第8話 ドクトル

阿古屋はその日、K市にある科学警察研究所を訪れていた。


特製のコンクリート塀に厳重に囲まれたその建物は要塞と見まがうばかりの威容を誇っており、大学や官庁などの建物が多いその区域にあって一種異様な雰囲気を醸し出していた。

車で乗り付けた阿古屋はいったん運転席から降り、身分証を提示しつつゲート脇の詰所の警備員に用向きを説明した。すでに話はついているらしく、警備員は簡単に身分証を確認しただけでゲートを通してくれた。警備員から来訪者用のIDカードと臨時駐車証を受け取った阿古屋は再び車に乗り込んで、敷地内の奥まったところにある駐車場に車を止め、駐車場のすぐ脇にある建物に入った。

ここにはもう何度も足を運んでいるので、すべて体で覚えた自然な動作だった。警察官時代から数えると、もう何度来たか思い出せないくらい頻繁に阿古屋はこの建物を訪れていた。


玄関を入って左右に伸びる長い廊下を右に曲がり、突き当りにある部屋のドアをノックする。しばらく待つが何の物音も聞こえてこない。やれやれと言わんばかりに首を左右に振り、阿古屋は勢いよくドアを開けた。入り口で彼を丁重に迎え入れてくれたのは古びて黄色っぽく変色した人体の骨格標本だった。広い室内はしんと静まり返っていたが、煙草の煙があたり一面にうっすらと立ち込めている。勤勉な白骨の執事に軽く敬礼をしてその労をねぎらい、阿古屋は各種の生物標本や種々雑多な実験道具、それにこの部屋の主の趣味らしい中国や日本の骨とう品の数々が並べられた幾つもの陳列棚の回廊を通り抜けて、窓のそばに置かれた応接セットの椅子に腰かけている男のもとにたどり着いた。

窓のブラインドは三分の二ほど降りていて、そのため室内は昼間なのに薄暗かった。黒光りする紫檀で作られた、古い中国製の椅子の大きな背もたれには唐草模様のような透かし彫りが施されていて、その椅子の透かし彫りからこぼれる窓の光が、椅子に腰かけた痩せた男の姿をほのかに照らし出していた。暗がりに目が慣れるにつれて男の表情がぼんやり見えるようになったが、スーツとネクタイに身を包んだ初老のその男はこちらを向いて煙草ならぬ葉巻を手にし、けだるそうに微笑んでいた。

「まあ座ってくれたまえ、阿古屋君。まずは一服どうだね?」

挨拶代わりに葉巻の入ったケースを阿古屋に差し出した男は、阿古屋の到着を今やおそしと待ちかねていたようだった。

男の名は持松貴、科学警察研究所の上級研究員を務め始めてからもうかれこれ十数年は経っていた。警察に在籍していた頃から阿古屋は持松と懇意にしていたが、食人鬼の研究に長年携わっていた持松は阿古屋にとって必要不可欠なブレーンとも言える存在であり、阿古屋は警察から厚労省に移籍した現在でもこうしてしばしば彼のもとを訪れ、意見を交わしていた。

しかし、縄張り意識の強い官僚の世界では越権行為ともとれるこうした阿古屋の振る舞いは周囲から歓迎されてはおらず、警察・厚労省双方において眉をひそめる輩は少なからず存在した。

阿古屋がまだ警察に在籍していた当時、食人鬼などという得体のしれない代物をまともに取り扱っていては警察の威信にかかわるという意見が警察内部において大勢を占めていたが、それにもかかわらず食人鬼の追及に当時から血道をあげていた阿古屋は何かと疎んじられ、異端視されていたのだった。上司からは出世に響くからほどほどにしろと諭されたこともあったが、そんなことで自分の信念を曲げるような阿古屋ではなかった。だが、たとえ阿古屋のようなキャリア組の警察官僚であっても、警察内部の主流派に盾突いてまで自分の主張を押し通すことにはおのずと限界があった。警察という硬直した組織の中で阿古屋は徐々にその居場所を失っていったのだった。

一方、その当時から食人鬼という特異な存在に着目していた政府機関があった。言わずと知れた厚生労働省である。彼らは警察とは違った観点から食人鬼に注目し、その特異極まりない生態を研究して、ひいてはその成果を日本人のみならず人類全体の健康・福祉のために役立てることが出来ないか密かに模索していたのであった。パニックを防ぐために食人鬼の存在を世間の目から隠蔽して秘密裡に活動する必要がある以上、一切合切をすべて自分で賄うことのできる自律的な組織の確立が求められた。この分野において研究体制を確立するためには研究スタッフだけでなく、実際に食人鬼およびそれに関する資料全般を確保するための実働部隊も必要なのは明らかだった。それなしには食人鬼研究の今後の発展にもおのずと限界があったし、更には政府の組織としてその方面の権限の拡大をはかるのに支障をきたすことになるからである。

その実働部隊の長として白羽の矢が立ったのが、警察組織の中で宙に浮いたかたちになっていた阿古屋だった。食人鬼の研究全般を統括する厚労省幹部は、かねてから切れ者と噂のあった阿古屋の存在に注目していて、警察庁に水面下で阿古屋の譲渡を打診しつつ、幹部みずから阿古屋のもとに赴き、三顧の礼をもって彼を手厚く迎え入れることを約束したのである。

新ポストを彼のためにわざわざ用意すると申し出た厚労省と、組織の調和を乱す彼を厄介払いしたい警察上層部の思惑が一致して、阿古屋は厚労省で新たなキャリアを構築することとなったが、阿古屋麾下の新組織である特定疾病防疫対策室、通称特防班は厚労省幹部の当初の思惑とは裏腹に、その任務内容を食人鬼の確保から排除へと次第に変容させていった。


