第2話 邂逅
南雲勝は退屈な日常に飽き飽きしていた。
来る日も来る日も同じ仕事、同じ日常の繰り返し。「俺をどこか別の世界へ連れて行ってくれ!」そう心の中で叫び続けていた勝だったが、丁度そんな時、彼の目の前に現れたのが彼女だった。
勝の願い通り、彼をどこか別の世界にいざなうために。
勝が今の会社に勤め始めてすでに五年が経っていた。彼の勤める小規模な会社では、かなり以前から経費削減の一環として清掃作業を委託業者に頼ることなく社員一同が自主的にオフィス内を清掃することになっていたが、唯一の女性社員が去年職を辞して以来、今や完全に男所帯となったオフィスはカップラーメンの空き容器や読み古した男性雑誌、果てはパンツやシャツといった下着類などありとあらゆるものが散乱する殺風景な有様で、華やか、繊細、秩序などと言う言葉とは無縁な、ある意味では勝と彼の同僚たちにとって居心地の良い空間となっていた。
そんなある時、勝は社長から、新卒の社員が近々会社に合流することになったと告げられた。去年の秋口だったか、新人採用のための合同会社説明会なるものに社長と経理担当の社員が参加していたとは聞いていたが、まさか実際に内定を出していたとは、勝にとってはまったく寝耳に水の出来事だった。ひょっとすると社長自身、内定は出したものの本当にわが社に来てくれるとは思っていなかったのかも知れない、新人の入社を直前に知らされた勝はそんなことを考えていた。
彼の勤務する会社は社員十人にも満たない零細企業だったが、勝も含めて全員中途採用組で、創業までさかのぼっても新卒の社員を採用した実績はほぼ皆無だった。会社の規模が規模だし、自転車操業が日常の我が社で経験ゼロの新人を採用して、仕事をしながら実践的なスキルをじっくり身に着けさせる余裕なんてあるわけがない、そう勝手に思い込んでいた勝にとって、新卒社員の話はまさに青天のへきれきだった。
さらに驚かされたのは、どうもその新人が四年制大学卒の女性らしいという事実だった。某有名国立大にストレートで合格したらしいが、そんな、いわばエリートの新人女性社員が、勝の会社のようなむさくるしい男所帯の零細企業の水に合うのだろうか?ほかにも優良企業を自由に選べたはずなのに、なぜ、よりにもよってウチを選んだ?勝の疑問は尽きなかった。
そうこうしているうち、やがて新入社員の初出社の日がやって来た。
社長から社員一同に紹介された彼女、伯耆美織は快活そのものの親しみやすい雰囲気を備えた女性だった。地味な紺のジャケットとパンツに黒のパンプス、細いストライプのブラウスといった、実用性重視のいかにも新卒社員らしい服装に身を包んでいた美織だが、何と言っても勝の目を引いたのは彼女の美貌だった。彫の深い端正な顔立ち、色白できめの細かい肌、すらりと伸びた手足など、古い欧米の映画に出てくる女優のような古典的美女とも言える端正な容貌に恵まれていた美織は、ウエーブのかかった栗色の艶やかな髪を肩までの高さに切り揃えていて、その前髪が卵型の形の良い額に斜めに覆いかぶさっているのがどことなく活動的な印象を周囲に与えていた。明るい鳶色の大きな瞳が特に印象的だったが、ニコッと笑うと、下がり気味の目尻がより一層垂れ下がるのがなんとも可愛らしかった。現金なもので、美織が入社して以降、誰が言い出すともなく乱雑を極めていたオフィスの整理整頓が行われ始め、知らず知らずのうちに勝たちのオフィスは以前のような秩序を取り戻していた。
大学受験に失敗し、こと志に反してコンピューター関連の専門学校へ進学する羽目になった過去を持つ勝は、性別を問わず有名大学卒の人間全般に対して人知れぬコンプレックスを抱いていた。学歴を鼻にかけるイケ好かない女が入社して来たらどうしよう、などという彼の心配はどうやら杞憂だったらしい。
美織が入社してまもなく、社長の鶴の一声で、勝は美織の専属コーチを仰せつかることとなった。IT関連の情報を取り扱うのが主な業務の彼の会社で、一番年下の勝が最もITの専門知識に長じていた。むしろ業務の専門性をかんがみると、彼は社内で唯一専門的なIT知識の持ち主であると言っても過言ではなかった。勝と同じコンピューター・プログラマーで、創業当時から在籍していたベテラン女性社員が去年他社に引き抜かれるかたちで移籍してからというもの、社内随一のIT専門家としての彼の責任は相当重いものとなっていたのである。
