第3話 老人

美織の住居は勝のアパートの最寄り駅から電車で三十分ほどの距離のO市内にあった。

上野駅を小さくしたような、古風で荘重な佇まいを誇るO市駅の建物を出ると、道路の幅こそ広々としてはいるが、繫華街と呼ぶには少し寂しい、駅前の閑散とした光景が目の前に広がっていた。規模の差を差し引いたとしても、すぐ隣の街であるにもかかわらず真新しい小綺麗なデパートやオフィスビルが立ち並ぶS市の駅前通りとはかなり趣を異にしていた。

明治時代初期、いち早く建設された鉄道で内陸部の炭鉱から運ばれてきた石炭の積み出しや、肥料の原料として莫大な富を生み出したニシン漁などで栄え、その発展にともなって中央銀行の支店も開設されるなど、元々はその充実した港湾施設を基盤とした地域経済の中心として長年機能していたO市だったが、相次ぐ炭鉱の閉山や乱獲に伴うニシンの不漁などもあって、二十世紀半ば以降は久しくその役割を内陸部にあるこの地域の中核都市、S市に奪われていた。すでにその役目を終え、道路を拡張するための用地として再利用するために埋め立てが決まっていた古い運河が市民の反対の声を受けて一転存続されることになって以来、O市は観光都市としての再出発を果たす事となった。明治・大正時代から昭和初期にかけて建てられた各種の古い建築物やガラス工芸品、新鮮な海産物、地元産の乳製品や農産物を原材料とした洋菓子、観光客・地元民双方に好評を博しているグルメ・スポットなど、その豊かな観光資源が今や全国的に脚光を浴びているO市ではあったが、観光シーズン到来前のこの時期には過疎に悩む地方都市の素顔をのぞかせていた。

週末だと言うのに道行く人のまばらな駅前通りを勝と美織はしばらく歩いていたが、やがて前方に、小高い丘の上にある住宅地が見えて来た。

「あの丘の上に住んでいるのよ。ちょっと急な坂が続くけど頑張ってついてきてね」

美織は丘のほうを指さし、そう言ってにっこり笑うと、住宅地に続く坂道を先頭に立ってどんどん進んで行った。勝は子供のころ何度か海水浴のためにこの街を訪れたことはあったが、実際のところ駅周辺の地理でさえまったく不案内で、それほどなじみのある街とは言えなかった。平野部の多い、現代的な雰囲気のS市で生まれ育った勝は、ずいぶんと趣の違うO市内の様子に、ある種の戸惑いさえ覚えていた。

美織はときおり勝のほうを振り返りながら更に上へと登って行く。雲ひとつない青空の下、勝は額ににじんだ汗をハンカチで拭きながら丘の中腹でふと立ち止まり、青黒い海の向こうの水平線のあたりに見える白い大きな船をまぶしそうに凝視していた。あの船はこちらにむかっているのだろうか、それともやがて水平線のかなたに消えてしまうのだろうか?そんなことを考えながら、動いているのか止まっているのか判然としない船影をしばらくの間ぼんやり見下ろしていたが、美織はそんな勝にお構いなしに急な斜面を元気よく登って行く。置いてけぼりを食いそうになった勝は慌てて彼女の後を追った。古い家々が立ち並ぶ坂道をしばらく歩いていくと、ひときわ古びてはいるがよく手入れされた立派な門構えの邸宅の前で美織は立ち止った。

「ここよ」

そう言って後ろを歩いていた勝のほうへ振り向き、彼女は白い歯を見せた。

ここに至るまで手入れの行き届いた生垣の横をしばらく歩いたが、どうやら生垣で囲まれた敷地全体が美織の住居らしかった。美織からは事前にどんな家に住んでいるかについては何も聞いておらず、二人暮らしにふさわしい規模のマンションか何かに住んでいるのだろうとばかり思っていた勝は目の前の大邸宅に度肝を抜かれた。

