第6話 雨中の惨劇

アパートの建物の脇の暗闇に、その女はたたずんでいた。


仕事を終え、夕方から降り続いていた雨の中を、勝は愛用のオートバイで自分のアパートにたった今帰り着いたところだった。

彼はオートバイを走らせているあいだ、今日も職場に現れなかった美織のことを考えていた。

蓮海との会見から一週間ほど経っていたが、美織はその間ずっと、体調不良を理由に職場に姿を見せていなかった。美織を信じたい気持ちでいっぱいの勝は蓮海容子の勧告にも耳を貸さず、美織の真意を確かめるべく、彼女からの連絡を待ち続けていたのだった。

そんな時にアパートのすぐ脇でたたずむ美織らしい姿を目にとめたので、勝がほっと一安心したのも無理はなかった。勝はその女の着ているワンピースに見覚えがあった。美織が以前何度か着ていた、白地に細い紺のストライプが入ったワンピースに違いなかった。女はしばらくそこに立っていたらしく、雨で全身ずぶ濡れになっていた。

薄暗闇のなかにぼうっと浮かび上がる美織らしき姿を認め、いったんは安堵のため息を漏らしかけた勝だったが、どうも様子がおかしい。勝のオートバイのエンジン音を最前から聞きつけているはずなのに、女はこちらに背を向けたままだった。それに、もし女が本当に美織であるのなら、たとえ勝を待っていたにしても携帯やメールで連絡もよこさず、ただアパートの建物の陰で、しかも雨の中ずっとたたずみ続けるというのはいかにも理解しがたい、不可解な行動だった。かぶっていたヘルメットを脱いでハンドルに差し掛け、用心のためオートバイのエンジンをかけたままにしてその場を離れると、彼はゆっくり女のほうへ歩き出した。

勝は心の中で何かがおかしいとつぶやきつつも、その全身ずぶ濡れの女の後ろ姿に声をかけずにはいられなかった。

「美織?」

そう呼び掛けてもその美織らしい女は沈黙を保ったままだった。その時、勝は女が右手に長い棒状の物を携えているのに気がついた。目を凝らしてよく見ると、女が手にしていたのは先にジョイント金具がついた長い水道管だった。光の乏しい中、おぼろげにしか判別できないその先端部分は、まるで中世ヨーロッパの拷問人が手にする棍棒のようなまがまがしいシルエットを際立たせていた。勝が女の様子を怪しみつつも更に一歩二歩近づいたとき、いきなり女は素早くこちらに振り向き、その棍棒代わりの水道管で勝めがけて殴りかかってきた。とっさに避けようとして勝はアパートの通路の濡れたタイルで足を滑らせ、その場に倒れこんでしまったが、それが逆に幸いした。

床にへたり込んだ勝がふと見上げると、間一髪、彼の頭をかすめた水道管はその先端部分がアパートの壁に大きくめり込んでいる。もし水道管の先端が頭を直撃していたら、ただでは済まなかっただろう。濡れた髪がべっとり女の顔にまとわりつき、薄暗さもあいまってその表情は定かではなく、女の正体は依然不明だった。ワンピースの半袖からは女の両腕があらわになっていたが、勝はその様子を見て息を飲んだ。水道管を握り締めたその両腕はとてもか弱い女の腕とは思われないような、異様な筋肉の隆起を見せていたのだった。

「ちっ」

女は軽く舌打ちをし、壁にめり込んだ水道管を引き抜こうと苦心していた。

狭いアパートの通路で水道管が女と勝とを隔てるかたちになり、壁からそれを引き抜かない限り前へ進むのは困難だった。そのわずかな隙に乗じて勝は這うようにして後じさりし、エンジンをかけたままだったオートバイに向かってあわてて駆け出した。ハンドルに差し掛けたヘルメットをかぶり直し、オートバイを発進させつつ後ろを見ると、少しおくれて女が追いかけてくる。水道管を壁に深々とめり込ませた腕力は到底人間わざとは思えなかった。


勝は背筋に冷たいものが走るのを感じた。

オートバイを疾走させながらミラーで後方を確認すると、何か得体の知れないものが追跡してくるのが目に入った。さきほど勝を襲った女とは似ても似つかぬ異形の怪物がそこにいた。オートバイの速力に劣らぬペースで追いかけてくる様子は到底人間の姿であるはずはなかったが、両腕を交互に振り回しながら二本足で疾走するその姿は、人間以外の地球上の生物とは考えられなかったのもまた事実だった。勝は再び前方に意識を集中しながら、ミラーに映っていた化け物の姿を心の中で反芻した。以前どこかで見たはずのその異様な姿。

いつ、どこで見たのか彼はすぐには思い出せなかった。が、やがてその記憶に思い当たった。

そんな馬鹿な、こんなことが現実になるなんて!