快活で人懐こい性格の故か、美織はほどなく新しい職場に溶け込んだ。ITの専門知識を社長に見込まれた勝が自分の専属指南役に任命されたことを美織は心なしかとても喜んでいるように見えた。もっとも、年長の男性社員たちの月並みな冗談にも声をあげてさも面白そうに笑う美織のことだから、常に楽しそうに振る舞うのは彼女の持って生まれた性格から来るものなのかも知れなかった。異性としての美織を全く意識しない勝ではなかったが、彼女に早く仕事を覚えてもらって一人前にするのが彼の目下の最重要任務なので、二人の仲は暫くの間は気の置けない先輩後輩の間柄以上のものには発展しなかった。
そんなある日のこと、終業時刻が過ぎた後に勝は美織の業務習熟に付き合わされることになった。
仕事を覚えるのにことさら熱心な美織は、最近導入されたばかりの業務用新型ソフトウェアの操作方法を勝から教わりたいらしい。金曜日とはいえ、早く家に帰っても特にやることもないし、それに誰もいないオフィスで美織と二人きりになれるから、という不純な動機も相まって、勝は二つ返事で彼女の頼みを引き受けた。
勝たちの会社のオフィスはS市の中心街からやや西寄りの老朽化が進んだ繫華街にあり、その中でも築年数四十年以上と、ひときわ古い雑居ビルの三階にあった。
周囲の老朽ビル群が再開発目的で次々に取り壊される中、勝の会社が居を構える雑居ビルは建てられた当時の高度経済成長期の空気を今に伝えていて、ある意味貴重な文化遺産とも言うべき存在となっていた。八階建てのビルの中にはすでにテナントは数えるほどしか残っておらず、人の気配が昼間でもほとんど感じられない、赤さびやコンクリートのひび割れの目立つビルは、夜になると幽霊屋敷さながらの様相を呈していた。
ビルの全盛期だった八十年代当時、正面玄関と地下駐車場に通ずる裏口には警備員が交代制で一日中常駐していたが、それもバブル崩壊後、ビル経営者にとって喫緊の課題となった経費削減のあおりを食ってすべて廃止されて久しかった。
だだっ広いだけで車もまばらにしか止まっていない地下駐車場は今や外部から容易に侵入できるため近隣の路上生活者のねぐらと化し、治安・衛生環境の悪化は深刻な問題だった。また、ただでさえ各階のトイレが男女兼用という二十一世紀にあるまじき時代遅れの構造なのに加え、最近では建物の老朽化によるトイレや水道周りなどのトラブルが頻発し、他のテナントが次々に撤退していく中、創業以来同じ場所にあり続けた勝の会社は賃料の安さという経済的な理由だけでそこに居座り続けるべきなのか否か、再考すべき時に来ていた。
時折オフィスビルのすぐとなりの高架を通過する列車のすさまじい騒音に悩まされつつも、勝の指導の下、今や職場の誰もが認める優秀な生徒の美織は習熟作業に熱中した。二時間ほど操作の習熟に付き合った後、そろそろ潮時とばかりに帰り支度を始めた勝は美織を食事に誘うことにした。評判のステーキハウスが近くにあるのでそこはどうかと水を向けると、
「え?先輩おごってくれるんですか?有難うございます!私ステーキ大好物なんですよ!」
おそらく嫌とは言わないだろうとは思っていたが、彼女の予想以上にポジティブな反応は勝を少しびっくりさせた。美織はよほど肉が好きらしい。
オフィスから徒歩で五分ほどの距離にあるそのステーキハウスは比較的小さな店構えで、洋風居酒屋といった感じの作りだった。週末ということもあって狭い店内はほぼ満席で、テーブルが空くまで少々待たなければならなかった。
中年の男性店主とその細君らしい同年代の女性の二人で店を切り盛りしていて、調理と給仕を交互に担当しつつ客の要望にてきぱきと応えていたが、長年連れ添った夫婦らしい、息の合ったチームプレーはなかなかの見ものだった。待っている間、店内で点けっぱなしのテレビからニュース映像が流れていた。最近発生したばかりで物議をかもした猟奇殺人事件の続報らしかった。数日前に老夫婦二人がS市内の自宅で何者かに惨殺され、死体がまるで捕食動物にでも食い荒らされたかのようにひどく損傷していたという報道は勝も耳にしていたが、依然犯人の手掛かりはつかめていないらしい。
やがてテーブルに案内され、二人はステーキと赤ワインに舌鼓を打った。
