第4話 阿古屋

仕事を終えて帰宅する道すがら、勝は背中に人の気配を感じて振り返った。


夜道とは言ってもまだ宵の口で、そこかしこに通行人が歩いているのが目に入った。確かに誰かが自分の後をつけているような気がしたのだが、それらしい人影はどこにも見えなかった。家路を急ぐサラリーマンやOL、道端の郵便ポストに寄りかかって携帯電話で話をしている遊び人風の若い男、外食産業のデリバリー業務らしい自転車の中年男などなど、いたって普通の光景が目の前に広がっていた。

ここ数日間というもの、勝は外出のたびに誰かに監視されているような気がしてならなかった。それなのに立ち止まってあたりを見回してもそれらしい人影は見当たらないのだった。今夜もそうだ。行き交う人々はみな他人を寄せ付けず、自分の殻に閉じこもっていて、誰も勝のことなど気にしていないように見えた。どうにも気が晴れない勝は表通りに面したコーヒーショップに立ち寄って気分転換をはかることにした。店内はやや混雑していたが、勝は窓際に空席を見つけ、そこにぐったりと力なく座り込んだ。しばらくそこでじっとしていると、軽快なBGMと、明るい照明が勝のこわばった心を少しだけ解きほぐしてくれた。周囲で笑いさざめく客たちをしり目に、熱いコーヒーを少しずつ口に含んでどうにか人心地のついた勝だったが、ふと窓の外に目をやると、表通りの向こう側にトレンチコート姿の男がたたずんでいるのが見えた。男はこちらに背を向けていたが、どうやら通りの向かい側の、既に営業を終えて明かりの消えた店舗のショーウインドウを眺めていて、そのガラスに映り込んだこちらの様子を伺っているらしかった。勝がコーヒーカップを手にしたままそちらのほうを凝視していると、男は立てたコートの襟越しにちらりとこちらを一瞥し、そのまま足早に立ち去った。

服装こそ違っていたが、行方老人の葬儀の際に勝たちを監視していたあの長身の男に間違いなかった。ここ数日来、自分を付け回していたのはどうやらあの男だったのだな、勝は瞬時にそう確信した。立ち去り際に一瞬男と目が合ったが、その視線の冷ややかさに勝は身震いがする思いだった。もはや店内のBGMも周囲の客たちの談笑も、得体のしれない恐怖を覚えた勝の耳にはまったく聞こえず、彼はひとり茫然とカップを手にしたまま凍り付いたように固まっていた。


その翌日の夜、仕事を終えて家路を急ぐ勝は何度も後ろを振り返った。昨日と同じく、比較的人通りの多い表通りを歩いていたのだが、どうやら今日は誰も後をつけてこないらしい、そう思ってほっと安堵のため息をついた勝は、前を向いたとたんに全身がこわばって動けなくなってしまった。

目の前には昨日の晩、勝を監視していたあのトレンチコート姿の男が行く手をふさぐようにして立っていた。昨晩と違って氷つくような厳しい視線こそ向けてこなかったが、そのポーカーフェースからは男が何を考えているのかみじんも読み取れず、勝は何とも言えない不気味さを感じたのだった。

「南雲勝君だね?君と少し話がしたいのだが、今、いいかね?」

男は唐突にそう切り出して、名刺を紙入れから取り出し、勝に手渡した。

意外な展開にややあっけにとられながら、勝はどこかの団体のシンボルマークが刷られた名刺の肩書に目を走らせた。


厚生労働省 特定疾病防疫対策室長 阿古屋 仁


名刺にはそう印刷されていた。

名刺の持ち主の名前に見覚えがないのはもちろんだったが、その肩書を見て勝は更に困惑した。名刺のシンボルマークはたぶん厚労省のものなのだろう。もっとも、名刺の偽造なんて造作もないから肩書を額面通りに受け取るわけにもいかない。

男の肩書の真偽は不明だが、特定疾病とやらを担当する政府のお役人が、まるっきり畑違いのIT企業に勤める自分にどんな用事があるのか、困惑しつつも勝は目の前の男に対して好奇心を抱き始めた。それに、葬儀場で自分たちを監視していたこの男がひょっとすると行方老人たちにまつわる謎を説明する手掛かりを与えてくれるかもしれない、そんな事を考え始めた勝が物問いたげに男のほうを見やると、中年男は表情をほとんど変えずに軽くうなずき、