今や彼はその姿をはっきり思い出していた。そのとき味わった恐怖と絶望の感覚と共に。

その奇怪な姿は、しばらく前から勝を悩ませ続けていた悪夢に出てくる怪物そのものだった。

あれが食人鬼なのか? やはり美織は、蓮海たちの言う通り食人鬼だったのか?

今はそんなことを考えている場合ではなかった。とにかくあの化け物からなんとしても逃げおおせなければならない。さもないと本当に悪夢で見たように奴の餌食になってしまう。

勝は必死にオートバイのハンドルにしがみついた。

道幅の狭い小径に入ると速度が落ちて追いつかれてしまうので、勝は比較的まっすぐで幅のある線路わきの一本道へ躍り出た。化け物は依然として追跡の手を緩めなかった。見通しのいい一本道に出たことでオートバイは速度を増すことが出来たが、それでも追跡してくる化け物との距離はほとんど変わらなかった。

このままでは遅かれ早かれ追いつかれる。

勝はそう思い、より一層の恐怖を覚えたが何も打開策は思いつかなかった。ふとミラーを見ると、後方の線路上に明かりがちらつき始めた。列車が後方から接近して来ているらしい。一本道と線路の間には排水溝があり、格子状の鉄の覆いが排水溝の上から被せられていた。線路は脇道よりも小高く盛り上がっていて、排水溝の外側の線路沿いには金網のフェンスが設置されていたが、この先に工事中の区画があり、その区画に限ってフェンスが一時的に外されていたのを勝は思い出した。かなり危険な試みではあるが、そこからならオートバイで線路を乗り越えて反対側に抜けようと思えば行けなくはない。

後方から近付いてくる列車は徐々に勝のオートバイとの距離を縮めつつあった。

列車がオートバイを追い越す前に線路を渡り終えなければ万事休すだが、この窮地を脱するには一か八か試してみるほかない。

勝は覚悟を決め、濡れた路面で滑って転倒しないように細心の注意を払いつつ、フェンスが途切れたところに差し掛かるや否やタイミングを計って線路上に向かって斜めに突進した。

勝は列車に追い抜かれる直前に線路を横断し終えた。まさに間一髪だった。

勝のオートバイは線路に乗り上げたところで大きく飛び跳ね、そのままの姿勢で線路の反対側の低い生垣をかすめ、隣接する公園の芝生に後輪から着地して次の瞬間転倒し、勝はつんのめるようにして前方に放り出された。勢い余って空中で半回転した後、地面に着地して背中と腰をしたたか打ちはしたがヘルメットと厚手のレインコートに守られ、更には着地したのが柔らかい草地だったせいもあって、幸いにも軽い打撲の他は大したけがはなかった。天地がひっくり返るような錯覚にとらわれつつ、軽いめまいを覚えながらゆっくり起き上がると、線路上を貨物列車が轟音を立てて過ぎ去るのが目に入った。勝の身代わりになって着地のショックを受け止めたオートバイはフレームやフロントフォークが大きく歪み、もはや再使用に耐えないのは一目瞭然だった。


列車が通過した後は雨のそぼ降る音だけが聞こえ、例の化け物はどこかに消え失せてしまったように思えた。

ふと線路上を見ると何か白っぽい塊がそこに横たわっているのが目に留まった。おそるおそる近づいてみると、それは通過した列車の車輪によって轢断された人間の体だった。

降り続く雨と暗闇のせいで血だまりなどは見えなかったが、よくよく目を凝らすと白い胴体がレールの間に転がっていて、その周辺にバラバラになった腕や足が散乱しているのがはっきりとわかった。先ほどまで勝を追いかけていた化け物のそれではなかった。どうみても人間の、それも女の遺体らしい。衣類らしきものは一切身に着けていなかった。