勝の注文はミディアム、美織が頼んだのは血がしたたるようなレアのステーキだった。どうにも血生臭いテレビのニュースを聞いた直後ではあったが、若い二人の食欲はそんな事にはお構いなしに俄然旺盛で、香ばしいソースのかかった柔らかい肉をぱくついてはにっこりうなずき合うのだった。
二人は食事を楽しみつつ、料理を運んできた男性店主の噂話を始めた。
なにしろ個性的な風貌の店主だった。年の頃は四十代半ば、カーキのタンクトップの上から迷彩柄のエプロンを着け、むき出しの両腕はドクロをあしらった欧米風のタトゥーで覆われている。頭には黒いバンダナを巻き、浅黒い顔にギョロ目、更にその下の口ひげは奇妙な形に剃り分けていて、その姿は、眼帯がないのを別にすれば家庭用ゲームでお馴染みの海賊フィギュアをほうふつとさせた。
食べ終わって帰る道すがら、ほろ酔い加減の二人は大盛り上がりだった。勝が海賊の真似をしてぴょんと飛び上がり、それを見た美織はぷっと噴き出す。美織が入社して一か月半ほど経つが、今晩のデートで二人の距離は一気に縮まった。
勝は美織と二人で大笑いしながら、内心ステーキハウスの店主に感謝していた。
翌朝遅く、勝はひどい悪夢にうなされつつ目が覚めた。
人食い鬼に生きながら食われる夢だった。
夢の中で、勝は闇に包まれた洞窟の中をひとりさまよっていた。
じめじめした洞窟の中はいくつにも枝分かれしていて、勝はそこから何とかして抜け出そうと歩き回るのだが、どの方向に進めば出口にたどり着けるのかまったく見当がつかない。
物音ひとつしない暗闇の中を不安と恐怖におののきながらとぼとぼ歩いていると、前方に人影らしきものがうごめいていた。その姿を見極めようと更に近づいてみると、それは人間ではなく、見たこともない異形の怪物だった。
暗闇の中ではあったが、勝はその奇怪で醜悪な姿をはっきり視認することができた。
また、初めて見る姿にも関わらず、勝にはなぜかそれが人食い鬼であると感覚的に理解できるのであった。勝は恐怖と絶望にさいなまれつつ鬼から逃げ回るが、ついには捕まって鬼の餌食になる、という救いようのない結末をもって夢は終わりを告げた。
それにもかかわらず、なぜか捕えられて食われる間際にはそれまでと打って変わって心落ち着き、安らかな気分になっているという、いわく言い難い不可思議な夢だったのである。
勝が横たわるソファのわきでは下着姿の美織がひどく心配そうな表情で様子を伺っていた。
昨晩、ワインを少々飲み過ぎた美織は結局オフィスからほど近い勝のアパートに泊まることにしたのだった。勝は美織に一つしかないベッドを使わせ、自分は居間のソファで寝たのだったが、悪夢を見たのは慣れない場所で寝たせいだろうかと考えたりもした。
まだ少し夢うつつの勝が美織と目を合わせると、彼女はほっとした様子でにっこり笑った。
「ずっとうなされていたのよ。少し怖かったから起こそうかどうしようか迷ったけど、ひょっとするとこのまま目が覚めないのかと思ったわ。目が覚めてホント良かった」
美織のやや大げさな表現を耳にして、ずいぶん心配性なんだなと勝は内心苦笑したが、その一方で美織がそこまで自分のことを気にかけてくれているのだと思うとまんざら悪い気はしなかった。
勝が目を覚ましたのを見ても、なおも美織はその明るい鳶色の瞳で勝をじっと見つめていた。彼はなぜか急にめまいを覚え、あわてて目をそらし、息を大きく吸い込んだ。なぜそうしたのか勝にもよくわからなかったが、彼女の瞳を見続けていると、ふとその中に吸い込まれてしまいそうな不思議な錯覚を覚えたのだった。今までに一度として味わったことのない、なんとも言えない奇妙な体験ではあった。
めまいはたぶん変な悪夢が尾を引いていたせいだろう。
勝は勝手にそう結論付け、それっきりそのことは忘れてしまった。
ふと時計を見るともう十時を回っていた。
たとえ休日であっても、朝は早めに起きて一日を有効に使うのが好きな勝はほぞを噛んだ。
もっとも、美織が勝の部屋に泊まったこと自体想定外のことでもあり、そもそも週末の予定も特に決まっていなかったのだからそう落胆するほどのものでもなかった。勝はまだ美織が自分の身近にいるという事実をあまり現実の事としてとらえられていなかったのだった。
「おなかすいたでしょ?すぐに朝ごはんの用意するわね」
いつの間にかキッチンに向かっていた美織は、せわしなく冷蔵庫を開け閉めしながら勝のほうに向かってそう告げた。
