永劫なる眷属

@gonn2026

第1話 プロローグ

入院患者の須藤老人は誰かに肩を揺さぶられて目を覚ました。


彼が寝ている病室には、ほのかに香水の匂いが漂っていた。どこかで嗅いだことのある香りだったが、今の須藤老人にはそれを思い出すことは困難だった。口からよだれを垂らしつつ、老人が寝ぼけまなこで周囲を見回すと、しんと静まり返った暗闇の中で女性らしい人影がベッドの脇からこちらをのぞき込んでいた。彼はなおもじっと目を凝らして、人影が看護師の神戸美樹であることにようやく気が付いた。小柄な体格ながら美人との評判が高い美樹は須藤老人のお気に入りの看護師の一人だ。

「須藤さん、ナースコールで呼んだでしょ?」

老人が目覚めたのを確認すると、美樹は彼にそうささやいた。はて?ナースコールなんぞ押したかな?そう老人が疑問に思う間もなく、矢継ぎ早に美樹が、

「まったく須藤さんったら、自分で押したのも覚えていないの?押したのよ、ナースコール。だから私がここにいるんでしょ?さあ、早く車椅子に乗りましょうね」

半ば呆れたように小声でささやきながら、しかしテキパキと、彼女は老人がベッドから車椅子に移る手助けをした。

須藤老人はこの病棟の看護師たちの間では「セクハラ爺さん」として悪名高かった。

半分ぼけたふりをして(事実ぼけかかっていたのだが)彼女たちの体をまさぐるのが常だった須藤老人を、担当の看護師たちはどう扱ってよいものかわからず、ほとほと困り果てていた。

本人に注意しても、とぼけたふりをするばかりなので看護主任が老人の家族に直談判を申し込んだほどだったが、当の家族も彼のことは持て余しているようで、看護師たちのみならず、身内がいさめてもあまり効果はないようだった。今夜も美樹が何も言わないのをいいことに、老人は彼女の尻と言わず胸と言わず手当たり次第にペタペタ触りまくるのだった。美樹は少し困った顔をしつつも、何も言わず黙ってされるがままになっていた。

大声を出されて騒がれるよりはましよ。これくらい我慢しなきゃ。

そう彼女は自分に言い聞かせた。

老人を車椅子に乗せ終わると、美樹はゆっくり静かに車椅子を押して病室の開けっ放しのドアをくぐり、薄暗い廊下を進みだした。


途中ナースステーションの前を通ったが、美樹の同僚で当直の佐伯智子は机に突っ伏して大いびきをかいていた。彼女は美樹が差し入れたサンドウィッチを睡眠薬入りのココアで胃の中に流し込み、夢の世界をさまよっている最中だった。ココアの入っていたカップは智子の肘がぶつかって横倒しになり、こぼれたココアが床に小さな染みをつくっていた。

いくら仲が良いとはいえ、非番の美樹が何の前触れもなく差し入れを持ってふらっと現れても生まれつき能天気な智子は全く怪しみもしなかった。それどころか彼女が持ってきた夜食をほとんど一人で全部たいらげてしまったのだ。すべて美樹の狙い通りだった。

智子ったら、相変わらず脇が甘いのね、くびになっても知らないわよ。

苦笑いをしつつそのまま通り過ぎようとしたが、美樹は思い直して智子に近づき、だらしなく大口を開け、正体もなく眠りこけている彼女の姿勢を正してやった。智子がいびきをかくのを止め、安らかな寝息を立てるようになったのを確認すると、美樹は老人の乗った車椅子をまた押し始めた。

薄暗く人気のない廊下の突き当りまで来ると、美樹はそこでいったん止まり、周囲に人の気配がないのをよく確かめて、その廊下の突き当りにあった部屋のスライド式のドアを開けて中へ車椅子をそっと押し込み、後ろ手でドアを静かに閉めた。

老人は自分が連れてこられたのが浴室であることにようやく気づき、期待半分、不安半分の面持ちで美樹のほうを見やったが、当の彼女は無言で微笑むばかりだった。

浴室はケガや老衰などで自ら体を動かすことが出来ない入院患者を入浴させるための設備が整っていて、広い室内の壁際には大きなステンレス製の浴槽が設置され、床も滑り止めのエンボス加工が施されたステンレスのタイルで覆われていた。浴室の隣には、深夜帯は無人の洗濯室や談話室などがあり、ナースステーションや病室からは比較的距離があるため、多少の物音がしても第三者に気づかれる心配はなかった。老人はふらつきながらも車椅子から自力で降り、何を思ったか浴槽にもたれかかりながら勝手に服を脱ぎ始め、やがて素っ裸になってしまった。

そんな須藤老人の様子を見て美樹は自然に笑みがこぼれるのを抑えきれなかった。

あらあら。自分からそうしてくれると話が早いわ。

「今度は私の番よ、須藤さん」

そう言うと彼女は自分の上着のボタンに手をかけ、老人に向かって微笑みながらゆっくり服を脱ぎ始めた。美樹がナース服の上着、ズボンに続いて下着もすべて脱ぎ捨ててしまうのを、息をするのも忘れてじっと見入っていた老人は低くうなり声をあげ、美樹のまばゆいばかりの裸身を飽きもせずに凝視し続けていた。口元からはとめどなくよだれがしたたり落ちていた。

