第5話 蓮海容子

それから数日後、勝はS市の中心街にあるオリベ・エンタープライズ本社を訪れていた。


勝の会社とオリベ・エンタープライズは金谷社長と織部会長が親しい間柄ということもあって多方面で業務提携をしていた。両社の共同プロジェクトも水面下で進行していて、勝もそのプロジェクトに名を連ねていたのだった。

その日彼がオリベ・エンタープライズを訪れたのもその打ち合わせのためだった。

打ち合わせが一通り終わり、廊下へ出てエレベーターに乗り込もうとしたとき、勝は後ろから誰かに呼び止められた。

振り返るとそこに立っていたのは勝の元同僚、蓮海容子だった。

去年まで蓮海容子は勝の会社に勤務していたが、織部に直々に請われてオリベ・エンタープライズに役員待遇で迎えられていたのだった。

容子は勝の同僚だった当時からてきぱきと仕事をこなし、その有能さにはかねてから定評があった。久しぶりに会った彼女は黒光りするエナメルのハイヒールを履き、仕立ての良いグレーのジャケットと対になったタイトスカートに身を包んでいて、いかにも大手IT企業の役員といった雰囲気を漂わせていた。

入社当時、容子には仕事の手ほどきをしてもらった勝だが、どちらかと言えば勝は彼女が苦手だった。

ほっそりとした体型で整った顔立ちの彼女は、その血の気の失せたような色白の顔に表情をはっきり表すことは滅多になく、やや冷たい印象を見る者に与えていた。そのせいか、勝自身も彼女に対しては何となく近寄りがたい印象を抱いていたのだった。

その一方で、三十代後半であるにもかかわらず、二十代と言っても通るような若々しさを保っていたが、そういった特徴もまた彼女のミステリアスな印象を強調するのに一役買っていた。


その蓮海容子が両手で自分の肩を抱くようにして勝に微笑みかけていた。

「話があるのだけれど、少し付き合ってくれないかしら?お手間はとらせないわ」

柔らかな口調ではあるが、その中に有無を言わせぬ硬い芯のようなものを感じ取って勝はややたじろいだ。

この人はいつもこういう感じだったな、などと勝はいまさらのように思った。

「特にこれから急ぎの用事もないですし、お話をうかがわせてもらうことにします」

容子が勝の会社に在籍していた当時、彼女と話すときはどうにもぎこちなく感じるのが常だった勝だが、現在でもそれは変わらなかった。

勝はどのような用向きなのか問いかけるように容子を見つめたが、容子はあえてそれを無視するかのように微笑みをたたえたまま、

「じゃあ、私のオフィスで話しましょうか?こっちよ」

そう言うとくるりと向きを変えて廊下をまっすぐに奥のほうへ歩き出した。

オリベ・エンタープライズ本社は十八階の高層ビルで、彼女の執務室もいままで勝がいた会議室と同じ最上階にあるらしい。

勝は無言で後をついていったが、久しく音沙汰のなかった蓮海容子が自分にいったいどのような用事があるのか、彼にはまったく心当たりがなかった。


役員として遇されている容子の執務室は広々としていて、社長室と言われても信じてしまうくらい豪華なつくりだった。

全面ガラス張りになっている窓際には大きなデスクが置かれていて、その手前には高価そうな応接セットが設置してあり、更に部屋の隅のほうには簡易式のステンレスの流し台があった。流し台のそばの小さなテーブルにはコーヒーセットやグラスの類が置かれていた。

容子は勝に応接セットのソファに座るよううながし、自分は流し台のほうへ向かいつつ、

「コーヒーでも飲みながらお話しましょう。今準備するからちょっと待っていてね」

そう言ってあらかじめ用意してあったらしいコーヒーカップにこれまた準備万端、入れたばかりらしいコーヒーポットから熱いコーヒーを注いだ。勝は革張りのソファに腰かけ、体が半分くらい沈み込んでしまいそうになるのに戸惑いつつ、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの一大IT企業の重役が自らコーヒーを入れてくれるというので恐縮することしきりだった。コーヒー好きの容子は勝と同僚だった頃もよく自分でコーヒーを入れ、勝たちもご馳走になったものだった。喫茶店並みとまでは言えないにしても、厳選したコーヒー豆を使った本格的なコーヒーを勝は密かに楽しみにしていた。容子の移籍が決まった時、一番残念に思ったのはIT知識の豊富なベテランがいなくなることではなく、彼女の入れたコーヒーが飲めなくなることだった。


コーヒーをテーブルに並べ終わると、容子はスカートの裾を手で押さえつつ応接セットの奥側のソファに座り、来客用のソファに収まっている勝と相対する格好になった。勝は居住まいを正して真向かいに座っている容子のほうを見やった。