阿古屋は持松から勧められた葉巻を丁重に断り、懐から煙草を取り出しつつ応接セットの真向かいに座ると単刀直入に切り出した。

「先日ご依頼した件です、ドクトル。例の食人鬼の女、蓮海容子の遺体の分析結果が出たと聞いてうかがいました。」

彼は持松に話しかけるときは常にドクトルと呼んでいた。持松が若いころドイツで研究生活をおくっていたことに由来するニックネームだったが、そう呼ばれた持松はにっこり微笑み、阿古屋に向かって語り始めた。

「まず私は君たちに感謝しなければならない。あんなに程度のいい貴重な遺体を検分できたのは君たち厚労省の面々のおかげだ。本来なら部外者の私などが目にすることのできないサンプルだったわけだからね」

阿古屋は軽くうなずきながら口に咥えた煙草にライターで火を点けた。研究室内は、建前上は禁煙のはずだったが(実際、この建物の玄関にも場内禁煙という看板がでかでかと掲げられていた)どうやら阿古屋も持松も、分煙などと言う言葉はどこか別の世界の話のように考えているようだった。

「最初にお断りしたとおり、いずれはこちらに返還してもらうことにはなりますがね。私の権限では、厚労省が接収した遺体をずっとこちらに貸与したままにしておくことはできないのです。その点ご理解いただきたい」

持松は鷹揚に手を振り、笑いながら言った。

「それは承知の上だよ。こうするためには、君が陰でいろいろ骨を折ってくれたに違いないことは私にだって想像はつく。厚労省にも早くあの遺体を分析したくてうずうずしている連中がいるだろうし、ひととおり検分が終わったのだからすぐにでも遺体はお返しするよ」

彼はさも上機嫌そうに話をつづけた。

「それにしても本当に興奮冷めやらぬ気分だ。なにしろあの女の遺体は私の仮説を裏付ける格好の証拠だからね。

今まで彼らの実態は欧米の古い文献や、既にミイラ化した古い遺体の断片を通してしか推測出来なかったし、人間社会に彼らが多く潜んでいることは自明の理だったとは言え、火葬の習慣のあるわが国では彼らの存在を特定し、火葬する前の遺体を秘密裡に確保するのは至難の業だった。そもそも警察という組織は常に犯罪の捜査、犯人の検挙に主眼を置いているから食人鬼などという化け物の生態などにはあまり関心を示さない。その点、厚労省の君たちがうらやましいね。今回の遺体確保の際もかなりきわどいことをやってのけたそうじゃないか。

スキャンダルを何よりも恐れる警察にはとてもできない芸当だ。いや、これは皮肉でも何でもない。誉め言葉として受け取って欲しい」

阿古屋は口の端をわずかに歪めてうなずいた。持松は歯に衣着せぬ物言いはするが、皮肉とは無縁な人物なのは阿古屋自身よく知っていた。

「建前上はこの世に存在しないことになっている食人鬼の研究成果はどの国でも極秘に扱われる、いわば国家機密だ。当然のことながら諸外国での研究成果などについて、その一端でも見聞きするのは困難を極める。研究者間の横のつながりでわずかばかりの情報がときおり噂程度に入ってくるに過ぎないのだよ。

今回、新鮮な遺体が手に入ったことで我が国における食人鬼研究は今後飛躍的な成果を上げることは確実だ。新たな段階に突入したと言ってもいい。欧米諸国に比して我が国はこの分野で大きく後れをとっていたが、彼らに肩を並べる日もそう遠くないだろう。

長年食人鬼を追跡してきた君には釈迦に説法かもしれないが、順を追って話すことにしよう。

君もご存じの通り、彼らは現生人類と非常に近縁の種であることが判明して久しい。今回、あの遺体のDNAを解析し、より精度の高い情報を得られたわけだが、それによって彼らの祖先が我々人類、ホモ・サピエンスの直接の祖先と分岐したのがおよそ二十八万年前であることが分かった。生物の進化という観点からみると極めて短い時間だが、そのわずか二十八万年の間に彼らは飛躍的な発展を遂げたのだ」

持松は葉巻をさもうまそうに味わってからゆっくりその煙を吐き出し、再び話し始めた。

「彼らを人類から際立たせている特徴の中でも特に目を引くのは、我々人類を圧倒する驚異的な身体能力と、捕食行動に特化する過程で獲得したと推測される変身能力だ。

今回分析したサンプル、蓮海容子もオートバイと並走できるほどの走力、鉄パイプを振り回して壁面に大穴を開けるほどの強靭な筋力を有していたのが確認されているが、これらの身体能力は我々人類を捕食する際、物理的に我々を圧倒するために必然的に獲得された能力なのは明白だ。もうひとつの変身能力についてだが、どのようにして彼らがこの特殊な能力を獲得するに至ったのか?阿古屋君、私から説明する前に、まず君の意見を聞いてみたいのだが」

持松は葉巻を片手に、小首を傾げながらにやりと笑ってみせた。

それまで持松の話に黙って耳を傾けていた阿古屋は突然の質問にやや戸惑った様子だったが、思い直したようにくわえていた煙草を灰皿に置き、軽く腕組みして数秒間目を閉じた後、おもむろに口を開いた。

「いかにして彼らが変身能力を獲得したか、それについては残念ながら私の乏しい知識では正しい答えを導き出すのは困難ですが、なぜ彼らが変身能力なるものを有しているのかについてはかねてからの持論があります。南雲青年の証言が正しければ、蓮海容子は変身したのちに恐るべき走力を発揮しています。変身に伴う外見上の変化そのものにはさほど大きな意味はなく、変身と言う行為が彼らの驚異的な身体能力を発揮するために必要なスウィッチの役割を果たしているとは考えられないでしょうか?」

持松は軽くうなずいて言った。

「うむ、君の言わんとすることはわかる。鉄パイプで壁に大穴を開けたのが変身前であることを考慮すると、変身せずとも並みの人間以上の力を有しているようだが、君の言う通り、変身した姿と普段の姿では身体能力にかなりの差があるのは事実だからね。しかしどうだろう?進化の過程で彼らの置かれていた環境を考え合わせると、また別の見方が出来ると思うのだが?」

