第8話 竹井と本間青年

 二〇〇メートルを終えた本間青年と二言三言交わしたのは、競技の合間に倉庫の整理をしようと向かっていた時である。これからダウンをすると言う彼はタイム的には満足できないと言いつつも、どこかやわらげな顔つきが印象的だった。

 倉庫から管理事務所に戻ると遅番の職員が来ており、見れば勤務時間を超過していた。簡単に引継ぎをして、ロッカーからバッグを取り出して担いだ。シニアの管理人は管理事務所から出た所で腰に手を当てて、大会を渋い顔をしながら目にしていた。

「じゃあ、お先に失礼します」

 竹井のあいさつにも「ああ」とだけ答えて、交代した管理人は近くにいた競技役員と「なんかいまいち盛り上がらんねえ」などと話し始めた。竹井は役員の邪魔にならないよう肩身を狭くしてそそくさと競技場を出た。隣接している駐車場の端に停めておいた軽自動車に乗る。シートベルトをすると、思わず深い息が一つ漏れた。レースの進行を告げる放送が聞こえる。応援する声が聞こえる。自分はもうそこから外れてしまった。名残惜しいのか、肩の荷が下りたのか、どっちつかずな気持ちがよぎる。今日は帰っても介護の必要はない。ショートステイに親は入っているからだ。帰ったら、ビールを飲めるかななどと喉を鳴らして、エンジンをかけた。窓を半分開けてアクセルを踏んだ。時速四十キロの風が車内に巻く。額に頬に熱さがあるのに気づいた。それが生ぬるいとはいえ風にさらされるとなんだか気持ちいい。家で待っている冷えたビールのことを考えればなおさら上機嫌にもなるというもの。なおさら風が気持ちいいと感じられる。

 竹井はふと本間青年を思い出した。彼はこういう風を楽しんでいたのか、と想像してみたのである。自分だって学生の頃に走っていた。けれども風がどうのとか言う場合は、向かい風や追い風がレースにどう関わるかであって、そこに溶け込み感動を嗜むような感情はなかった。走るといっても人それぞれなどということが今更ながら思いをはせることができる。だとしたら、自分はどういう風に走るのだろう。そんなことを運転しながら竹井は思ってみた。それは一つの比喩だった。実際に走るわけではないが、人生を生きると言う意味で自分は今走っているのだろうか、と疑問を抱いた。歩いている? 立ち止まっている? 確認をしなければならない。何を感じているのか、どう感じているのか、そんなことを思おうなんて考えもしなかった。視野が狭いどころの騒ぎではない、何を見ているのかさえ思いをはせることはなかったのだ。仕事して、介護して、手取りの少なさに舌打ちをして、ケアマネージャーに相談して、食事の献立を考えて、ベッドメイキングをして、親が寝た後の一時に深々とため息をして一杯やる。この日々の中で思いをはせるどこか、何を感じられているのか、どう生きようとするのか、考えすらしなかった。

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