コーヒーを勝にも勧めつつ自分も一口すすり、ほっと軽く息をついてから、

「南雲君、元気そうで何よりね。いつもあなたの評判は耳にしているわ。金谷社長の覚えもめでたいようね。ひょっとすると、コーチ役がよかったせいかもしれないわね」

そう言って容子はうふふと声を出して笑った。

今日の彼女は冗談を言うほど上機嫌らしい。

勝もつられてあいまいな笑みを浮かべたが、彼女の上機嫌な様子がむしろ嵐の前の静けさのようにも思え、ますます落ち着かない気分になるのだった。

容子は笑顔を浮かべたまま、続いて用件を切り出した。以前と変わらず、彼女の物言いは至極単刀直入だった。

「実はね、南雲君、今日はあなたに、ウチの会社で働く気があるかどうか、それを聞きたかったのよ」

オリベ・エンタープライズで働くだって?この俺が?

久しぶりに会ったと思ったらいきなり移籍話とは。

唐突な容子の提案に勝は戸惑いを覚えた。心を鎮めようとコーヒーカップを手に取り、一口すすると、以前飲んだのと一寸も変わらぬ芳醇な香りが口の中いっぱいに広がった。特定の香りが過去の記憶と強く結びついていることはよくあるが、今の勝もその例に洩れず、容子が入れたコーヒーを飲んでいると彼女が同じ職場で働いていた時の記憶が呼び起されるのだった。

矢継ぎ早に彼女は続けた。

「これは私だけでなくて織部会長ご本人の意向でもあるのよ。会長はあなたの仕事ぶりをとても高く評価していらっしゃるわ」

それを聞いて勝は強く心を動かされた。何といってもオリベ・エンタープライズ会長の織部努は勝にとってあこがれの人だ。

容子に移籍話を持ち掛けられて勝は最初少し不安を覚えたが、織部会長本人が勝の移籍を願っているとなれば話は別だ。勝は有頂天だった。

織部会長に自分の仕事ぶりを認められ、彼の下で働けるとは、これはまたとないチャンスかもしれない。とは言え、今自分が抜けると勝の会社は人繰りがつかなくなってしまう。何しろ少人数の会社だし、ある意味自分が会社の要でもあるので、その点は大いに不安が残る。

それに美織のこともあるし。待てよ?いっそ彼女も同時に移籍することは出来ないだろうか?でも、社長にはなんて説明すればいいのだろうか?

矢継ぎ早にいろいろ考えを巡らせた勝に対して、容子はやや意外なことを口にし始めた。

「最近あなたの会社に入社した伯耆美織さん、あなた、彼女と付き合っているのでしょう?」

容子が突然美織のことを話題にし始めたので戸惑いながらも勝はうなずいた。

「ええ、そのとおりですが、それが何か?」

「彼女の噂は耳にしたことがあると思うのだけれど」

さっきまでとは打って変わって勝の心臓は早鐘のように鳴り始めた。

「噂、ですか?」

そう声を絞り出すのが精一杯だった。たたみ掛けるように容子は言った。

「南雲君、あなた食人鬼の噂は聞いたことあるでしょ?最近頻繁に起きている猟奇殺人事件が実は人間ではなく、人間に化けた食人鬼の仕業だっていう」

「ずいぶんと荒唐無稽な話ですよね。根拠のない都市伝説じゃないですか?」

そう強がって見せはしたが、先日の阿古屋との会見を思い出し、勝は声が震えるのを抑えきれなかった。勝がそう言うと、容子は断定的な口調で言った。

「彼女、食人鬼なのよ」

勝にとって死刑宣告にも等しい容子の言葉だった。

素性の知れない怪しい男、阿古屋だけでなく、旧知の間柄の蓮海容子にまでそう指摘され、勝は奈落の底に突き落とされたような気分だった。阿古屋とは違い、昨日今日知り合った間柄ではないので容子の人となりはよくわかっている。決して根も葉もないことを唐突に言い出すような人間ではなかった。

「噂だけじゃなくて食人鬼は本当に存在するのよ」

勝の気持ちを知ってか知らずか、相変わらず容子は淡々と話し続けた。

「食人鬼のすべてがそうなのかはわからないけれど、彼らは特定の相手をつけ狙うことが多いそうよ。人間なら誰でもいいという訳じゃないみたい。社員の安全にも関わることだし、私たちの会社にはそういった類の情報を収集、分析する部門もあるのよ」