「まあ、これだけでは何のことかわからないだろう。場所を変えて詳しい説明をしよう」

そう言うと、勝をうながすようにあごをしゃくり、足早に歩道を歩きだした。勝は無言で男の後を追った。

男が向かった先は時代に取り残されたような古びたアーケード街の一角の、これまた同様に古びた洋品店の二階にある小さな喫茶店だった。店内には勝の知らないクラシック音楽のBGMが静かに流れていた。やや地味だが落ち着いた感じの店内装飾で、客層も中高年がメインのようだった。窓際の一角がガラスで仕切られていて、どうやらそこが喫煙席となっているらしい。全面禁煙の飲食店しか利用したことのない勝は少しちゅうちょしたが、男が何のためらいもなくそちらへ向かっていくので仕方なく後をついていった。

窓際の表通りに面した席に陣取り、やって来たウエートレスにコーヒーを二人分注文すると、阿古屋は窓越しに通行人の群れを見下ろしつつ、ワイシャツの胸ポケットから煙草のパッケージとライターを取り出し、一本口に咥えて火を点けた。

勝は煙草の銘柄には全く無知だったが、ラクダの絵のデザインを見て、ハリウッド映画に出てくる米兵が同じ柄のパッケージの煙草を吸っていたのを思い出した。

ライターのほうは銀色で細長く、かなり使い込まれた様子で、やや色褪せていて細かい傷があったが、蔓草の模様の彫刻が表面にほどこされており、阿古屋のようなくたびれた中年男にはあまり似つかわしくないような繊細で洒落たデザインだった。


阿古屋はライターをそっとテーブルの上の煙草のパッケージの脇に並べ、火の点いた煙草を一口吸い、横を向いてふっと煙を吐き出してからおもむろに口を開いた。

「南雲君、君は食人鬼について何か聞いたことがあるかね?」

それを聞いて勝はやや拍子抜けした。

政府の役人と名乗る男がどんな真面目な話をするのかと思ったら、いきなり食人鬼とは。

言うまでもなく、彼は今までにも何度かその名前を見たり聞いたりしていた。

最近起こった連続猟奇殺人事件がいわゆる食人鬼によるものであるとする、まことしやかなニュース記事がメディアを賑わせていたが、勝はそれらを三流ジャーナリズムの与太記事だと決めつけていた。事実、それらの記事を子細に検討してみると、ほとんどが荒唐無稽極まりない報道内容ばかりだったのだ。記事の内容はほとんどすべて伝聞から成っていて、あまりにも根拠が薄弱な説得力に乏しいものだったので、勝でなくともそれらの報道内容を真に受ける者はそう多くはなかった。


勝が考えていたのとは別の方向に事態が進行し始め、少し肩の荷が軽くなりはしたが、それと同時に目の前の男がとんでもなくうさん臭く思え始めた。あの名刺も偽造に違いない。新手の詐欺か何かかもしれないが、とにかく話だけは聞いてみよう。

そう勝は考えて軽くうなずき、

「はい。何度か聞いたことはあります」

と簡潔に答え、そのあとは先をうながすように沈黙を守った。

阿古屋と名乗る中年男は勝の腹の中を見透かしたかのように、

「いきなり食人鬼なんぞの話を切り出したのでずいぶん怪しいやつだと思っているだろうが、これも仕事なのでね」

そう言って阿古屋は微笑んだ。

普段は無表情で陰気な感じのする阿古屋だったが、笑うと意外に愛嬌のある顔立ちで、太く長い鼻梁に小じわを浮かべたその表情は、ある種の猟犬を連想させた。

「まずは私の肩書について説明しよう。特定疾病防疫対策室と言う名称は、実は私の本当の任務とはほとんど関係がない。厚労省のホームページを見ると、新型の外来種の伝染病に迅速に対処するため云々と、もっともらしい表向きの業務内容がいろいろ書かれてはいるがね。

まあ、わが国のような民主主義国家では納税者に対してのアリバイ作りは常に不可欠だ。

さもないと、政府を攻撃するのが自分たちの神聖な義務と心得た野党議員やマスメディアから痛くもない腹を探られることになる」

男は煙草をくゆらせながら話をつづけた。

「もともと私は警察官だったのだが、その当時から、食人鬼の仕業とおぼしき殺人事件その他の犯罪捜査に手を染めてきた。現在では警察庁から厚労省に出向する形でその類の犯罪捜査および調査に専念している。ちなみに私たちの任務の詳細については厚労省内部でさえも一部の幹部以外には知られていない。あくまでも極秘の任務と言うわけだ。そういうわけで、君も今回の話は他言無用ということにしてもらいたい」

警察から厚労省への出向?

