第8話 いやな男



『そろそろ、目を開けてくれないかな』


 懇願に近い囁きが耳朶を打つ。

 優しさのなかに寂しげな感情をはらんだ声音に、胸がぎゅっと締めつけられる。


『まあ、気長に待ちますよ。ずっと』


 それはイリゼの心に小さな光を灯して、次第に全身へと伝わっていく。

 早く起きなければ……呼んでいるから、待ち望んでいるから。

 

(起きないと、だめなのに。あな、た……が、待って、いるのに)



 はっと目が醒めた。同時に穏やかな子守唄が聞こえてくる。


(ここは?)


 後頭部を包む柔らかな枕、上には高く豪奢な天幕が見えた。

 どうやら寝台に寝かせられていたらしい。

 触れたことはないけれど、まるで雲のような極上の感触に浮いているのではと錯覚するほどだった。


(どこ、ここ。私はどうなったんだっけ)


 思考を巡らせてみたが、寝起きのせいかうまく頭が働かない。

 

(夢だと思ったけど、ちがう。誰かの声がする。これは、子守唄?)


 イリゼはぼんやりと聞こえた声が現実であったことに気づく。

 そして、目線を下にずらせば規則正しくイリゼのお腹を優しくたたく手が見えた。

 

「――お目覚めですか、お小さいひと」


 ぎしりと音がして、人並外れた美貌が笑顔で覗き込んでくる。お腹の上に乗った手が離れ、唄も聞こえなくなった。


(……お母さまが聞かせてくれた唄と同じだった。この人が唄っていた?)


 気になったイリゼは、唇をゆっくりと開く。

 

「――」


 やっぱり声は出なかった。つづいて口を大袈裟に動かして、青年の読唇術に期待してみる。


(子守唄、うたってましたか?)

「ここはどこかって? 地上にあるテゾーラファミリーの隠れ家だよ。君が逃げようとしていたザルハン領主の城ではないから安心して」


(そうじゃなくて、うた、あなたの声が)

「ああ、テゾーラファミリーというのは、天空領土を統治する組織の総称と思ってくれればいい」


(……。あなたは、だれですか)

「俺はナギ。テゾーラファミリー十四代目の側近で……と、その話はひとまず置いておこう」


 ナギと名乗った青年は、そう言ってイリゼの額に手をのせた。労わるように添えられた温度に、イリゼの全身が硬直していくのがわかる。


「うん、熱は下がったようだ。目覚めたばかりで混乱しているだろうけど、体の調子はどうかな。痛かったり、苦しかったりは?」

(……この人の読唇術はあてにならなそう)


 ナギという青年に尋ねられたイリゼは、いろいろと納得がいかない部分があるものの、問題ないと首を横に動かした。

 ひとまずここはザルハン領主城ではないらしい。だからといって安心する要素はひとつもないけれど。


「覚えているかい? 君はあの会場で気絶したんだよ。併せて栄養失調に疲労の蓄積からくる高熱で二日間寝込んでた。医者も引くほどに体はぼろっぼろ、いやこれまったく笑えないからねー」


 ナギが軽い調子で説明する。イリゼの身体は思ったよりも限界を迎えていたようだ。

 逃亡決行の日、体が気だるさと喉の痛みには気がついていたけれど、そこまで症状が重いとは考えていなかった。


(そうだ、指輪はどこにあるんだろう)


 エティナから取り戻した指輪の行方を覚えておらず、思い出したイリゼは同時に飛び起きる。

 

「こらこら、いきなり起きたら体が驚くよ。まず君はこの薬湯を飲んで……体の回復を促す効果のあるものなんだ。でも、少し臭いがきついだよな、これ」


 ナギは近くの小さなテーブルに載っていた水差しの取っ手を掴んだ。

 中身は透明に近い薄黄緑色の水が入っている。


「はーい、飲んでくださいね」

(……)


 完全に子ども扱いをされている。

 飲み口を近づけられると、イリゼはすんなりと唇を開けた。

 見た目よりも粘り気のある水は、ナギの言ったとおり薬湯独特の臭いがする。


(まずい)