きちょうめんな勝は普段から台所まわりもきちんと整頓しているので、初めて彼のアパートを訪れた美織にも、何がどこにあるのか聞かずともすぐにわかったようだった。
十分ほど経って、食卓に綺麗に並んだオレンジジュースのグラス二つと、二人分の食器類の上に目玉焼き、焼き目のついたソーセージ、トースト、一口大に切ったトマトが乗っているのを見た勝はうーんとうなった。見慣れた冷蔵庫の中の食材が、他人の手で調理されるとこうも見違えたものになるとはまったく予想だにしなかった勝だった。
普段の孤独で殺風景な朝食とは大違いだった。
「コーヒー飲むでしょ?今入れるから、先に食べててくれる?」
そう美織にうながされて勝は食卓の椅子に座った。
昨日の今日なので、やや気まずい思いを隠せずに勝は美織のほうをちらりと見やったが、下着の上から勝の大きめのTシャツを着こんで鼻歌など歌いながらコーヒーを入れる彼女にはいつもと変わった様子は見られなかった。
食事が終わった後、勝は所在無げに居間のパソコンでネットサーフィンをしていた。
例の猟奇殺人事件の続報がネット上をにぎわせていたが、その他は特にめぼしいニュースもないなと思ったその時、大手ポータルサイトのウェブ記事に見覚えのある顔を発見した。
「いかにして共生社会を実現するか?新進気鋭の若きIT実業家、今後の展望を語る」
そんなタイトルの、いかにも週末の朝にふさわしいインタビュー記事で、記事に添えられた写真でにっこり微笑んでいるのは、オリベ・エンタープライズの最高経営責任者で勝の会社の創業者でもある織部努その人だった。巨大IT企業の総帥、織部は今やその絶頂を極め、わが世の春を謳歌していた。
インタビュー記事の中で、織部は我々自身の生活水準の向上のみに目を向けることなく、持続可能な共生社会をいかにして建設するか、また、人類社会の発展に伴う地球上の他の生物の生活環境の悪化という現実を我々人類は常に直視しなければならない、等といった持論を滔々と語っていた。一企業人として目先の利益ばかりにとらわれない、常に広い視野を持って行動する理想主義者らしいコメントの数々がそこには掲載されており、織部という人物に対して一般大衆の好感度が高いだけでなく、彼が知識人たちからも熱狂的な支持を受けているのがうなずけるような内容のインタビュー記事だった。
食事のあとシャワーを浴びていた美織がいつの間にか戻ってきていて、気が付くと勝の肩越しにウェブ記事の写真を無言でじっと眺めていた。むしろにらんでいると言ってもいいような厳しさを含んだ表情だった。いつもと少し様子が違うのをいぶかしく思いつつ、その場を取り繕うように勝は言った。
「ほら、ウチの会社を立ち上げた人、織部さんだよ、織部努さん」
「知ってる。とっても飽きっぽい人なんでしょ?会社を立ち上げたあと、すぐ出て行ったそうじゃない?」
あからさまな反感を隠そうともせず、美織はそう答えた。
美織は織部に対してあまり良い印象を抱いていないらしい。
飽きっぽいと言えば確かにそのとおりだな、そう勝は思った。
美織の言う通り、織部は、勝たちが現在所属している会社を立ち上げて、その成長を待たずにわずか数年後には別の会社、オリベ・エンタープライズを新たに起こしたのだった。新しい会社が急成長を遂げるとともに、織部は時代の寵児となった。利潤の追求だけでなく、常に環境問題、自然保護などを視野に入れて行動する織部努はやがて大衆に熱狂的に支持されるようになり、本人は常に否定してはいたが、今や政界進出の噂さえあちこちでささやかれていた。その一方で、識者たちはこぞって織部のことを時代の旗手、現代日本の閉塞状況を打破する救世主、などと、あらゆる誉め言葉を駆使してもてはやした。また、中央政界の有力政治家たちは与野党を問わず、織部との交際を先を争って求めていたが、そうした動きを見る限り、政界進出の噂はまんざらでたらめとも思えなかった。
現在ではオリベ・エンタープライズの最高経営責任者として辣腕をふるっている織部とはいっしょに仕事をしたことのない勝だったが、そもそもコンピューター・プログラマーとして他の会社で研さんを積んでいた勝が現在の会社に転職したのも、業務内容はともかくとして、あの織部が創業した会社だから、というのが大きな理由だった。