容子はコーヒーカップを手に取り、手でカップの中身を少し揺らせてから一気に飲み干し、空になったカップを皿に置くと、空いた手のひらを軽く合わせるようにして肘をテーブルに乗せ、身を乗り出して更に話を続けた。

「そういった情報収集の過程で彼女の正体に気が付いたというわけなの。ウチの会社の機密事項にもかかわってくるので、その詳しい経緯は今ここで話すわけにはいかないのだけれど、彼女があなたのことを次の獲物として狙っているのは、あらゆる情報から総合的に判断してほぼ間違いないと思うわ。考えてもみなさい、今の会社に彼女が就職したのも少し不自然だと思わない?一流と言われる国立大を卒業した彼女が、こう言っては何だけど、あなた達の会社のような零細企業を就職先にわざわざ選んだのはどうしてかしら?最初からあなた目当てだとしか思えないのよ。そう言われるとあなたにも何となく心当たりはあるでしょう?」

勝は美織に出会ってから今までに起きたことを反芻し始めた。

確かに、容子の説明を過去の経緯と突き合わせるとつじつまの合うことが多いのは事実だった。

美織が数ある一流企業の中からではなく、あえて今の会社を選んだこと、勝が自分の専属コーチになったことをとても喜んでいたこと、それに決定的とも言えるのは、あの食人鬼に食われる恐ろしい悪夢を見始めたのは美織と懇意になった頃からだったという事実。

勝は虫の知らせや正夢などという、科学的に説明できない現象を真に受けるほうではなかったが、あまりにも恐ろしい偶然に思い当たった今、彼の中の理性的な部分は影を潜め、闇におびえる原始人が抱いたような原初的な恐怖の感情が彼の心を支配しつつあった。

ひたひたと忍び寄る得体のしれない恐怖の中で彼は言葉を発することにも困難を感じていた。

それとは別に、もう一つ勝には気になることがあった。

美織の祖父、行方操が勝と面会した時、行方老人は彼を目の当たりにしてひどく安心した様子だったが、勝にはそのことが不可解でならなかった。長年思い悩んでいたことが雲散霧消したような、背負っていた重荷を肩から降ろしてほっとしたような、なんとも言えない表情だったのである。事実、まるでもう思い残すことがなくなったかのようにそのすぐ後に病死している。まるで勝が現れたことで長い間心に重くのしかかっていたものが取り除かれたと言わんばかりの行方老人の表情を、勝は未だにどう理解していいものかわからなかった。

美織がもし食人鬼であるとするなら、あの老人の不可解な様子もなにか関係があるのだろうか?容子は話を続けた。

「実はあなたをウチの会社に引き抜こうとしているのは、あなたの能力を高く評価したのはもちろんのこと、あなたの身の安全も考えたうえでのことなの。今の会社にいる限り、いつ彼女に襲われても不思議はないと思うわ。悪いことは言わないから、美織さんとはきっぱり別れなさい。そしてウチの会社で、織部さんの下で働くのよ。南雲君ほどの実力の持ち主なら、ゆくゆくは重役の椅子も夢ではないわ。あなたさえ決断すれば織部会長が金谷社長に話をつけるから。金谷さんもきっとわかってくれると思うわ」

他に選択肢は残されていないといわんばかりの自信たっぷりな口調で容子は言うのだった。

憔悴しきった勝は数日中に返答をすると答えるのが精一杯だった。

織部の会社を出た勝は自分の会社へ戻らず、金谷社長には電話で体調がすぐれない旨を告げ、そのまま自分のアパートへ帰った。

本当に彼女が食人鬼、なのか?

どこをどう歩いて帰ったのか思い出せないくらい茫然自失の勝だった。

最初から彼女は俺を狙って近づいたというのか?俺はいったいどうすればいい?

勝は以前テレビのドキュメンタリーで見た、花カマキリという昆虫をふと思い出した。

ランの花に擬態してハチをおびき寄せ、餌食にしてしまうというカマキリだが、今や勝の心の中で、後輩の新人女性社員と仲良くなって浮かれていた自分と、自ら花カマキリに近づき、その餌食になった哀れなミツバチとが二重写しになっていた。

彼の苦悩は深まるばかりだった。



オリベ・エンタープライズ本社ビルの最上階にある織部努の執務室には夜遅くまで明かりが灯っていた。


広い執務室の中には会議用のテーブルが置かれていて、小規模の会議ならここで行えるようになっていた。テーブルを囲むのは織部を入れて六人、全員彼の会社の役員たちだったが、役員会議を開いているという様子でもなさそうだった。

終業時刻を過ぎてから六人はもう長いこと議論を続けていたが、話し合いは長引き、いつ終わるとも知れなかった。勝の元同僚の蓮海容子もこの会合に参加していたが、話し合いの半ばからずっと口を閉ざし、沈黙を守っていた。