 にゅっと眉間に皺を寄せる。しかめっ面になりながらもイリゼは与えられた薬湯をすべて飲み干した。

 これには勧めたナギも思うところがあったようで、目を見開いている。


「飲んでって言った俺が言うのもなんだけど、よく見ず知らずの他人が差し出したものを躊躇いなく受け入れられるね」

(……あなたからは、いやな感じがしないので)


 イリゼはぱくぱくと口を動かす。

 それこそエティナから感じるような悪意はこれっぽっちもない。伝わったのか定かではないが、ナギはその様子をじっと見つめていた。


 ナギの言うように、誰だってほぼ初対面の人間から安全だと説明されても完全に信用することはないだろう。

 むしろ心の底では警戒を怠らないのが普通である。

 しかし、イリゼはあまりナギに対してそういった考えが湧いてこない。


「なんだか、ボスを前にしているみたいだな」


 小さなつぶやきのあと、ナギはイリゼの前髪に触れ、少しだけ持ち上がった毛先の奥にある真っ黒な瞳を確認する。

 なにを見られているのかわからなかったけれど、おそらくなにかを確かめているのだということは、ナギの目つきでわかった。


(この人、ナギさんに聞けば、教えてくれると思うけど)


 会場で倒れたあとのこととか、自分が連れてこられた場所についてとか、テゾーラファミリーというよくわからない組織だとか。

 イリゼがいま、どんな立場にいるのか……知らなければいけないことは山ほどある。

 しかし、イリゼにとって優先されるのはもちろん指輪の在り処だ。


(指輪はどこですか)

「え?」

(指輪、お母さまの指輪です。気絶する前に持っていた)


 イリゼは身振りと手振りでナギに伝えた。


「君が持っていた、指輪のこと?」


 彼は言いたいことを汲み取ってくれたが、その顔はなんとも微妙で、若干困っている。


(まさか、ベクマン侯爵のもとに)


 最悪の想像が過ぎり、頭から血の気が引く。

 