勝を追いかけて来た化け物は線路を渡ろうとして列車の下敷きになり、無残な最期を遂げた。そしてそれと同時に人間の姿に戻ったに違いない。勝は直感的にそう判断した。

あまりにも凄惨な光景を目の当たりにして勝は吐き気を覚え、気が遠くなりそうになりながらも頭部だけが見当たらないのに気付いて辺りを見回したが、それらしきものはどこにも見当たらなかった。

遠くで救急車のサイレンが聞こえていた。

勝はなおも遺体の頭部を探し続けていたが、サイレンの音は更に接近し、やがてその救急車は勝のすぐ目の前に出現した。サイレンを鳴らし終えた救急車からレインコートとヘルメットを着用した男たちが数名駆け下りてくる。その中の一人が勝に近づき、話しかけてきた。救急車のヘッドライトに眩惑され、勝の立っている場所からは男の顔はよく見えなかった。

「とんだ災難だったね、南雲君。ケガはなかったかね?」

ヘルメットのひさしに軽く手を当てたその男はあの厚労省の役人、阿古屋仁だった。

勝はなぜこの男がここにいるのか即座には理解できなかったが、救急車の側面に大きく「厚生労働省」と書かれているのに気が付き、それがどうやら救急搬送以外の目的で駆け付けた特殊車両らしいことに気が付いた。白のレインコートにヘルメットという救急隊員の服装も偽装工作の一種に違いなかった。

阿古屋は以前会った時と変わらず淡々とした様子で、手にしていた傘を勝に手渡しながら線路の遺体のほうにあごをしゃくり、

「あの女、君を追いかけるのに夢中で列車が目に入らなかったのか、それとも線路を横切るタイミングを計り損ねたか。いずれにせよ南雲君、君は幸運だった。それにしても、接近する列車の真ん前でバイクに乗ったまま線路を突っ切るとは、君もずいぶんと無茶をしたものだね。まあ五体満足な様子で何よりだ。確かに、ああでもしないと奴らの息の根を止めるのは不可能だがね。実を言うと、今日あたり何か動きがありそうだと判断し、君のアパートのすぐそばで監視の網を張っていたのだ。君がいきなりバイクで飛び出したときはこっちも慌てたよ」

慌てた、というのはあくまでも言葉の綾で、阿古屋とその部下たちはあらゆる場面を想定して事態の急変に備えていたに違いなかった。実際、目の前で淡々と話し続けている、常に人を喰ったような態度の中年男が慌てている様子を想像するのには相当な困難が伴った。


阿古屋が勝と話をしている間も、他の救急隊員たちは線路上の遺体の回収を急いでいた。

やがてその中の一人が黒っぽいラグビーボールのようなものを両手に抱えて近づいてきた。

その阿古屋の部下らしい男は、ほっとしたような様子で阿古屋に話しかけた。

「室長、見つけましたよ。線路から離れた草むらに隠れていて、探すのに苦労しました。これで全部回収し終えました」

そう言って手にしたラグビーボール状のものを高く掲げた。

勝は男が両手で高々と掲げたものを目の当たりにして息をのんだ。

それはラグビーボールなどではなく、勝の元同僚、蓮海容子その人の切断された頭部だったのである。

するとさっき俺を追いかけてきたのは蓮海容子だったのか?

あの猛スピードで追いかけて来た化け物が?

美織じゃなく、蓮海が食人鬼?あの蓮海容子が食人鬼だったなんて。

勝は想像を絶する光景を目の当たりにして、狼狽を隠すことが出来なかった。

貨物列車の車輪で斜めに轢断された頸部の断面は潰れたスイカの果実のようにぐしゃぐしゃになっていて、その断面からは筋肉や血管とおぼしき筋状のものが無数に飛び出していて見るも無残な有様だったが、それ以外には目立った損傷は見られず、頭部そのものはほとんど無傷だった。雨に濡れた黒髪がべっとりまとわりついた、血の気の失せた顔には何の表情も浮かんでおらず、半開きの両眼はどことなく気だるげに見えた。眠っているところを起こされて少し迷惑がっている、そんな風にも見えた。どうやら食人鬼は変身していても死ぬとまた人間の姿に戻るらしかったが、勝には、目の前の穏やかな死に顔の蓮海容子が食人鬼だったとはにわかには信じられなかった。

身近な人物の無残な死と、その正体を知ったことに大きなショックを受けつつも、死体が美織でなかったことを知って勝はひそかに安堵のため息をついた。

気持ちが少し落ち着いてくると、勝の心の中に新たな疑問がわいてきた。

蓮海容子はたしかに俺を殺すつもりだった。だがいったいなぜ?

