第9話 母の形見の正体



「ダヴィデさん、これにはわけが」


 暗い紫髪の男はダヴィデといった。若くはあるが、三人の中では一番年上に見える。

 彼は部屋に入ってくるやいなや、取り繕ったナギの言葉には触れずにずかずかと足音を鳴らして寝台に近寄った。


「ったく、油断ならねぇな、ボス。あんたは一旦どいてろ。突っ走りやがって」

「おい、押すな」


 ダヴィデは七色眼の男をレドと呼んだ。

 レドは右肩を押しのけられ顔を顰めたが、ダヴィデは全く動じていない。むしろあしらっていた。


「お嬢ちゃん、少し触るぞ」


 ダヴィデは片膝をつくと、床に座っているイリゼを恭しく抱き上げた。


「まだ足元は冷やしちゃならねーぞ、わかったか」


 太腿まで毛布をかけられる。イリゼは寝台の枕に背中を預け、座った状態でダヴィデを見つめた。


「いきなり悪かったな。俺はダヴィデ・アメディス、医者だ。こいつらにも色々と言いたいことがあるんだが、まずは軽く診させてくれ」


 ダヴィデはじろっと後ろに視線を流したあと、イリゼの手首と首筋の脈を確かめた。

 突然現れたダヴィデだが、逆らってはいけない雰囲気にイリゼもひとまず大人しくしていることにした。


 怒ったら怖そう……というより、すでに怒鳴り声で若干肝が冷えている。レドやナギも、診察の邪魔をする気はないのか静かにしている。


「よし、いいぞ。状態は安定してるな」


 最後に両方の眼球を確かめると、ダヴィデは頷いてイリゼから手を離した。


「ナギ。薬湯は飲ませたのか」

「はい、すべて」

「そうか……声に関してはもうしばらくってとこだなぁ」

(私の声のことも、なにがあったのか知っているみたい)


 そういえば、先ほどレドは「城の使用人によれば」と口にしていた。イリゼについてザルハン領主城で働く人々に聞き込みをしたのかもしれない。


(いや、どうして?)


 聞き込みをしたのならば、その理由とはなんだろう。彼らが自分に求めることとはなんなのだろう。


(そうだ、たしかさっき)


 またしても、イリゼは先ほどの会話を思い出す。

 レドは指輪の情報をイリゼに聞き出そうとしていた。

 指輪の情報といっても、むしろ聞きたいのはイリゼのほうなのだが。母であるオフィーリアが遺した指輪は、なにか特別なものだったのだろうか。


 ……と、ここで、イリゼのお腹が「ぐぅ〜」と鳴いた。


「こりゃ元気な腹の虫だ。二日眠りっぱなしだったんだ、腹も減ってるだろ。まずは温かいスープでもどうだ? 口に入れながら軽く話をしよう」


 ダヴィデは声をあげて笑うと、ナギに目配せをする。


「すぐに」


 そう言って手本の如く折り目正しい礼をとったナギは、部屋を出ていく。


「……」


 相変わらず後ろに立つレドは、険しい表情でイリゼを見下ろしているだけだった。



 ほんのりととろみのあるスープは、細かく刻んだと思われる具材が入っており、弱った胃にも優しい作りをしていた。

 柔らかな寝台の上で優雅に食事を摂るなんて、なんて贅沢なのだろう。そんな自身の絵面を想像してイリゼは不思議に思った。


「さて、なにから話すかな」


 ダヴィデは寝台横の椅子に深く腰掛けて言った。

 ナギはその傍らに立ち、レドは少しだけ離れた場所にある窓に寄りかかり、腕を組んで黙っている。


 ゆっくりとスープを口に含むあいだ、ダヴィデとナギは簡単な現状説明をしてくれた。


 会場でイリゼが気絶したあと、ベクマン侯爵はイリゼを自分に引き渡すよう言ってきたという。

 それを拒否したのは、他でもないここにいるレドだ。

 地上では違法とされる特異物の使用、そして被害者のイリゼの身を保護する形で、イリゼはザルハン領主城から隣国のイフラン皇国に連れてこられたのである。


(地上にはテゾーラファミリーが行動する際に拠点場所として屋敷や城がいくつも存在していて、いま私はイフラン皇国の首都にあるテゾーラファミリー管理下の屋敷に身を置いている……?)