「……指輪は、ここにある」


 その時、二人だけだと思っていた室内に、第三者の声が響いた。

 寝台の左側。アンティーク調の扉が開かれ、背の高い人物が姿を現す。

 その手にはイリゼが求めるものが置かれていた。


「ボス、そろそろお呼びしようと思っていたところで」


 ナギが椅子から立ち上がり、その男に場所を空けるよう後ろに下がった。

 男は無言のまま寝台に近づくと、同じく無言のまま見上げるイリゼを見下ろす。


「イリゼ」


 ふと、男は声に出し、イリゼはすぐに区別がついた。いまのは呼びかけたのではなく、ただ音にしただけの無機質のものだと。


「あの女が名づけたようだが……俺への当て付けか、反吐が出るセンスだな」

「……」


 こいつ、きらい。

 イリゼのなかで、七色に輝く瞳を持った男の位付けが確定した。


 ***


 生前のオフィーリアに、訊いたことがある。


『おかあさま。どうしてイリゼは、イリゼなの?』


 化粧台の椅子にオフィーリアが座り、その膝に乗って髪を梳かされる幼いイリゼは、振り返って言った。

 子供ながらに知りたかったのだ。大好きな母が愛おしそうに呼ぶ「イリゼ」という名には、どんな意味があるのだろうかと。


『それは……』


 すると、髪を梳かす手が止まった。

 はっきりとしない口ぶりのオフィーリアは珍しく、イリゼが首を傾げながら化粧台の鏡に視線を戻すと。

 申し訳なさそうにイリゼを見つめる母の姿が映っていた。


『ごめんなさい、おかあさま。イリゼ、変なこと言っちゃったね』


 悲愴を漂わせる母の表情を見ていられなかった。

 理由がないならないで、それでよかったのに。

 小さな子供の発言に頭を悩ませてしまったことが、イリゼには堪えた。


『違うのよ、イリゼ。ごめんなさい、謝らせてしまって』


 そう言ってオフィーリアはイリゼの頭に口づける。

 鏡越しに目が合い、オフィーリアはふわりと笑った。


『産まれたあなたが初めて目を開けたとき、ちょうど陽の光が窓に射し込んだの。光に照らされたあなたの瞳は、まったく別の色に見えてとても幻想的だったわ』

『げんそうてき?』

『とてもきれい、という意味よ』


 オフィーリアはイリゼの頭を撫でると、顔が見えるように正面を向かせた。


『そのとき、ふと頭に浮かんだのよ。あなたの名前は、イリゼだって』

『へえ〜』


 名前の意味を知ることはできなかったけれど、イリゼはそれでよかった。

 どんな状況で自分は「イリゼ」になったのか。それを知れただけでイリゼは満たされていた。


 そういえば……あのとき母が言っていた『全く別の色』とは、どんな色をしていたのだろう。


 今では遥か昔に感じる母と子の会話。

 本人の口から聞けることは、もうないのだ。


 ***


 赤の他人に自分の名前を「反吐が出るセンス」だと吐き捨てられたとき、どんな反応をするのが正常だろう。

 人の名前にどんな感想を持つかは本人の自由である。そして、どんな反応をするのかも、本人の自由だ。


「……っ!」


 イリゼは近くにあった枕を手繰り寄せ、掴むとそれを寝台横に立つ男目掛けて思いっきり投げた。


「おっと」


 残念ながらイリゼが投げた枕は男に当たらなかった。凄まじい瞬発力で入ってきたナギの手によって阻まれてしまったのだ。

 どうして庇うのかとナギを恨めしそうに見れば、彼は肩を竦めた。


「ボス、大人気ないですね。入ってきて早々にそんなことを言うなんて」


 ナギは枕の皺を伸ばして整えると、それをイリゼの足元付近に置いた。

 すかさずイリゼは枕を取り、もう一度男に向かって投げる。しかしまた、ナギによって止められた。


「なに遊んでるんだ、お前は」

「いや、つい。良心的にはこの子に加勢したくもあるので、攻撃の機会は作ってあげたいなーと」

「阿呆が」


 男は呆れを滲ませた。顰めっ面は一向に崩さず、イリゼをじろりと見やる。


「城の使用人によれば常に理性的、感情を剥き出したところを見たことがないという話らしいが、随分と違うな。むしろガキらしく感情的で……ただのガキだろ」


 二回もガキと言われた。

 ザルハン領主城にいた頃のイリゼは、極力感情を表に出さず面倒事を避けて過ごしていた。

 しかし、それはあくまでも城にいるときの話であり、本来のイリゼとはそもそも頭で考えるより先に行動に出やすい。


「ほんとにボスは子供に歩み寄ろうとする意思がないですね。これじゃあいつまで経っても話しが進まないと思うんですが」

「俺はガキが嫌いなんだよ」


 男はうんざりした様子でイリゼから顔をそむけた。


「でしたら自分から来ないでくださいよ。せっかく仲良くお話している最中だったのに。ねー?」

「はっ、仲良く? よく言うな。この餓鬼の目は、さっきからコレしか見てないだろ」


 男が言うように、イリゼは男が持つ指輪から一度も目を離していない。

 

「そんな見せびらかすように持ってこなくても」

「俺はさっさと指輪の情報を餓鬼から聞き出したいだけだ。それが終われば、こいつがここにいる理由はない」


 男は冷たく言い放つ。あの七色眼がこちらを映すことはなく、踵を返して背を向けてしまう。


(待って!)


 イリゼは咄嗟に離れていこうとする男の衣服の端を掴んだ。


「あ?」

(わ……!)


 掴まれた違和感に振り返った男。くるりと体の向きを変えたため、イリゼは引っ張られるように寝台から転げ落ちた。

 なんとか受身を取れたが、打った体半分がとてつもなく痛い。おまけに男の服の端は離さず掴んでいるので、体勢がとんでもないことになっていた。


「いい加減、離せ――」


 起き上がるように手を貸すこともなく、不愉快そうに男が言いかけたとき、ふたたび扉が開けられる。


「おーい、ナギ。子供の様子はどう……だ……?」


 新たな声が聞こえ、イリゼは男のすらりと長い脚の間からそちらを確認する。

 扉の前には、白衣を着込む紫髪の男が立っていた。そしてイリゼが床にいる状況に、口をあんぐりと開けている。

 その額に青筋が浮かんだところで、

 

「てめぇら、病人になにしてやがる!!」


 あまりの怒号に、イリゼは掴んでいた服の端を離していた。


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