美織は驚きを隠せない勝にもまるで無頓着な様子でさっさと門をくぐり、歩幅に合わせて置かれた四角い敷石の上を軽やかに歩いて玄関に向かい、建物の中に入ると、長い廊下のずっと奥にある部屋の前で立ち止まり、ドアを軽くノックした。

「お入り」

という、ややしわがれた声が部屋の中から聞こえた。美織の後から老人の寝室らしい部屋に入った勝は、ベッドの上の人影と、その脇の椅子に座っている人影に気が付いた。

窓からは晩春の午後の暖かな日差しが入り込み、部屋の中の人物が逆光で少し見分けにくい。部屋に入って数秒間、ようやく室内の様子に目が慣れた勝はベッドの上にいる老人が美織の祖父で、脇に座っている老婦人が付き添いの看護師なのだろうと見当をつけた。

壁に掛けられた年代物の大きな振り子時計や作り付けの書棚に並んだ古い洋書、ベッドのわきのアンティーク調のテーブルや椅子など、レトロな感じの室内装飾のせいもあって、この部屋だけ時間が止まっているような、そんな印象を勝は老人たちから受けた。すると、それまで黙って微笑みをたたえていた老人が勝に声をかけた。

「南雲勝君だね。美織から君のことは聞いているよ。さあ、そこの椅子に掛けてくれ給え」

ほとんど寝たきりの老人にしては快活な口調でそううながすのだった。

老人の世話をしていた看護師の老婦人はしばらく美織たちと世間話をした後、

「それじゃ私はこれで失礼しますね。お大事にね、操さん」

そう老人に告げると、勝と美織に会釈して部屋を出て行った。

後を追いかけるように美織が玄関先まで彼女を見送った。

老人と看護師はかなり長い付き合いらしく、互いに寄り添って仲睦まじくしている様子は本当の夫婦と見間違うばかりだった。


老人の名は行方操といい、美織の母方の祖父とのことだった。

海運業で財を成し、現在では引退して事業からも完全に手を引いているそうだが、広々とした豪華な邸宅での暮らしぶりや、通いの看護師に日常的に面倒を見てもらっていることなどからも、相当な資産家らしいことは勝にも容易に想像がついた。やや長めの白髪を後ろになでつけ、彫の深い細おもての上品な顔立ちで、あごには短いひげをたくわえていた。勝の印象では、あまり美織に似ているようには思えなかったが、強いて言えば美織と同じ明るい鳶色の瞳をしているのが共通点と言えなくもなかった。やや人見知りする傾向のある勝は、もし行方老人がテレビドラマに出てくるような頑固爺さんだったらどうしよう、などと会う前から一抹の不安を抱えていたのだが、老人が一見して温厚な人物なのを知り、内心ほっとしていた。それどころか、まるで久しぶりに会う実の孫を歓待するかのような老人の上機嫌ぶりにむしろ少し戸惑いさえおぼえた。

常に微笑みを絶やさず、穏やかに語る行方老人だったが、その顔に刻まれた深いしわは彼の長い人生での苦労を雄弁に物語っているようだった。一代で事業を立ち上げ、苦心の末、かなりの規模にまで育て上げたのだろうからそれもある意味当然と言えた。老人は会社での美織の仕事ぶりなどを聞きたがり、勝がそれに答えて話してやると目を細め、しきりにうなずいて勝の話に熱心に聞き入るのだった。すでに事業を人手に渡してその方面への関心も薄れてしまったのか、老人は自身の経営していた海運業についてはあまり語ろうとしなかった。


なごやかな雰囲気の中で三人はひとしきり雑談に興じていたが、ふと話題が途切れた時、それまでにこやかだった行方老人は急に真顔になり勝に語り掛けた。

「南雲君、君も知っての通り、美織は早くに両親と死別して私のほかには身寄りもいない。

かくいう私もご覧の通り一人では満足に動き回ることすらままならない身だ。多分もう先行き長くはないだろう。そこで私から君にお願いがある。美織のことだ。私が死んだあとは私の代わりに彼女の面倒を見てやってほしいのだ。君の都合も考えず、勝手な言い分なのは重々承知しているが、私としては彼女がふびんでならないのだ。どうだろう、私の願い、聞いてはくれないだろうか?」

勝は突然の老人の懇願にすっかり困惑してしまった。

今日会ったばかりの自分に、何故そうまでして孫娘の美織のことを託そうとするのだろうか?