政府の組織についてはあまり詳しくない勝にとって、あまり要領を得ない阿古屋の話だった。

厚労省の役人が犯罪の捜査?極秘の任務だって?

そういえば麻薬取締官というのは厚労省所属だっけ?

乏しい知識を総動員して、勝はそんなことをぼんやり頭に思い浮かべていた。

彼の話はなおも続いた。

「人食い鬼などというのはフィクションの中にしか登場しないと思うかもしれないが、彼らは確実に存在する。ただ、その正体については、残念ながら我々にも本当のことはわかっていないというのが実情だ。ひとつだけはっきりしているのは、食人鬼は明らかに我々人類とは別種の存在であるということだ。確かに、普通の人間が特殊な状況下で人肉を喰らうケースも過去にはたびたびあったし、歴史をひも解いてみれば以外にも食人の風習自体それほど珍しいものではなかった。つい最近まで、ニューギニアをはじめ南半球の至る所で食人の風習は見られた。

そういった諸々の事実を勘案しても、やはり食人鬼という、我々人類とは別個の独立した種が現に存在しているのは間違いない。単なる食人の習慣と、やむにやまれぬ生理的欲求による食人では歴然とした違いがあるし、我々の捜査の過程においてもそのような食人鬼の存在がはっきり浮き彫りにされている。また、フィクションの世界ではよくあることだが、普通の人間がある日何らかの原因で突然食人鬼になってしまうということは現実にはあり得ない。外見上は我々とほとんど変わらない彼ら食人鬼は普通の人類のふりをして密かに人類社会に潜り込んでいるわけだが、その生態は依然謎が多いのだ。

はるか昔、数十万年前には食人に特化した旧人類が存在していたことが考古学的な調査で確認されているが、現代の食人鬼がその末裔であるということも十分考えられることだ。

当時の人類は類人猿が多少進化した程度の種だったのだろうが、ほかの逃げ足の速い野生動物よりはヒトを捕えるほうがより簡単だったため、それに特化した種が出現したらしい。その特殊な旧人類が生きながらえ、その血統を現代に伝えていると主張する研究者も現に存在する。もし彼らの主張が事実とすれば、本能的に人肉を欲する輩がそこかしこに存在するとしても何ら不思議はないのだよ」

勝にはこんなことを延々と話し続ける男の意図が分からなかったが、それでも黙って男の言うことに耳を傾けていた。一本目の煙草を吸い終わり、二本目に火を点けると阿古屋はふと窓の外に目をやった。

運ばれてきたコーヒーをすすりつつ、勝は阿古屋の様子をそれとなく観察した。

話に疲れ、一休みして一服つけているようにも見えるが、今の阿古屋は何か判断に迷っているように見えた。

銀色のライターは相変わらずきちょうめんに煙草のパッケージの脇に並べられていた。

今度はさっきと逆向きに、勝のほうに底部を向けるように置かれていたので、ライターの表面に刻印されているHAというイニシャルが彼にも見て取れた。

HITOSHI AKOYAか。

少なくとも名刺の名前は偽名ではなさそうだ、と勝はぼんやり思った。

少し逡巡していた阿古屋は勝へ向き直り、

「実は今回の話は、君の彼女、伯耆美織とかかわりがあるのだ」

そう切り出した。

「今の段階では詳しいことは話せないのだが、実は彼女が食人鬼ではないかと疑われる節があるのだよ」

それを聞いて、勝は頭を思いきり殴られたような衝撃を受けた。

美織が食人鬼だって?

阿古屋の話を聞くうちになんとなくこの男を信用する気になりかけていただけに、衝撃はひとしおだった。

茫然とする勝を見てなだめるように阿古屋は、

「もちろん、まだそうと断定したわけではない」

そう付け加えると、さらに説明を続けた。

「いつも彼女のそばにいる君にはそのことについて警告しておく必要があったのでね。君もうすうす気づいていただろうが、我々は久しく、君と彼女を監視下においていた。今のところ彼女が君やほかの人間を襲う気配は感じられないが、用心に越したことはない。また、我々の監視にもおのずと限界はある。そこで君に頼みがある。

彼女の様子をそれとなく観察して、何か変わったことがあればその都度我々に連絡してほしいのだ」

勝は力なくうなずくばかりで、今や声を出す元気もなかった。

阿古屋は勝を気遣うように言った。

「まだ彼女が食人鬼だと決まったわけではない。現にもう長いこと付き合っている君は未だに襲われずにいる。ただ、我々としては万全を期したいのだ。それが仕事なのでね」

そう言い終わると阿古屋は勝に別れを告げ、テーブルに置かれた伝票を手に取ってその場を立ち去った。


アパートに帰る道すがら、勝は阿古屋と名乗る男の言ったことを頭の中で反芻し続けていた。

美織が食人鬼?