持松の問いかけるようなまなざしに対して阿古屋は苦笑いしつつ首を軽く横に振り、先をうながすように沈黙を保った。持松は再び話し始めた。

「二十八万年前、彼ら食人鬼が我々の祖先と別の道を歩み始めた当初、両者を比較してもそれほど大きな外見上の差異はなかっただろう。だが、近縁の種である人類を捕食し始めて以降、彼らの肉体は徐々に変化し続けたに違いない。やがて彼らは筋肉の発達した長くたくましい四肢、夜でも獲物を見分けることの出来る優れた視力、捕獲した獲物から激しい抵抗をうけてもびくともしない丈夫な皮膚を手に入れ、その外見も我々の祖先と大きく異なるものとなった。

しかしここでひとつ大きな問題が生じた。その特異な外見が獲物である人類に警戒感を抱かせ、結果的に獲物に近づくのが困難になってしまったのだ。

彼らは三十万年近くにわたって捕食動物としては非常に特殊な環境下で生きてきた。

彼らの餌であるはずのホモ・サピエンスに常に数の上では圧倒され続けていて、ともすれば自分たちの存在そのものが脅かされかねない状況下に置かれ続けていたのだよ。

アフリカのライオンと草食動物の関係を思い起こしてほしい。

ライオンは足の速い草食動物を捕え損なって食事にありつけないことはあっても、その草食動物たちに逆襲されて命を落とすということはめったにない。ところが、食人鬼とその祖先たち、便宜的にここではホモ・カニバリスと呼ぶことにしようか、彼らが相手にしているのは極めて狡猾で、猜疑心が強く、外敵を排除する際において異常なほどの協調性・排他性を発揮し得るホモ・サピエンスという厄介な種なのだ。何かのきっかけで自分たちの居場所が露見すれば狡猾極まりないホモ・サピエンスどもに殲滅されかねない。一対一では彼らを圧倒できる身体能力を有していても、実際には多勢に無勢、束になってかかってこられたらひとたまりもないだろうからね。

そういった状況下で彼らの特異な外見はホモ・サピエンスの注意を惹き、結果的に彼ら食人鬼は大きく行動の自由が制約されたに違いない。そこで彼らは、進化の過程において生き残りのための戦術を編み出したわけだが」

持松はここでいったん言葉を切り、学生の模範解答を期待する大学教授のような面持ちで阿古屋のほうをちらりと見た。

「ホモ・サピエンスに擬態する能力の獲得、という訳ですか?」

表面上は冷静を保ちつつ阿古屋はそう答えたが、心の中では大きくうなっていた。

人類に擬態する能力だって?

すると彼らは、異形の怪物に変身する能力を備えているというわけではなく、あれが本来の姿だというのか?

「そのとおり。つまり、彼らの真の姿こそが異形の怪物なのであって、通常は我々人類に擬態して我々の中に潜んでいる、そう私は考えているのだよ」

持松はまるで阿古屋の心中を見透かしたかのようにそう答えた。

「もちろん、擬態したままでも普段の生活になんら支障はないわけだから、彼らは一生を通じても元の姿に戻ることはそう多くはないのかも知れない。ひょっとすると彼ら自身、我々人類に擬態しているという自覚すらない可能性もある。だがそのままでは身体能力をフルに発揮できないから、彼らはここぞというところで真の姿を現すのだろう。南雲青年を襲った女はおそらく死の直前に再び人間の姿に形を変えたのだろうが、死後もなお擬態した状態を保ち続けていられるのは、擬態能力を獲得した背景を考えるとある意味必然と言える。我々人類に正体を悟られてはならないからね」

長年食人鬼とかかわってきた阿古屋だったが、実を言うと彼らの真の姿を目の当たりにしたのはただ一度きりだった。持松に至っては、目撃証言等をもとに再現した画像でしか彼らの姿を確認していないはずだったが、そんなことは、この頭脳明晰な変人科学者、持松貴にとってそれほど大きな障害ではないようだった。安楽椅子探偵さながら、現場に居合わせることなく余人の思いつかない全体像を描き切ることの出来る持松の頭脳に、阿古屋は今更ながら驚嘆を禁じえなかった。彼の話はなおも続いた。

「ある意味では、彼らほど慎重で憶病な生物も珍しい。二十八万年の長きにわたって、数の上では圧倒的に優勢な人類に駆逐されずに生き残ってきたのもうなずける。

現在の彼らは、外見上は人間そのものだ。人間社会に完全に融け込んでいる。当然だ。種の存続のためには自分たちの存在そのものを悟られてはならないし、もし露見すればたちまち排除・殲滅される。

人類の歴史を振り返ってみると、彼ら食人鬼が人類とどのように関わって来たのかがよくわかる。我々の祖先たちは、ときどき憑かれたように自らの集団の中の異分子排除に狂奔してきた。ヨーロッパの歴史をひも解けば、ナチスのユダヤ人狩りやポグロム(十九世紀から二十世紀にかけてロシア・東欧で起きたユダヤ人虐殺)、宗教改革当時の新教徒に対する迫害など、枚挙にいとまがない。伝統的にヨーロッパ人たちは外来者・異質なものに対して異様なほどの警戒心を抱き続けてきた。その中にあってユダヤ人や、ロマのような故郷を持たない異邦人は常に槍玉にあげられ、迫害されたのだ。やがてヨーロッパ人たちは内部の異分子排除だけでなく、欧州の外に出かけてそのような異分子を血眼になって追い求めるようになった。

イスラムの勃興にともなう十字軍の遠征に始まり、インド洋や大西洋の新航路を開拓しつつ徐々に未知の外部世界へと足を延ばし始め、遂には彼らの言うところの新大陸に到達した。人類の今日の発展はそうした彼らヨーロッパ人の賞賛すべき行動力に負うところが大きいが、その行動力の根底にあるのは未知なるもの、とりわけ食人鬼に対する彼らの警戒心だ。常に食人鬼をはじめとした未知の敵に対し警戒心を抱き、臆病であったがゆえに人類は発展し、現代文明を築くことができたのだ。