なぜ彼女が自分を殺そうとしたのか、勝にはまったく心当たりがなかった。ただ単に勝を獲物の一人として狩るつもりならもっと前にそうするチャンスはいくらでもあった。

蓮海のオフィスで美織から離れるように勝に警告したときの彼女の表情は真剣そのものだったし、その後で今度は自分が勝を襲うというのはどうにもつじつまが合わない。

今回の襲撃にはきっと何か特別な理由があったはずだ。

目の前に立っている男はその辺の事情を知っているに違いなかったが、それを尋ねることで自分の弱みをこの得体のしれない男にさらけ出すような気がして、勝はそのまま沈黙を守ることにした。


雨足が一段と強くなって来た。ざあざあ降りしきる雨の音に負けないくらい派手なブレーキ音をきしませ、大型の四輪駆動車が救急車の脇に急停車した。中から私服の男が二人飛び出してきて、手早く車の荷台から黒いビニールに包まれた大きな塊を運び出し、線路のほうへ小走りでその黒い包みを担いでいく。長身の男と小柄な男が凸凹コンビよろしく包みをえっちらおっちら運ぶさまは、つい今しがたまで人間の死体が散乱していた陰惨な現場にはあまりふさわしいとは言えない、ある意味シュールな光景だった。

いぶかしげにその様子を見ていた勝に向かって阿古屋は言った。

「あの包みの中身は犬の死体だよ。人間をはねたらしいという貨物列車の運転士からの通報を受けて、おっつけ警察が駆けつけるだろうが、彼らが線路付近で発見することになるのは人間じゃなく、犬の死体というわけだよ。列車が犬をはねたという目撃情報もやがて彼らの耳に入ることだろう」

「いったいなぜそんなことを?」

勝は心に浮かんだ疑問を阿古屋にぶつけた。

「情報操作も我々の任務の一環だよ。警察OBの私がこういうことを言うのもなんだが、我々はこと食人鬼問題に関しては必ずしも警察と協力関係にあるわけではない。

あの食人鬼の死体は貴重な研究用のサンプルとしてわが特防班(阿古屋は自分たちの組織、特定疾病防疫対策室のことをこう呼んでいた)が秘密裡に回収することになったが、警察がそれを知ったら黙ってはいないだろう。おそらく検視するために死体をこちらへ引き渡せと横やりを入れてくるに違いない。となれば警察にはあらかじめ何か別のものを見せておかなければならないのは自明の理だ。任務を遂行するにはあらゆる手段を行使しなければならないのだ。

それがたとえ非合法すれすれのグレーゾーンであったとしても、だ。

あの救急車も我々が任務に使う特殊車両で、中には救命措置に必要な医療機器以外のものもどっさり積んである。サイレンの音色も実は普通の救急車のそれとは微妙に違っている。ほんのわずかな違いなのでかなり注意しても部外者が判別するのは難しい。我々だけにわかる、いわば符牒のようなものだ。遠くからあのサイレンが聞こえてきても我々特防班の人間だけが容易に音を識別できるというわけだよ。救急車だけじゃない。今回は出動していないが、特防班の専用車両には地元警察のパトカーや正規のナンバープレートをつけた自衛隊の特殊車両などもある。駆除対象となった食人鬼を排除するためのみならず、食人鬼の存在そのものを国民の目から覆い隠すための欺瞞工作に必要な駒というわけだ」

阿古屋はここで一旦その長広舌にひと区切りをつけ、話しているあいだじゅうコートのポケットの中で弄んでいた銀色のライターを取り出して一瞥をくれた。

この豪雨の中では好きな煙草も吸うことが出来ず残念至極、と言った様子だった。

警察と協力関係にあるわけではない?国民の目から覆い隠す?