「蓮海さんのおっしゃることが事実とすれば、彼を説得するのはもはや不可能です。だとすれば会長、我々に残された選択肢はただひとつしかありません。そうではありませんか?」

メンバーの中では比較的若い、黒のTシャツを着た短髪の男が強い口調で織部に迫った。議論はもう長いこと堂々巡りをたどっているらしかった。

「そうあわてるな、犬山。まだ我々には考える時間は残されているし、説得が不可能と決まったわけでもない。今ここで早まった決断をすれば後戻りが出来なくなるのはおまえもわかっているだろう?」

短く刈り込んだあごひげをなでながら黙って耳を傾けていた会長の織部はそうなだめたが、犬山と呼ばれた黒いTシャツの男はそんなことでは収まりそうにない剣幕だった。

「この期に及んでどうしてあなたはそう冷静でいられるのですか?織部会長、確かにあなたの判断はこれまではおおむね正しかったが、今回に限って言えば判断を誤っているとしか私には思えない。ここにいる我々全員の命にもかかわることだと言うのに」

犬山は苛立ちを隠せず、それでもかろうじて自分を抑えつつ織部に反駁した。

若い犬山の隣に座っていた、恰幅の良い中年の男が彼の後を継いで言った。

「犬山の言う通りです、会長。状況は刻一刻、我々にとって不利になりつつあります。あの男とⅩが結託した以上、いつどのような事態が発生しても何ら不思議はないのです。二人を引き離すのが困難である以上、我々の取るべき道はただ一つです。そうではありませんか?」

犬山に比べればずっと落ち着いた口調ではあったが、その深刻な表情は彼らのおかれた状況を如実に表していた。織部は腕組みをしたまま、暫し沈黙を保った。ややあって、彼は言った。

「このまま議論を続けていても埒が明かないので、ここで決を採りたい。強硬手段を取るべきか、それともこのまま推移を見守るか。犬山が言うように、ただちに直接行動を取るべきだと思う者は挙手をしてくれ」

織部がそう言うや否や、当の犬山が真っ先に手をあげた。わずかに遅れて、犬山に賛同していた中年の男、臼木も同様に手をあげたが、挙手したのはこの二人だけだった。

延々と続いた議論にようやく終止符が打たれたのを見てとって、織部はやれやれと言わんばかりの表情で口を開いた。

「これで決まりだな。しばらく様子を見ることにしよう。何度も言うが、まだ時間はある。

拙速な行動こそ命取りになりかねない。犬山、おまえの気持ちはわからんでもないが、くれぐれも自重してくれ。我々はいわば運命共同体なのだから」

そう言い終わると、織部は参加者にねぎらいの言葉をかけ、部屋を出て行った。彼の後を追うように、織部の両どなりに座っていた二人の男たちが続いて立ち去った。二人とも会合のあいだじゅうほとんど沈黙を守っていた。部屋に残された三人、蓮海容子、犬山、臼木は織部たちが出て行った後も暫く無言だったが、最初に沈黙を破ったのは若い犬山だった。

「蓮海さん、あなたどうして挙手してくれなかったんですか?私の意見に賛成だったはずじゃないですか?」

犬山がそう抗議しても、容子は全く表情を変えず、穏やかに言った。

「これは茶番よ。犬山君、よく考えてごらんなさい。たとえ私があなたに賛成しても結局は三対三で決着がつかなかった。あの腰巾着二人は織部さんに逆らうわけがないのだから。そうなれば最後は会長の決断が物を言うわ。でもあなたのいうとおり、このままあの男、南雲勝とⅩを放置していたら取り返しのつかないことになるのは目に見えている」

腰巾着と言うのは織部に従って出て行った二人を指しているらしかった。

「こうなっては実力行使しかないわね。だけど私たち全員が動けばおおごとになる。臼木さん、犬山君、ここはひとつ私に任せてもらえないかしら。南雲勝とⅩ、つまり伯耆美織とを永遠に引き離さない限り私たちに未来はない。織部会長もきっとわかってくれるわ」

容子の静かだが有無を言わせない口調に、犬山と臼木は顔を見合わせ、彼女のほうを向いて恐る恐るうなずいた。二人とも彼女の迫力に圧倒されたようだった。


沈黙する二人を執務室に残し、足早に廊下に出ると蓮海容子は歩きながら低くつぶやいた。

「南雲君、こうなってしまった以上、残念だけど他に方法がないの。私の忠告に耳を貸さないあなたが悪いのよ」

まるで自分に言い聞かせるような彼女の独白だった。



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