すがるような眼差しで真剣に語り掛けてくる老人の真意が、勝にはどうしてもわからなかった。

確かに老人の死後、美織は天涯孤独となるのかもしれない。が、たとえそうであっても彼女はもはや保護の必要な未成年ではない。まだ新入社員とは言え、自分の食い扶持は自分で稼げる成人だし、ゆくゆくは老人の少なからぬ額の遺産を相続するはずだろうから金銭面での心配は露ほどもないはずだ。それとも何か自分の知らない事情でもあるのだろうか?

勝は考えれば考えるほど老人の言い分が理解できなかった。

美織が見かねて勝に助け舟を出すように言った。

「お爺ちゃん、勝さんが困っているじゃない。私のことなら大丈夫よ。そんなに心配しなくても万事うまくいくわよ。私だってもう子供じゃないのだから」

そう言うと美織は老人をなだめるように微笑みながらしきりにうなずいて見せた。その微笑みは勝にはどことなくぎこちなく見えたが、老人がこの話題を持ち出すのを美織は前もって予期していたようにも見えた。ひょっとして美織と行方老人はこのことを今まで何度も話し合っていたのではないだろうか?その場を取りつくろうような美織の態度を見て勝はそう感じたが、仮にそうであったとしてもやはり老人の懇願の真意は勝にとって依然謎だった。

「そうだったね、美織。南雲君、勝手なことを言ってすまなかった。だが、君がずっと美織のそばについていてくれれば私にとってこれほど心休まることもないのだ。そのことだけはどうかわかって欲しい」

老人は美織になだめられて我に返ったように、最前までのにこやかな表情に戻って勝に詫びるのだった。

「行方さん、あなたがそうまでおっしゃるなら何とかご期待に沿うようにしたいと思いますが、これは私の一存では決められません。美織さんの気持ちも考えてあげないと」

「美織なら何の問題もない。彼女はすでに君のことをかけがえのない人と思っているよ。そうだな、美織?」

老人がそう問いかけると当の美織は目を泳がせ、頬を赤らめて何やら口ごもるのだった。いつもの快活さはすっかり影をひそめ、しきりに恥ずかしがっているあたり、老人の指摘は図星らしかった。

勝は美織のそんな様子を見て少し背中がこそばゆく感じた。

美織が自分のことを憎からず思っているらしいのを目の当たりにしてうれしく感じた勝だったが、その反面、何か腑に落ちない思いを禁じ得なかった。彼女との距離が急接近したのはつい昨晩のことだ。それ以前から美織は老人に自分のことを事細かに話していたのだろうか?

あくまで職場の先輩の一人でしかなかった自分のことを?

会話が途切れ、気まずい沈黙が一瞬ただよったが、美織がふと思いついたように、

「そうだ、勝さん、夕食一緒に食べていかない?私が用意するけど勝さんも手伝ってくれると嬉しいわ。お爺ちゃんは居間で待っていて。そうそう、食事と言えばお爺ちゃん、昨日の晩は勝さんにステーキをおごってもらったのよ。とってもおいしかった!この近くにもおいしいお店があるから今度三人で行ってみましょうよ。ね?」

「おや、そうだったのか。南雲君すまないね。でも、私は歯が丈夫じゃないからステーキは…」

「ゆっくり噛めば大丈夫よ!ほら、坂を下りた交差点の向こうにあるお店、あそこのお肉、とっても柔らかくておいしいのよ。でもたしかハンバーグステーキもメニューにあったからお爺ちゃんはそっちでもいいかもね。私、どっちも大好物!」