勝は阿古屋たちの任務について大きな疑念を抱き始めた。

「あなたたちの任務とはいったい何ですか?食人鬼から社会を守るのなら、警察とも協力すべきなのでは?」

阿古屋はライターを再びポケットに収め、更に話をつづけた。

「君もこの件に関しては今や立派な当事者だ。少し詳しい説明をしてあげたほうがいいだろう。

実を言うと、警察と我々厚労省特防班は水と油のように相いれない者同士だ。

我々は任務を遂行するためには非合法すれすれのこともやってのけるし、またそれがある程度許容されているが、警察は常に法に則って行動することが求められている。

法律が彼らの行動を規定しているわけだが、残念ながら日本の法律のどこにも食人鬼に関する条項は存在しない。法律上は彼ら食人鬼も我々と同じ人間だ。法律で権利を保証されているし、その一方で犯罪に手を染めればそれ相応の処罰を受ける。

しかしどうだろう、君も先ほどあの女の驚嘆すべき身体能力を目の当たりにして、いったいどうやって彼らを拘束・処罰したらいいのかという疑問を抱きはしなかったかね?

留置場や刑務所に彼らを収監したはいいが、夜が明けたら他の囚人も看守もすべて惨殺されていた、という事態だって起こりかねない。

彼らは事実上、法律の枠の外に置かれた存在なのだ。

警察内部でも食人鬼が実際に我々の社会の中に潜伏しているらしいという疑念を抱いている者が少なからず存在し、抜本的な対策が急務であると真剣に考えているものもいるが、依然として上層部の腰は重い。臭いものには蓋をしておきたいということなのだろう。現状では、この件に関して日本の警察に多くを期待することは出来ないだろうね。

君は、さっき社会を食人鬼から守るために、と言ったね?

そのためには今言ったような理由で、我々特防班が独自に動くしかないのだが、なにしろ人員も予算もたかが知れているからね。

できることもおのずと限られてくるし、行動を起こす際も、彼らが狙う対象に応じて優先順位をつけざるを得ない。普段、多くの食人鬼たちは目立たないようにひっそり行動している。

捕食の対象としては、独居老人、施設や病院の高齢者、障碍者など、経済・社会活動にほとんど影響のない社会的弱者たちを狙うことが多い。そういった人々には気の毒な事だが、社会的影響が少ない故、たとえ犠牲となっても世間はあまり騒ぎ立てないし、我々もすぐに行動を起こさず推移を見守ることが多い。何しろ我々のリソースには限りがあるのだ。

やたら動き回って肝心な時にリソースが枯渇していたのでは話にならない。

食人鬼の中でも一部の跳ねっ返りが時折派手な事件を起こすが、そうした連中は直ちに我々特防班や、状況や規模に応じ我々の委託を受けたSAT(警察の対テロ特殊部隊)が社会的影響の大きさを考慮して即座に排除することになっている。

え?警察とは水と油じゃないのかって?

たしかに警察とはあまり折り合いが良くないが、私以外にも特防班には警察OBが何人かいるし、いざというときSATに協力を仰ぐくらいの関係は構築出来ている。

彼ら食人鬼を世間の目から隠しておきたいという点においては我々と警察上層部の考えは一致しているのだ。そのための協力関係と言ってもいい。たいていの場合、名目上は危険なテロリスト集団として食人鬼たちは処理されるわけだが、ときには当の食人鬼が排除されたにもかかわらず、犯人不明として闇から闇へ葬られる事案も発生する。詳細は公表されず仕舞い。

大人の事情と言うやつだ。

そういった我々の断固たる態度から彼ら食人鬼も貴重な教訓を得て、より以上に慎重な行動をこころがけるという訳だ。そういう意味では、我々と食人鬼たちとの間にはある種の暗黙の了解が存在すると言ってもいい。考えてみるとずいぶん奇妙な話だがね。

現代の日本人の大多数は食人鬼などこの世に存在しない、想像上の産物に過ぎないと言う共同幻想のもとに生きている。多くの人間がそう信じ込むことによって現代社会の安寧は保たれていると言ってもいい。

しかし現状はどうだろう?