これは何もヨーロッパ人に限ったことではない。

日本でもキリシタン狩りというのがあったが、あれもひょっとしたら外来種の食人鬼を排除する狙いがあったのかも知れない。我々の祖先たちが江戸時代の二百数十年間、太平の世を満喫できたのはそのおかげなのかも知れないね。

そのような一連の人類の行動の中でも特筆すべきなのはいわゆる魔女狩りだ。

中世ヨーロッパにおいては、魔女狩りが極めて大規模かつ長期にわたって猛威を振るった。

現代人はそんな中世の人々の行為を野蛮で蒙昧な所業と断罪しがちだ。だが本当にその見解は正しいのだろうか?種の防衛という観点からすればこれ以上ない正しい選択だったのかも知れないのだ。これは私の個人的見解だが、魔女狩りそのものがホモ・カニバリスを排除するための集団行動だったに違いないと思っている。ホモ・カニバリス発祥の地とされるユーラシア大陸の中でも、中央アジアや東欧に比べ、魔女狩りがさかんだった西欧ではその推定生息数が際立って少ないことを見てもそれは明白だ。もっとも、魔女狩りで排除されたホモ・カニバリスより、巻き添えを食って殺された人間のほうがはるかに多かっただろうがね。


少し脱線したな、食人鬼に話を戻そう。

食人鬼にはもうひとつ、驚嘆すべき特性がある。彼らの長寿命だ。

多くの古文献にも明記されているように、彼らの寿命が人類に比べてはるかに長いということは広く知られている。今回あの女の遺体を分析することで、その客観的な裏付けがとれたのだよ。詳しい学術的な説明は省くが、体細胞のテロメラーゼ活性の高さ、同じく体細胞の分裂回数、内分泌器官に見られる複数の特殊な酵素の存在など、我々人類と大きく異なった、際立った特徴がいくつも見つかった。

やや大雑把な推測ではあるが、それらの事柄から総合的に判断すると彼らの寿命は少なく見積もって我々人類の倍以上であると、そう私は見ている。

話はまた少し脇道に逸れるのだが、阿古屋君、君は吸血鬼伝説なるものについて考えを巡らせたことはあるかね?実はそれも食人鬼の生態に驚嘆した人々が語り伝えたものなのかもしれないと私は考えているのだよ。各種の伝説によれば吸血鬼は不老不死であり、また或いは寿命が数百年である等々、とにかく我々人類よりもはるかに寿命が長いということになっている。そして、彼ら吸血鬼は人間の血を吸うことで生きながらえていると言う。ここで私がわざわざ強調するまでもなく吸血鬼などと言うものはこの世に存在しないわけだが、しかし何故その存在しないはずの吸血鬼の伝説がユーラシア大陸の広い範囲で散見されるのか、やはり食人鬼の存在と無縁ではないはずだ。過去において食人鬼に遭遇し、幸運にも生き延びた人々がその体験を語り伝え、いつしか吸血鬼伝説がつくり上げられたと考えて間違いはあるまい」

阿古屋は持松が長広舌をふるうのを黙って聞いていたが、何の予備知識もない人間には突拍子もない絵空事に思える彼の言葉のひとつひとつが、長きにわたって食人鬼と対峙してきた阿古屋には納得のいくものだった。持松の話はなおも続いた。

「彼ら食人鬼は人類よりもはるかに寿命が長い。何故なのか?

いまだに彼らの生態は謎に包まれていて、彼らの長寿の原因の解明もまた我々にとっての今後の研究課題だ。とは言え、これに関しては有力な仮説が存在し、決定的な証拠はまだ得られていないものの、それがほぼ正しいだろうという点で我々研究者の意見は一致している。

結論を先に言おう。すなわち、食人の習慣こそが彼らの長寿の秘訣なのだ。

有力な仮説と言ったが、実は非常に単純な理屈だよ。食人鬼と銘打ってはいるが、その実彼らは雑食だ。現在では我々の社会に潜んでほぼ毎日我々と同じものを食べ、我々と同じような生活をしている。唯一違うのは、時折彼らはひそかに我々人類を捕えてその肉を喰らっているという点だ。さもないと彼ら食人鬼は生存・繁殖に欠かせない必須栄養素を摂取することが出来ず、やがて死に至るわけだからね。

彼らの食生活において唯一我々と異なる点が時折口にする人肉である以上、今さら原因を探求するまでもなく、食人の習慣が彼らの長寿の原因に強くかかわっているのは自明の理なのだよ。

我々人類の歴史は飢餓との戦いの歴史でもあったが、飽食の時代と言われる現代でも実は状況はあまり変わってはいない。ホモ・サピエンスの故郷であると言われるアフリカ大陸においては、今でも飢餓に苦しんでいる人々が少なからず存在する。我々の遠い祖先は生き残るため、子孫を残すためには何でも口にしなければならなかった。極限状態においては、同胞の死肉を喰らうこともしばしばあったはずだ。

人肉の味を覚えた一部の人類はやがて食料としての人肉に体質的に依存するようになり、我々ホモ・サピエンスの祖先と袂を分かつこととなった。ホモ・カニバリスの誕生と言うわけだ。

太古の昔、彼らが食人を始めたきっかけはおそらく我々人類の祖先が知能、身体能力ともに未発達で比較的容易に捕獲できたからなのだろうが、時を経てホモ・カニバリスも、我々人類も進化した。当初はホモ・カニバリスの格好の餌食だった人類は、おそらく必死に捕まらないための工夫をし続けただろう。その結果、知能が高度に発達し、食人鬼の脅威を絶え間なく身近に感じ、その姿におびえながらも繁殖をつづけ、現代にまで子孫を残すことができた。