 言われたとおりの内容を頭の中で反芻してみる。

 なんとか理解はできたけれど、心はあまり追いついていなかった。


(……おいしい)


 もう一口、心を落ち着かせようとイリゼがスープを飲み込んだところで、ダヴィデは懐から見覚えのある物を取り出した。


「お嬢ちゃん、これに見覚えはあるか」

「……」

 

 ダヴィデが見せたのは、小型の紫がかった水晶玉。特異物だった。それもエティナが持っていたのとまったく同じもの。

 イリゼは覚えがあるという意味を込めてうなずいた。


「これはザルハン領主の娘から回収した特異物でな。ここにはお嬢ちゃんの声が閉じ込められていたが、今はもう戻してある」

「……!」


 思わず首もとに触れる。

 ダヴィデの持つ水晶玉には、あのときは見えていた黒い霧のようなものはない。もしやアレが奪った声だったのだろうか。

 戻したという話だが、いまだイリゼは声を出すことができない。いい加減不便すぎてつい眉尻が下がってしまう。


「特異物による後遺症ってやつでな、まだ暫くは声が出せない。早ければ十日程度、長引けば一ヶ月ほど元通りになるまで時間がかかる」

(長くて、一ヶ月も……)


 イリゼが落胆していると、ダヴィデはその場で勢いよく頭を下げてきた。


「すまなかった。この特異物は、うちの島から地上に流れたもんだ。お嬢ちゃんをこんな目に遭わせちまって本当に申し訳ない」


 自分より何倍も大きな大人が謝ってきたことにイリゼは驚きを隠せない。


(それに、うちの島って?)

 

 イリゼの疑問は、ナギによってすぐに解消された。


「こう見えてもダヴィデさんは守護者なんだ。つまり、天空全体の領主であるボスに代わって地方を管理しているまあまあ偉い人ってことかな。それでもって一番守護者っぽくない人を挙げるならダヴィデさん」

「てめぇは本当に怖いもの知らずだよなぁ、ナギ」


(守護者……)


 噂でしか聞いたことがない守護者の存在を再度認識すると同時に、イリゼはそろりとレドのほうを盗み見た。


(本当にあの人が、楽園の天空領主なんだ)


 いまさらという感じではあるが、ようやくイリゼはレドというすでに嫌いな部類の男を見捉える。

 

(七色の瞳。前にお母さまと眺めた虹色の橋みたい)


「……そろそろ、本題に移ったらどうだ」


 痺れを切らしたレドの低い声。あきらかに空気が変わった。心底冷え切った七色眼に見据えられ、イリゼは無意識に身構える。


 ひどく忌々しそうな眼差しは、イリゼを見ているのか、それともイリゼを通して別の人間を見ているのか。どちらにしても苛ついていた。

 レドが立つ窓と寝台の距離は多少あるものの、彼の手にある指輪の輝きは薄れることなく確認できる。

 冷めた温度で、レドは言った。


「お前が必死になって奪い返そうとした、この指輪はな、もともとは俺のものだ」


 その歪んだ嘲笑に、イリゼはまた、オフィーリアの言葉を思い出した。


『きっと、私は……とてもとても、大切な記憶を忘れてしまったのだわ』


 母はどんな記憶を忘れてしまったというのだろう。

 彼が舞踏会場でオフィーリアの名を呼んだときから、心当たりぐらいはあるのだろうと思っていた。


 やはり天空領主であるレドは、イリゼの母オフィーリアと面識があったのだ。

 ……なら、ふたりの関係は?