明るく快活な彼女の普段の様子からは到底信じられない阿古屋の話だったが、仮に彼女が食人鬼だったとして、彼女が勝や周囲の人間を襲おうとしないのはいったい何故なのか?

あの男はもっともらしい御託を並べていたが、そもそも食人鬼など果たして実在するのか?

自分の部屋に落ち着いて冷静さを取り戻した勝は、やはりあの男のいう事はどうにも信じられない、という結論に達した。阿古屋の意図は謎だが、美織が食人鬼などという化け物のはずはない。それは普段の彼女を見ている自分にはよくわかる。

訳の分からない話を聞かされて気疲れした勝は、その晩はもう何もする気が起きず、早くに床に就いた。

あんな素性の知れない男のいう事を信じるなんて。

こんなおかしな話は一晩ぐっすり眠ってさっさと忘れてしまうに限る。そんなことを考えているうちに勝はいつしか眠り込んでしまった。


その夜、勝は夢を見た。


彼はいつものように、暗闇に覆われた洞窟の中で一人たたずんでいた。

いくつにも枝分かれをした、じめじめした洞窟の中で出口を見つけるべく辺りを見回すと、洞窟の片隅にうずくまっている人影を勝は発見した。

人影がいつもの怪物ではないことに安堵を覚えつつ、なおもよく見るとその人影は別の人物を膝の上に抱きかかえ、その腹部に顔をうずめている。まるで抱きかかえている人物の腹部をゆっくりと嘗め回しているような奇妙な動作だった。勝はその動作に不審を覚えた。

生きているのか死んでいるのか、抱きかかえられたままピクリとも動かない人物は仰向けになり、頭を後ろにのけぞらせていた。その顔に勝は見覚えがあった。いつも見慣れているはずの顔なのに、誰なのかすぐには思い出せなかった。

ふと気がつくと、うずくまっていた人影が顔を上げ、何事か問いかけるようなまなざしでこちらをじっと見ている。不安におののきつつも勝はその人影が誰なのか確かめようと近づいたが、結局そこで目が覚めてしまった。

枕元の目覚まし時計をふと見ると、まだ夜中の二時すぎだった。

今までの悪夢とは違って特にうなされることもなかったが、そこはかとない不気味さをたたえた夢であることには変わりなかった。勝はまた夢の続きを見るのではないかと思い、眠るのが少し怖くなったが、襲ってくる眠気には勝てずにやがて再び眠りにつき、結局夢の続きを見ることもなく朝を迎えた。

充分な休息がとれて爽快な気分の勝は出勤のための身支度をしながら、ふと昨晩の夢のことを思い出したが、もはやその内容もおぼろげにしか記憶していなかった。それどころか、今となっては昨日の阿古屋との会見もなんだか夢の続きのような気がしてくるのだった。

玄関を出て空を見上げると雲一つない快晴だった。テレビのニュース番組の天気予報によると今日は一日中好天に恵まれるらしい。勤務先までは徒歩でもそれほど時間はかからなかったが、勝は通勤にしばしば愛用のオートバイを活用していた。小回りが利き、交通渋滞の影響をさほど受けないオートバイは取引先を回るのにも便利だった。勝はアパートの駐輪場に止めてあったオートバイの防水カバーを取り去り、通路に引っ張り出してからシートにまたがると、おもむろにエンジンを始動させた。暖機運転をしつつヘルメットをかぶると、エンジンの心地よい振動が体全体に伝わってきて、今日も一日頑張ろうという気にさせてくれる。

さわやかな朝の光を全身に浴び、全身に風を感じながらオートバイを疾走させていると勝は心の底から解放感を覚えるのだった。オートバイのステップを踏みしめながら、ふと昨日の阿古屋との会見を思い出し、勝はあの程度の与太話を一時的にせよ信じかけた昨日の自分を𠮟りつけたくなる思いにかられた。


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