今や人類は、かつて恐竜がそうであったように、この地球上の支配者としてわが世の春を謳歌している。ホモ・サピエンスやホモ・カニバリスと同時代に生きていたはずのネアンデルタール人やデニソワ人など、その他のホモ属がいつの間にか絶滅してしまったことを考えるとまさに好対照だ。ホモ・カニバリスという強敵の存在が人類をしてこの惑星の覇者たらしめたのだとしたら、我々はむしろ彼らに感謝しなければならないのかも知れない。

その一方でホモ・カニバリスも知恵を蓄えた我々の祖先に対抗し、新たな能力を獲得するに至った。それが変身能力ならぬ、ホモ・サピエンスに擬態する能力なのだ。

二十八万年もの間、常に我々の祖先を脅かし続けてきたホモ・カニバリスはいつのまにか我々人類にとって目に見えぬ敵となってしまった。現代においては食人鬼など空想の産物でしかないと信じ切っている人間が大多数だが、その事実こそ、彼らがいかに巧妙に我々人類に擬態しえているのかを如実に表している」

話が一段落したところで持松は灰になってしまった葉巻を灰皿に押しやり、ケースから新しい葉巻を取り出して吸い口をカットし、口に咥え、火を点けた。

ホモ・カニバリスか。

まるでガラスケースの中に収められた生物標本でも論評するような持松の話しぶりに、阿古屋は持松と自分との間にある見えざる壁のような隔たりを意識せざるをえなかった。食人鬼にわざわざホモ・カニバリスなる称号を賦与し、彼らに対する賞賛ともとれる論評を下す持松だったが、おかれた立場の違いで対象の見方もずいぶん変わるものだと阿古屋は今更ながら痛感させられた。

俺たち特防班は常に食人鬼との戦いの矢面に立たされている。

客観的で冷静な分析など到底無理という訳か。

だが、今の阿古屋にはそういった視点こそ必要不可欠だった。


暫しの沈黙の後、阿古屋がたずねた。

「ドクトル、彼らの再生能力については何か新しい発見があったでしょうか?」

持松はそれだと言わんばかりに大きくうなずき、葉巻を片手に再び話を始めた。

「情報秘匿のためにお蔵入りになった警察の各種報告においても、彼らの驚異的な再生能力を示唆するものが少なからず存在するが、いずれも第三者から見れば到底信じられん報告ばかりだ。拳銃弾を十数発、胴体に喰らっても死なず、あまつさえ包囲していた警官のひとりが逆襲されて殉職しているケースさえある」

「個人商店の店主が惨殺された立てこもり事件でしたね。我々はあの件には直接関与していませんが、現場にマスコミが殺到して報道規制を敷くのが大変だったと聞いています。拳銃弾では到底倒せないと悟った機動隊員のひとりが機転を利かせ、大型の警備車両で犯人をひき殺して被害のさらなる拡大をなんとか防いだわけですが」

「直接の死因は頭部粉砕だったな。おそらくライフル弾を使用しても鎮圧するのは難しかっただろう。それにしても、パニックに陥った機動隊員がやり過ぎて犯人を、原形をとどめないミンチにしてしまったのはなんとも残念だった。我々としては貴重なサンプルを入手し損ねてしまったわけだからね。とにかく、彼らの息の根を止めるにはそれこそ頭部を粉々に砕くか、首を切り落とすくらいはしないとだめらしい。たとえ腹部に銃弾を受けても短時間で損傷箇所が元通りに修復されるというからまったく信じがたいことだ」

「件の機動隊員を責めるわけにはいかんでしょうな。なにしろ相手が相手ですから。我々も警察も、食人鬼と対峙した際、彼らを完全に無力化するためには常々苦労しているのです。死体を確保することを優先し、手ぬるい方法をとったがために返り討ちを喰らって身内から殉職者を出しては元も子もありません。軍用ライフルや軽機関銃、小型火炎放射器の使用など、現状では対ゲリラ戦並みの装備・戦術が必要ですし、そういった強力な武器を使用する以上、特に人口密集地においては第三者に被害が及ばないような配慮も不可欠です。そうなれば死体の完全な形での確保など望むべくもありません。今回ああいった形で損傷の少ない死体が入手できたのは幸運以外の何物でもありません」

「うむ、君らの苦労は痛いほどよくわかるよ。私としても君ら現場の人間を責めるつもりは毛頭ないし、逆に君らの奮闘努力には大いに敬意を表したい。まあ、いずれにせよ、連中の再生能力の解明に関しては、今後の研究を待たねばならないだろうね。あの遺体を分析することによって貴重なデータも収集できたことだし、参考までに、のちのち厚労省の精鋭たちの意見も併せて拝聴したいものだ」

「わかりました。今まで同様、私が仲立ちして情報共有できるよう取り計らいましょう」

「恩に着るよ、阿古屋君」

持松は阿古屋にそう礼を言うと、長くしゃべり過ぎて喉が渇いたのか、手にしていた葉巻を灰皿の上に置き、テーブルの上に置いてあったペットボトルのミネラルウォーターを一口ゴクリと飲み干した。その機を逃さず、阿古屋はかねてから疑問に感じていたことを持松にぶつけてみた。

「ドクトル、実は彼らの生態についてひとつまだよくわからない事があるのです」

「ほう、それはいったいどのような?」

阿古屋らしくない、今一つ煮え切らない口調だったが、持松はさも興味深げに身を乗り出した。

「今回食人鬼に襲われた南雲勝のガールフレンド、伯耆美織についてなのです。

我々は彼女もまた食人鬼なのではないかと推測し、内偵を進めてきました。彼女が南雲青年に接近した際には当然彼を捕食する目的で近づいたのだと思いましたが、現在に至るまでそんな素振りすら見せません。我々が監視していることに気が付いて警戒し、行動を起こすのを躊躇している可能性もありますが、どうも今まで我々が追跡してきた食人鬼たちとは勝手が違うようなのです。それに、彼女は蓮海たちと共闘するようなそぶりを見せておらず、むしろ彼らを避けているようなのです。彼女が食人鬼であるか否か、我々自身結論を出しかねているというのが実情です。なんともあいまいな話で理解に苦しむかもしれませんが、ドクトルは今の話で何か思い当たることはないでしょうか?」