(お母さまは、ずっと悩んでいた。自分がどこから来たのか、なにをしていたのか。私には見せないようにしていたけど、それでも)


 蘇るのは、失った記憶に虚しさを抱える母の姿。

 亡き母に代わり、その記憶をすくいあげ、胸に刻めるのは自分だけだとイリゼは思った。

 だが、いまは自分から尋ねられる空気ではない。


「……十一年前、お前の母親は、天空領から女神の雫を持ち去った」

(女神の雫……)


 初めて耳にしたが、イリゼはおおよその見当がついた。きっと、指輪のことを言っているのだろう。


「女神の雫、この指輪は宝具タッデという。古の女神が天空に授け、代々天空領主に受け継がれてきた。それをあいつは、あの女は――」


 レドの表情、声、仕草から、底知れない憎しみが満ち溢れている。怒りで覆った言葉の数々に、イリゼは口を噤んでしまう。


「……。俺が聞きたいのはひとつだけだ。この指輪に封じられていた"時の神獣"をどこへやった?」


 なんですかそれ、というのがまず最初の感想である。それにイリゼはいま、ふたつの事実で頭がいっぱいになっていた。

 母が宝具を持ち去ったということ。

 そして、天空領にいたという事実である。


(お母さまは、記憶をなくす前……楽園にいた)


 それから、どういった経緯でザルハン領に漂流するに至ったのか、レドはわかっているのだろうか。


「指輪からは微かに気配がするがそれだけだ。本体ではない。お前、もしくはあの女が隠しているんじゃないのか」

「おいボス、手加減はしてくれよ」


 ダヴィデの声も届いていないのか、レドは寝台の脇に手をついて乗り上げてくる。


「あの女は、男の懐に入り込むのがうまかった。言葉を巧みに操って、翻弄させる。そういう生まれだと自分から話していたからな。そうだろ? 聞かされなかったか? 今までどれだけの男を手玉にとってきたか――」


 ひどい言葉の羅列だ。

 聞くに耐えない、気分も最悪である。


「その性質は場所は違えど変わらなかったらしいな。まさか王家筋の侯爵家当主に囲われていたとは、甘くみていたらしい。さぞ愉快だったろうな。相容れない男に執着され、そこから逃げ出し、子に恵まれ……それがあの女の、求めていた幸せだったんだろ」

(なにを、言って……)


 なにかがおかしい。食い違っている。

 これはもはやイリゼに対して言っている言葉でもない。

 同時にレドに対する軽蔑心が、容赦なく積もっていく。

 それなのに、どうして。


(この人は、こんなに悲しそうなの?)


 自らの発言を止めて欲しそうにも見えるレドが、頼りなく、可哀想に感じた。

 心臓が早鐘を打つ。まるであのときと同じだ。オフィーリアを亡くした日のイリゼの心のように、苦しみに苛まれ荒んでいる。

 レドから伝わるのは、抑えが効かずやるせなさだけが募った虚しい感情だ。


 見ていられないと、そう思ったとき。イリゼの膝にレドが手にしていた指輪が転がった。

 彼の手から離れてしまったのであろうそれを視界の端で捉え、イリゼはそっと手繰ろうとする。


(お母さまの形見が、天空領土の、宝具だったなんて)


 ただの指輪にしか見えない。これが女神の雫だと、特別なものといわれても地上人は気づきもしないだろう。

 そして、それはほんの一瞬の出来事だった。

 イリゼの指先が指輪に触れたとき、透明な宝石が七色に色づいて見えて、無性に胸が熱くなる。

 既視感を覚えた瞬間――室内が眩い光に包まれた。


 

「……えっ?」


 久しぶりに聞いた自分の声は、なんとも間抜けなもので。声が出たことよりも、イリゼには気になって仕方がないことがあった。

 イリゼと同じく、一同の視線は指輪が転がっていたイリゼの膝に注がれる。


「くるるる、きゅるるる……」

(なに、これ。なんなのこれ!?)


 イリゼの膝上には、いつの間にか黒い毛玉が高い寝息を立てていた。

 よく見ると耳があり、角があり、尻尾まである。

 こんな動物は見たことがない。そもそもいまの一瞬のうちになにがあって動物が現れたというのか。


「時の神、獣……?」


 信じられない形相のレドは、その獣を見下ろしてつぶやいた。

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