君とは旧知の間柄だったはずの蓮海容子の正体は君自身、しっかりその目で見届けたわけだが、実はあの女も我々が密かに監視を続けていた対象のひとりだったのだよ。君のアパートの前で監視の網を張っていたのも、彼女が何か行動を起こすのではないかとにらんでのことだ。蓮海容子だけじゃない、食人鬼はいまや日本中、いや、世界中のあらゆるところに潜んでいる。

そのすべてを排除するのは事実上不可能だ。

我々特防班に今出来ることは食人鬼による被害を最小限に食い止めることだが、そのためにはあらゆる手を尽くさねばならない。それも秘密裡に。もし食人鬼の存在が白日の下に晒されれば、人と人との信頼関係はことごとく崩壊し、社会は成り立たなくなる。何しろそれまで親しく付き合っていた隣人が当の食人鬼かもしれないのだ。君と蓮海容子がそうだったようにね。

すべての人々は疑心暗鬼に陥り、やがて全世界的な規模でパニックが起きるだろう。

この国のみならず、現代文明そのものの繁栄が終わりを告げることになる。

人類の繁栄が砂上の楼閣の上に築かれているにすぎないことを知る人間は、世界中見渡してみても現状ではそう多くはないはずだ」

勝はこの得体のしれない男の背後に、巨大な国家権力の影を見たような気がした。

人員も予算もたかが知れているだって?ご冗談を。

背筋がうすら寒く感じたのは、雨でずぶぬれになったせいばかりではないようだった。

阿古屋は私服の上から無造作にレインコートを羽織っていたが、その前合わせの部分からショルダーホルスターに収められた拳銃が見え隠れしている。あの救急車だって、中には何を積んでいるかわかったものじゃない。おそらく警察や自衛隊の特殊部隊顔負けの重装備が搭載されていることだろう。三流ジャーナリズムの荒唐無稽な食人鬼レポートの数々だって、実は国民の目を欺くために阿古屋たちがわざと流布させているものなのかもしれない。オオカミ少年の寓話のように、オオカミが来るぞ、来るぞと言い続けているうち皆慣れっこになってしまって、そのうち誰も気にも留めなくなると言う寸法だ。

そんなことをぼんやり考えていると、

「ほら、本物の警察のお出ましだぜ」

阿古屋の視線の先にはサイレンと共に近づいてくるパトカーがあった。

まるで偽物の警察も別に存在するんだよ、と言わんばかりの阿古屋の口調だった。

パトカーから降り立った紺色のレインコート姿の警官たちは懐中電灯を手にしてあたりをきょろきょろと見回し、やがて線路脇の草むらに犬の死体を見つけ、明らかに悄然とした様子だった。いつの間にか現れた、近所に住む主婦といった風情の中年女性が警官たちをつかまえ、傘を片手になにやら身振り手振りを交えて話をしている。どうやら阿古屋の言うところの目撃情報とやらを警官たちに伝えているらしかった。彼女もおそらく阿古屋の配下のひとりなのだろう。

ふと気が付くと救急車はいつのまにか姿を消していた。

阿古屋も既に救急隊員の扮装を脱ぎ捨て、代わりに私物らしい黒のレインコートを羽織っていた。地面に叩きつけられて大破した勝のオートバイもとっくに片づけてしまったらしく、どこにも見当たらなかった。警官たちは少し離れたところにたたずむ阿古屋と勝を事故とは無関係の野次馬か何かと看做した様子で、その存在を気にも留めず、本部との無線連絡に余念がない様子だった。

阿古屋はそろそろ潮時とばかりに、その場に残っていた四輪駆動車のほうに向かって歩き出したが、いったん立ち止まって振り返り、勝に手招きした。

勝が近づくと、阿古屋は諭すように勝に話しかけた。

「君のバイクは残念ながら修理不可能のようなので、こちらで処分させてもらうよ。濡れたままでは風邪をひくだろうから家まで送ることにしよう。その代わりと言ってはなんだが、今日ここで見たり聞いたりしたことは一切他言無用だ。いいね?」

勝は阿古屋が身に着けていた拳銃をふと頭に思い浮かべ、黙ってうなずいた。他に選択の余地はなかった。

いい子だ、と言わんばかりに大きくうなずき、阿古屋は再び四輪駆動車に向かって歩き出した。

勝も背をすぼめ、阿古屋からもらった傘を片手に無言でそのあとを追った。


パトカーの回転灯の、血のように赤い光がちらちらと暗闇を弱々しく照らし続ける中、威勢よく降りしきる雨の音だけがあたりに響いていた。勝はふと、自分がいつも悩まされている悪夢の只中にいるような錯覚を覚え、おそるおそる辺りを見回すのだった。



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