持松は腕組みをし、眉間にしわを寄せてまぶたを閉じた。しばらくそのまま身じろぎもせず沈黙を続けていたが、ふと思いついたように口を開いた。

「その質問に答える前に、そのお嬢さん、美織さんをなぜ君たちがマークするに至ったか、それを聞かせてもらえないかな? 」

阿古屋は傍らに置いていた大型の封筒を手に取り、中から数枚の写真を取り出してテーブルの上に並べた。

「順を追って説明しましょう。これが問題の伯耆美織の写真です」

阿古屋はテーブルの上の写真を一枚手に取り、持松に手渡した。写真にはなごやかな表情を浮かべながら街中を歩いている美織と勝が写っていたが、周囲に写りこんでいる通行人と比較しても、美織の色白の肌と明るい鳶色の瞳が際立っていた。

「なかなか綺麗なお嬢さんじゃないか。いっしょにいるのは南雲青年だね?」

「はい。こちらは先日死亡した行方氏と一緒にいるところを撮影したものです」

阿古屋は別な写真を差し出した。写真には美織が車椅子に収まった行方操を連れて散策している様子が写っていた。

「行方氏というのは、美織嬢と同居していた彼女の祖父だったね。少なくともこの写真を見る限りにおいては、二人とも欧州人のような外見をしている。もっとも、生粋の日本人でもそういった風貌の人間は時折見かけるが」

「おっしゃる通りです。今度はこちらをご覧いただきたい」

阿古屋が手にしたセピア色に変色したモノクロ写真は、それまでの二枚とは打って変わって見るからに年代物の写真だった。写真には椅子に腰かけた中年の紳士と、紳士に寄り添うようにして脇に立っている若い婦人が写っていた。紳士の方は古風な仕立ての背広の上下とアスコット・タイを着用し、揃えた膝の上に山高帽をきちんと置いていて、そのきちょうめんな性格がうかがえた。一方、婦人のほうは紳士の服装と同様にクラシックなデザインの裾の長いドレスに身を包み、ウェーブのかかった長い髪を後ろで束ねていて、その頭に小さなつば付きの帽子をちょこんと載せていたが、中年の紳士が背筋をピンと伸ばしてカメラの方をまっすぐに見据え、生真面目な表情を崩さないのとは対照的に、彼女は椅子の背に軽く手を置き、いかにもリラックスした様子でにこやかに微笑んでいた。写真を裏返すとそこにはFeb. 1895 Michael S. Burton, Miriam Burton という英字の書き込みがあったが、写真に写った二人の名前と、撮影時期を書き留めたもののようだった。

「一八九五年撮影、マイケルとミリアム、二人ともバートンだから夫婦のようだが。

しかしよく似ているね。この若い婦人は美織さんにそっくりじゃないか。それにこの紳士、四十歳前後に見えるが、行方氏によく似ている」

写真を手にした持松は説明を求めるように阿古屋の顔をちらりと見た。

「ご明察、恐れ入ります。おっしゃる通り、この写真の二人は行方操と伯耆美織です。

慎重に慎重を重ねた分析の結果ですから間違いありません。これはかなり以前に欧州から日本に潜入したと思われる食人鬼の資料として、知り合いのロンドン警視庁の刑事から託された何枚かの写真のうちの一枚です。古い写真ばかりでしたから現在も存命中の対象はいないものと思っていましたが、調査を重ねていくうちに、意外にもそのうちの一枚が伯耆美織、行方操と完全に一致したというわけです」

「ふむ、一八九五年と言えば、今から百三十年近く前だが、この写真の書き込みが事実とすれば美織嬢は少なくとも現在の年齢が百五十歳前後、しかし、当時から現在に至るまで外貌にほとんど変化がないことを考慮すると」

「百五十歳どころの騒ぎではなくなります。少なく見積もってもその倍にはなるでしょう。

ドクトル、あなたはさきほど食人鬼の寿命は我々人類の倍以上とおっしゃいました。伯耆美織が食人鬼であると仮定しても、私はこれほど長寿のケースは見たことがありません」

「行方氏の素性については何かつかんでいるのかね?美織嬢ほどではないにしても、死亡時はかなりの高齢だったはずだが。おそらくかれも食人鬼だったのだろう?」

「いえ、彼は我々と同じ人間です。間違いありません。葬儀屋にいくばくかの金を渡し、火葬に付される前の遺体を極秘に調査するのはわけのないことでした。彼が死亡した際の、戸籍上の年齢は八十六歳ということになっていますが、この写真から判断して、実際には推定年齢百六十歳以上という事になりますね」

「すでに調査済というわけか。食人鬼の可能性が疑われる美織嬢は推定年齢三百歳以上、かたや行方氏は人間でありながら死亡時の年齢が百六十歳以上、行方氏は美織嬢の本当の祖父ではないにもかかわらず長年同居していた。また厄介な謎が増えたね」

「さすがのドクトルもこれにはお手上げですか?」

半ばからかうような阿古屋に対して、持松はにんまりと笑みを浮かべた。

「フフ、そうでもないよ。君の話を聞いていて少し思い当たることがあるのだ。

阿古屋君、君も知っての通り、私は若い頃ドイツで研究生活を送っていた。少し長くなるが、今から話すのはその当時、耳にした話だ。私がドイツに留学していたのはもうかれこれ三十年以上も前だが、ある時私の恩師だったドイツ人の老教授が奇妙な話をしてくれたことがある。