若きIT業界の雄・織部は勝にとってあこがれの存在だった。
とはいえ、ゴールデンタイムのテレビ番組のスポンサーとしてCMをばんばん流し、子供でも名前を知っているオリベ・エンタープライズと、織部が無名時代に立ち上げた勝のささやかな会社とを比較すると、巨人と小人ほどの格差が厳然として存在したのもまた紛れもない事実だった。
「この人、ウチの社長より年上なんだぜ?」
勝がそう言うと、
「へえー、そうなんだ?」
美織はそう答えながら、いかにも意外だと言わんばかりに大きな瞳をぱちくりさせた。
そんな美織の様子を見て、無理もない、どう見てもウチの社長のほうが年上に見えるからね、と、内心苦笑する勝だった。勝は若々しい織部の姿と、齢四十五にして既に見事なはげ頭の持ち主である現社長、金谷勘吉の顔を頭の中で比較した。
すらりとした長身の織部は色白で端正な容貌に恵まれ、特に女性に絶大な人気があった。小ぶりな顔の輪郭を強調するかのように短く刈り込んだ洒落たあごひげ、黒のロールネックセーターとスリムのジーンズ、無造作に羽織ったウールのジャケットがトレードマークの織部は、まさに現代のヤング・エグゼクティブを具現化したような人物だった。
それとは対照的に、現社長の「柑橘様」こと金谷勘吉の風貌はあまり現代的とは言えなかった。
身長一六五㎝ほど、がっちりした体格なのはまあいいとして、あだ名の由来にもなった、ある種の柑橘類の果実を思わせる見事なはげ頭のおかげで実年齢よりも十歳ほど上に見られることもたびたびだった。
そろばん片手に前掛けをしてまげを結い、江戸時代の商家の番頭の扮装をすればよく似合いそうな外見だった。ただ、彼の目尻の下がった大きな目、やや厚めの唇と丸っこい顔の取り合わせはいかにも福々しい印象で、そういった風貌が金谷に地道で信頼に足る会社経営者としての風格を与えていることもまた事実だった。
同じ大学の空手部に所属する先輩後輩という縁で、十数年前に織部は当時銀行の営業マンだった金谷を自分の後釜の新社長として招いたのだった。
会社の経営がまだ本格的に軌道に乗る前の話で、不安定な経営状態を嫌った織部が金谷にその尻ぬぐいをさせたと見た関係者も少なからずいた。しかし、金谷本人は、自分を一介の銀行員から小さいながらも一国一城のあるじに取り立ててくれた織部に大いに感謝している様子だった。
金谷をはじめとした社員一同の頑張りに加え、彼の古巣の銀行から資金面での援助を受けられたこともプラスに働いて、ほどなく彼の会社の経営は安定し始め、やがて小さいながらもこの業界では優良企業と目されるようになった。
彼を抜擢した織部の期待にたがわず、身の丈に合った地道な手法でその経営手腕を遺憾なく発揮することによって、新社長・金谷勘吉は大いに面目をたもったのである。
織部に対する美織の反発はいったい何に由来するものなのか、勝には全く見当がつかなかった。
なんとなく気まずい雰囲気が二人の間に立ち込めたが、それを強いて打ち消すかのように美織は勝に提案した。
「前にも話したと思うけど、私、祖父と二人暮らしなの。勝さんのこと、祖父に紹介したいから今日これから会いに行かない?」
「君の家、確かO市内にあるんだろ?ちょっとここからは遠いなあ」
勝が全く予期していなかった唐突な提案ではあったが、美織が病気がちの祖父と二人で暮らしているということは、彼女が入社した当初から耳にしてはいた。物理的な距離よりも、見知らぬ老人と対面しなければならない億劫さから勝は返事を渋った。
「何言ってるの?私は毎日こことO市を電車で行き来してるのよ。確かにここから近いとは言えないけれど、電車で行けばそんなにかからないわ」
美織は少しムキになって勝の説得に努めた。心の準備が出来ぬまま、勝がそれ以上返答できずにいると、
「昨日から看護師さんが泊りがけで面倒見てくれているのだけど、夕方には帰っちゃうのよね。それまでには家に帰らないと」
と言いつつ、彼女はさっさと身支度を始めた。どうやら勝の無言を同意と受け止めたらしい。
彼女との仲が今後どう進展するかはわからないが、一度彼女の住まいを見ておくのも悪くはないか、そう思いつつ、勝は今日起きてからまだ顔を洗っていないことに気づいて洗面所へと急ぐのだった。
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