だが、老人の至福の時間は長くは続かなかった。目の前の小柄で可愛らしい神戸美樹が次の瞬間、体積にして倍近くもある異形の怪物に変身してしまったからだ。

美樹のきめの細かい素肌は巨木の樹皮のようにざらざらした薄茶色の表皮へと変わり果て、長く伸びた筋肉質のたくましい両腕はあっという間に老人を抱きすくめてしまった。その大きく開かれた口元には黄色く長い乱杭歯が猛獣の牙のように林立し、赤みを帯びた両眼は一瞬大きく見開かれ、その直後、獲物を品定めする猛禽類のそれのようにゆっくり細められた。

もはや美樹の面影などどこにも見いだせない化け物を目の当たりにして相当のショックを受けた須藤老人ではあったが、特に抵抗するわけでもなく、こんな光景はついぞ見たことがない、などとぼんやり他人事のように思った。しかし次の瞬間、その考えを改めた。

「いや、わしゃこれを前に見たことがある。孫の卓也に買ってあげたオモチャ、あれは何と言ったかいの?」

老人はきつく抱きしめられて肩のあたりに激痛が走るのも忘れ、自分の考えにひたすら没頭した。何かに没頭してさえいれば目の前の危機はやがて過ぎ去る、そう考えているようにも見えた。昨日のことも満足に思い出せなくなっていた須藤老人は、かなり以前のことなら鮮明に記憶しているのだったが、孫の卓也君はもうとっくに祖父に買い与えられた玩具のことなど忘れ、今では立派な社会人となっていた。

「あれはたしか、トランス、ポーター?」

そう彼が言い終わったのとほぼ同時に、美樹の鋭くとがった人差し指の爪が、まるでチーズにナイフを突き立てるように老人のしなびた喉元を軽々とつらぬき、彼はついに結論を得られぬまま絶命した。

「残念でした。トランスポーターじゃなく、トランスフォーマーよ、おじいちゃん」

正しく答えられなかった回答者を慰めるクイズ番組の司会者のような口調でうめく美樹の声はあまりにも低く、うつろに響いていて、とうてい人間の声とは思われなかった。


暫しの飽食の後で人間の姿に戻った美樹は返り血を全身に浴びた裸体のまま、名残惜しそうに頭蓋骨の裏側にこびりついた組織の塊を指の爪でこそげ取り、口へ運んだ。

死んで骨だけになってもポッカリ空いた眼窩から美樹の裸身をいやらしく見つめる老人の視線に気づき、

「おじいちゃん、最後にいいものが見られてよかったわね」

彼女はそう言って老人のドクロに微笑みかけ、もはや用済みになったそれを用意してあった黒いポリ袋へ手早く放り込んだ。

この病院に限らず、しばらく前から全国各地で痴呆老人が深夜に忽然と消え失せ、そのまま行方不明になる事案が頻繁に発生しており、新聞の紙面やテレビのニュースなどを賑わせていた。

須藤老人のようなトラブルメーカーの場合、当の家族もむしろ厄介払い出来て内心ほっとしていたのかも知れないが、何日も行方知れずになればやはり捜索願を出さざるを得なかった。もちろん病院側の管理責任は問われるだろうが、さりとて入院患者すべてを病室に監禁するわけにもいかず、家族も徘徊老人が病院側に多大な負担をかけ続けていたことへのうしろめたさから賠償などの事態に発展することはほとんどなく、結局はうやむやのまま結末を迎えることが多かった。深夜に病室から忽然と消えた須藤老人も、いっとき騒がれはしてもやがて忘れ去られる運命だった。


老いさらばえて干からびた老人の肉体ではあったが、美樹にとって今晩の獲物は久しぶりの御馳走だった。次に人肉にありつけるのはいつになるかわからない。

食べられるときにたらふく食べておかねばならないのだ。

獲物を独り占めすることが出来、今夜の彼女はおおむね満足だった。食べきれなかった肉はあらかじめ浴室に隠しておいた何枚ものフリーザーバッグに部位ごとに既に収めてある。

計画的に少しずつ食べるようにすればしばらくは持つだろう。きちんと小分けされた袋の山を見て美樹は心が豊かになるのを実感した。だが、残骸を片づけるのはひと仕事だ。美樹は後片づけが大の苦手だった。

まだ肉片のこびりついている大小の骨、軟骨に靭帯、脂肪の塊と混然一体となった粘っこい皮膚、血まみれの毛髪の塊、排せつ物の詰まった消化器官、その他食べ残した各種内臓などがステンレスの床の上に山をなしている。

ぼやぼやしていたら、たとえ夜中であってもナースステーションの異変に気付いた患者が騒ぎ出さないとも限らない。お人好しの智子が責任を問われて解雇されるようなことになると美樹にとっても大打撃だ。

親友の危機は何としても回避しなければならないが、そうは言っても、べっとり血が付いたナース服を誰かに見とがめられては美樹自身の身の破滅にもなりかねない。シャワーを浴びて体についた血を完全に洗い流し、服を着るのはすべて片付いてからにしなくては。

体に染みついた血の匂いを消すため、いつもの香水も忘れずつけておかないと。

用意してきたポリ袋で目の前の残骸をすべて収容することが出来るだろうか、そんなことをあれこれ考えつつ、彼女は大きくため息をつきながらも手早くその作業に取り掛かった。



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