戦時中、彼はドイツ軍の軍医として東部戦線に従軍していた。

独ソ戦が始まってまだ間もない頃で、独ソ不可侵条約を一方的に破棄し、突如ソ連領内に侵攻を開始したドイツ軍は各戦線で破竹の勢いで進撃を続けていた。太平洋戦争が始まる数か月前のことだね。不意を突かれたソ連軍は士気の低さも相まって至るところで敗走し、逃げ切れずに包囲された膨大な数の将兵がドイツ軍の捕虜となった。その数は優に百万を超えたそうだ。

彼の部隊の駐屯地のすぐそばにもそういったソ連兵捕虜の臨時収容所が設置されていて、その様子をつぶさに見ることができたそうだ。独ソ開戦からしばらくの間、ドイツ軍のソ連兵捕虜に対する扱いは過酷を極めた。当時のナチスのイデオロギーによれば、ロシア人はアジアの下等人種とみなされ、ユダヤ人同様ゆくゆくは絶滅の対象となっていたのだ。彼らはまともな食物も与えられず、また傷病兵たちも手当てを受けられず放置されることが多かった。

我が恩師が所属する部隊のそばにあった収容所でも状況は変わらなかった。捕虜に対する非人道的な扱いを目の当たりにして、まだ若かった彼は怒りを禁じえなかったという。

勢い余って管理責任者である野戦憲兵隊の指揮官に直接抗議をしたそうだが、彼の上官である師団長がとりなしてくれなければ軍律違反で拘束されていたかもしれないということだ。そんなある日のこと、彼は顔見知りの衛兵から収容所内で奇妙な事件が起こったことを聞かされた。捕虜同士の間でいざこざが起こり、捕虜の一人が仲間に惨殺されたというのだ。収容所の建物の物置部屋で早朝に発見された遺体は目を覆うような惨状を呈していた。腕や足がところどころ食いちぎられたように欠損しており、内臓が部屋中に散らばっていたのだ。まるでクマやライオンなどに食い殺されたような有様だったそうだ。もちろんそんな猛獣が戦場の只中をうろうろしている訳がなく、人間の仕業であることに間違いはなかった。犯人はすぐに捕まったが、奇妙なのはここからだ。

拘束されてからしばらくの間、犯人は収容所内で軟禁されていたらしいが、一週間ほど経った頃、SS(親衛隊)の護送部隊が到着して、厳戒態勢の中、犯人の男をどこかへ連れ去ってしまったのだ。陸軍の管轄下の捕虜収容所で起きた殺人事件の加害者である、たった一人のソ連兵をわざわざ部外者の親衛隊が大勢訪れて、用意周到に連れ去るというだけでも首をかしげたくなる話だが、その護送隊の指揮官は親衛隊中将の階級章を襟に付けていたそうで、一部始終を目撃していた衛兵も、なぜわざわざ親衛隊の高級将校がみずから部隊を率いて最前線の捕虜収容所に出向いてきたのか不思議に思ったそうだよ。

ナチス親衛隊の長官ヒムラーがソ連や東欧諸国で食人鬼狩りをしていたらしいことを恩師が知ったのはそれからしばらく経ってからの事だった。ナチスは食人鬼の持つ恐るべき可能性に早くから着目していたようだが、おそらく親衛隊によって連れ去られたその捕虜も食人鬼だったのだろう。そういった状況下で特に彼らが『希少種』と呼んで血まなこになって探していた種があったというのだ。

恩師が言うには、食人鬼には近縁の仲間がいて、それらは通常の食人鬼に比べて非常に数が少ないが故に希少種と呼ばれていた。彼らは通常の食人鬼と違い、外見上は我々人類とほとんど違いはなかったようだ。そのため彼らは変身能力、つまり人類に擬態する能力を持たず、その代わりにある特殊な能力を持っていたという。ヒムラーが彼らを必死に追い求めていたのもその特殊能力故だったらしい。戦後、食人鬼狩りに携わっていた親衛隊関係者たちは戦犯として訴追されることを恐れ、ほとんどいずこかへ逃亡してしまい、逃亡に際して食人鬼の関係資料もあらかた処分された為、研究成果も散逸してしまった。

現在でも食人鬼の研究は各国で極秘裏に行われているわけだが、とりわけ希少種と呼ばれているものについてはほとんど知られていないというのが実情だ。

あくまでも噂にしか過ぎないと思われた希少種だが、後になって恩師は図らずもその希少種の特殊能力の恩恵にあずかることになるのだ。


捕虜収容所で食人鬼によるものと思われる殺人事件が発生してから数年後、戦局は一転し、ソ連軍が幾重にも包囲する中、ヒトラーはベルリンの総統官邸地下壕でピストル自殺を遂げ、ナチス・ドイツは力尽きて連合軍に降伏した。ソ連軍に捕まった我が恩師はソ連国内に連行され、捕虜として過酷な収容所生活を送ることとなった。

西シベリアの小さな村にある小規模な収容所に送られた彼は、生活必需品はおろか毎日の食事にも事欠く中で仲間と共に必死に生き延びるための努力を続けた。何しろその村自体が文明から切り離された流刑地のようなものだったから、収容所の規則も比較的ゆるやかで、案外自由に収容所の外へ出て、村人と交流することは出来たそうだ。やがて彼らドイツ人捕虜たちは村人たちとも親しくなり、大工の心得のあるものは家を修理し、本国で銀行に勤務していたものは帳簿のつけ方を教えてやるなどして、それと引き換えにパンやミルク、野菜などの食料をもらい、飢えをしのいでいたらしい。

とりわけ、医師の資格を持っていた恩師は医者のいない村では大変有難がられたのは言うまでもない。医師として村人や捕虜仲間の健康管理に日夜心を砕いていた恩師だったが、ある時自分自身が高熱を発して倒れてしまった。劣悪な環境で休む暇もなく働いていたから当然と言えば当然だったが、症状はかなり重く、恩師自身、もう自分は助からないだろうと観念したという。すると彼の病状を心配した村人の一人が、彼を馬車に乗せ、隣村の一軒の家へ案内してくれた。