「おいおい、両方注文するつもりかい?」

と勝が突っ込みを入れる。

「まさか!でもいざお店に行ったらどっちがいいか迷うわよね。困ったわ、うふふ」

そんな美織につられて勝も行方老人も思わず笑いだしてしまった。

釈然としない思いを引きずっていた勝だったが、子供のようにはしゃぐ美織を見ているうちにそんな事もいつしか忘れてしまうのだった。


くつろいだ雰囲気の中、美織たちと共に夕食を堪能した勝はあたりがすっかり暗くなってから二人の住む邸宅を後にした。

美織は彼を駅まで送っていくと言って聞かなかったが、老人をひとりにさせるのも悪いと思った勝はそれを断って二人に別れを告げた。不服そうな面持ちの美織と玄関の外で別れ、ひとりになると、先ほどの釈然としない思いがよみがえってきて再び勝を悩ませた。勝と出会った時の老人のこのうえない上機嫌ぶりも、今改めて思い起こすと来客を歓待する以上の意味がこめられていたように感じられてならない。そしてその後、一転して真剣な表情になった行方老人。あの懇願の裏にはやはり何か重大な秘密が隠されているような気がしてならなかったが、それを突き止める手掛かりが何もない以上、あれこれ考えても仕方ない事だった。

勝は肩をすくめ、予定の決まっていない明日の日曜日は何をして過ごそうか、などと考えながら暗い夜道を最寄り駅に向かってとぼとぼと歩き出した。


行方操老人が急死した、という美織からのメールを勝が受け取ったのはそれからわずか二週間後のことだった。葬儀の準備のため急きょ会社を休むことにした美織だったが、勝が受け取ったメールの文面からも、その落胆した様子がありありとうかがえた。

先日初めて会ったときはあんなに元気そうだったのに…。

あまりに突然の事に茫然とする勝だった。

それと同時に、老人と初めて言葉を交わした時の、心の底からほっとしたような満面の笑み、それとは対照的な、美織を自分に託そうと懇願するときの真剣な表情が再び彼の脳裏によみがえってきて、もはや老人の真意を確かめることもかなわないことに思い至り、あらためて愕然とするのだった。

葬儀は故人の生前の意向に沿ったやり方で執り行われ、勝と美織のほかには老人が創業した海運会社の経営陣数名が列席するのみの、密葬と言ってもいいようなささやかなものだった。

勝は葬儀の合間に、老人の真意についていっそのこと美織本人に問いただそうかとも思ったが、美織が老人の死に打ちひしがれ、深い悲しみに沈んでいるのを目の当たりにし、とりあえずはこのことに関してしばらくは沈黙を保つことに決めたのだった。


葬儀がとどこおりなく終わった後、勝は美織を自宅までタクシーで送ることにした。

タクシーでO市内の葬儀場の敷地を出ると道端に一台の乗用車が止まっていて、勝が何気なくそちらへ目をやると、車に寄りかかって煙草を吸っている男に目が止まった。長身でやせ型、黒ずくめのその男は何気ない風を装ってたたずんでいたが、勝と目が合うとすぐに目線をはずした。その不自然な態度を見て、この男はどうやら自分たちを見張っていたらしいと勝は直感した。眉間に深いしわを刻んだその黒装束の男は、まるで欧米の映画に出てくる死神のように不吉な雰囲気をただよわせていた。ふと美織のほうを見ると、男のことなど全く意に介さない様子で別の方向を向いていた。どうやら美織の知った顔ではないようだったが、となるとあの男はいったい誰なのか?

その時、勝の胸の中に、行方老人に会ったときに感じた疑問がまざまざとよみがえってきた。あの老人は自分の過去についてはほとんど語らなかったが、それは何故だろう?

そして勝に美織を託そうと懇願した時のあの不可解な態度。ひょっとするとあの男も、そういった行方老人の過去や、美織にまつわる謎と関係があるのかもしれない。

勝はそう思い始めたが、行方老人が亡くなった今となっては、その謎を突き止めるためには美織の協力が何としても必要だった。そう思って美織の様子をうかがったが、先ほどまで車の窓ごしに外を眺めていた美織は、今度は物思いにふけるように黙って下を向いていた。沈黙を続ける美織の横顔を眺めながら勝は途方に暮れ、思わずため息を漏らした。



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