのことが書かれている部分に差し掛かると、阿古屋はいぶかしげに眉間にしわを寄せた。そこにはこう書かれていた。

「〇月×日 今日は○○さんのお宅にお邪魔して掃除のお手伝いをした。最近体調がいいみたいで何より。昼食をつくってからおいとまして外に出ると、また例の男の人がうろついているのが見えた。平日だというのに、いったい何をしている人だろう?身なりはきちんとしているし、まだ若いし、公営住宅の住人じゃないみたい。いつも手ぶらなのでセールスマンでもなさそう。血の気の無い青白い顔。ドラキュラみたいで少し気味が悪い」

それ以前の日記には男についての記述はなかったが、どうやら咲はそれ以前にも何度かその男を目撃していたようだった。

更にページを何枚かめくると、そこにも同じ人物について書かれていた。

「〇月〇日 今日も××さんのお宅へ向かう途中、あの男の人を見かけた。そういえばいつだったか、テレビで見た男の人によく似ている。でも、名前が思い出せない」

阿古屋は更にページをめくって男についての記述がないか探した。

「×月×日 今日もまたあの男の人を見かけたので、思い切って話しかけてみたけど、私を無視してそのまま行ってしまった。なんて失礼な人」

日記は咲の死の前日まで書き綴られていたが、男に関する記述はそれだけだった。

阿古屋はちょっとの間考えてから居間に向かい、パソコンを起動して公営住宅で起きた殺人事件の記事を検索し始めた。十か月ほどの間に六件もの事件がそこで発生していたが、咲が巻き込まれて命を落とした日が最後の事件で、それ以来公営住宅では何事も起きていなかった。阿古屋が日付を照らし合わせてみると、日記に男の記述があった日付のうち二つが事件のあった日と一致していた。日記の男が一連の事件と何らかの関連があるのはもはや明らかだった。


その翌日、阿古屋は一連の事件の捜査本部が置かれていた地元の警察署へと足を運び、担当官に面会を求めた。担当官はいかにも叩き上げと言った感じの初老の警部で、自分よりずっと年下の阿古屋がキャリア組の警視であることを知り、あからさまな反感を示した。キャリア風情に殺人事件の捜査の何がわかるのかと言わんばかりの横柄な態度だったが、それでも阿古屋が日記の記述と事件の関連性について辛抱強く指摘するとにわかに態度を変え、黙りこくってメモを取り、やがていくつかの質問をし始めた。どうやら担当官の警部は男の存在についてはまったく把握していなかったようで、事件の捜査が当時すでに迷宮入りしつつあったのもある意味当然とも言えた。

阿古屋にとってどうにも手ごたえのない会見だったが、収穫がないではなかった。

警部の話から、公営住宅での事件の他の被害者がすべて咲と同様、喉元から細長い凶器を深々と突き刺されて殺害されていたことが判明したのである。

阿古屋は以前、駅の売店で何気なく手にした新聞に食人鬼なるものの記事が掲載されていたのをふと思いだした。化け物が夜な夜な人間を襲い、その死体をがつがつ喰らうというおどろおどろしいセンセーショナルな記事で、当時彼はそのあまりの荒唐無稽さに呆れかえったものだったが、その記事の中に、食人鬼は必ず犠牲者の喉元を長く丈夫な人差し指で貫いて絶命させる云々と書かれていたのだった。しばらくの間、その与太記事の記述と、一連の事件との偶然にしては奇妙な一致が阿古屋を悩ませ続けた。

後日、まさにその食人鬼について長年研究している男が科学警察研究所に在籍していると人づてに聞き、半信半疑ながらも訪れてみることにした阿古屋だったが、いざ会ってみると聞きしに勝る偏屈そうな男で、阿古屋はわざわざ時間をつくって訪れたことを少し後悔した。

しかし、その見かけとは裏腹に学識豊かな研究員は食人鬼の生態、いかにして食人鬼なるものの研究に着手するに至ったか、等について阿古屋に滔々と語り、また、食人鬼についての持論を理路整然と展開し、阿古屋が話した公営住宅での一連の事件にも多大な興味を示したのだった。


男の名は持松貴、当時まだ科学警察研究所の上級研究員になったばかりの、その世界では名を知られた俊英だった。日本ではほとんど顧みられることのなかった持松の研究成果は、欧州では多大な賞賛をもって迎えられ、また故国においては彼がひたすら冷遇されていることに諸外国で懐疑的な意見が多く聞かれることなども後に阿古屋は知ることになる。

何度も持松のもとに通い詰めて話を聞くうちに、阿古屋は公営住宅での一連の事件が食人鬼の仕業であるのみならず、それ以外にもあらゆるところで食人鬼たちが人知れず暗躍していることを確信するに至ったのである。

持松の多大な影響を受け、食人鬼の探求にのめりこみ始めた阿古屋だったが、そんな彼を警察の上層部はなぜか冷ややかに見守っていた。

やがて阿古屋は事件の核心に迫り、犯人とおぼしき男を突き止め、あと一歩と言うところまで追い詰めるのだが、警察上層部からの圧力によって独力による捜査を放棄せざるを得なくなった。組織の調和を乱す人物として警察内部においても白眼視され、今や出世競争から完全に脱落した阿古屋は警察でのこれ以上の累進は望めないことを悟り、お呼びがかかった厚生労働省においてゼロからのスタートを切るとともに、妻の仇を地獄の果てまで追い詰めることを心に誓ったのである。

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