アントンとオーリガという夫婦者の家で、夫のアントンがかなりの高齢なのに比べ、妻のオーリガはまだ少女と言ってもいいような容貌をしていた。オーリガは恩師をベッドに寝かせると、何を思ったか、彼の右腕に突然噛みついたのだ。恩師はそのまま意識を失ってしまったそうだが、不思議なことに目が覚めた時には熱は完全に下がり、体調もすっかり回復していたという。恩師が後から知ったことだが、オーリガは村人たちから『肝臓喰らいのオーリャ』という奇妙なあだ名で呼ばれていた。それからしばらく経って、オーリガとすっかり打ち解けた恩師は冗談交じりに彼女に、本当に肝臓を食べるのかどうか尋ねたそうだ。すると彼女は至極真面目な表情で答えたという。

『そうよ。私は夫の肝臓を食べる。夫の肝臓でないと駄目なの。そうしないと生きられないから。でも、そのおかげでアントンも長生きできるのよ。本当よ』

宗教弾圧の嵐が吹き荒れたスターリン体制下のことでもあり、大っぴらにではなかったが、不治の病すら治すことの出来るオーリガは近隣住民から聖女として密かに崇められていたらしい。更に不思議なことに、村の長老は彼女をオーリャ姉さんと呼んでいた。彼がまだ小さかったころ、オーリャ姉さんがよくいっしょに遊んでくれたというのだ。彼が大人になり、やがて老人になってもオーリャ姉さんの方はちっとも変わらず、昔のままの少女のような容貌を保っていた。実際には、彼女は九十歳近い年齢の長老よりずっと年上だったのだよ。

彼女の驚異的な治癒能力のおかげで命拾いした恩師は、オーリガこそが希少種なのだと、そのときようやく気づいたそうだ。つまり、希少種の持つ特殊能力と言うのは彼女の優れた治癒能力のことであり、無差別に人間を襲わず、特定の人間の肝臓のみを食べ続けるというのは食人鬼としての特殊な進化をたどった結果なのだよ。

君も先刻承知と思うが、肝臓というのは極めて再生能力の高い臓器だ。実験用のマウスの肝臓を三分の二ほど切除しても、比較的短期間で元通りに復元されるほど再生能力に富んでいる。希少種たちも、おそらく対象として選んだ人間の肝臓が再生するのを待って定期的に、少しずつ摂食を繰り返すのだろう。そうすることで彼らは命を長らえ、そしてまた肝臓を提供した側の人間も、彼ら希少種の特殊能力、おそらく唾液に含まれている特殊な成分のおかげで長寿を得られるのだろうが、当然の事ながら希少種本人ほどの長寿を得られるわけではない。

人間の肝臓を食べることで希少種は年を取らずに若々しさを保ち、一方、肝臓を提供した側の人間は普通の人間よりもはるかに長生きするとはいえ、その外貌は少しずつ老化の一途をたどるというわけだ。恩師がシベリアで出会ったアントンとオーリガも、結婚した当時はそれほど年の差はなかったのだろう。それどころか、実際はアントンのほうが妻のオーリガより若かった可能性もあるね。

今さら言うまでもないことかも知れないが、私が食人鬼研究にのめり込み始めたのはこのドイツ人の恩師の影響が大きいのだ。彼に出会わなければ食人鬼なんぞとはまったく無関係の人生を送っていたに違いないからね。たった今、君から美織嬢の話を聞くまでは、希少種とは遠い欧州にのみ存在するきわめて特殊な例とばかり思い、なかば記憶の片隅に追いやられていたのだが、どうやら私は大きな思い違いをしていたようだ。

それにしても、我が恩師からオーリガたちの話を聞いた当時は何とも不思議な気持ちにさせられたものだよ。パートナーとして選ばれ、肝臓を絶え間なくオーリガに食べ続けられていたアントンはいったいどのような気持ちで長い人生を過ごしていたのだろうか?」

黙って話を聞いていた阿古屋は低くうなりながら言った。

「確かに不思議な話ですな。ドクトルの恩師が出会ったというシベリアのオーリガは今でも少女のような容貌を保ったまま、彼の地で暮らしているのかもしれませんね。そのオーリガとアントンの夫婦、行方氏と伯耆美織の関係に瓜二つです。そういえば、遺体を検分した際、行方氏の腹部には癒着したような傷跡があったそうです。美織が肝臓を摂食した際にできた傷と思われますが、おそらくその唾液に含まれる特殊な成分のおかげで傷が治るのも早いという事なのでしょうね」

「おそらくそう考えて間違いはないだろう。私は希少種の存在を恩師から告げられた時、ギリシャ神話に登場するプロメテウスのことを思い出したよ。君も知っての通り、プロメテウスは天界から火を盗んで人間に与えたことをゼウスに咎められ、鎖につながれて未来永劫、大鷲にその肝臓をついばまれることとなった。これは希少種の存在に気付いた太古の人類が神話に仮託して語り伝えたものではないのだろうか、とね」

「なるほど、それはあり得る話ですね。どの民族の神話や伝説においても過去に実際に起きた自然災害や天変地異を示唆するものは少なからず存在するようですから、希少種の存在が神話という形で語り伝えられていたとしても何ら不思議はないと思います。

ドクトル、大変参考になるお話でした。どうやら謎が解けたように思います。

おそらく伯耆美織はその希少種なのでしょう。行方氏の死期が近づいて、彼女は別の誰かの肝臓を探し求めた。そして南雲勝を選び…」

「…プロメテウス」

「えっ、今なんと?」

「南雲青年は現代のプロメテウスだと言ったのだよ。南雲青年は何の罪も犯していないにも関わらず、天界の掟を破ったプロメテウスと同じ運命をたどろうとしている。実に難儀なことだと思わないかね?」

あらかた灰になった葉巻を手にしたまま、持松は軽く頭を左右に振った。



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