第10話 時を操りし力、血の繋がり


 いまも膝の上で高い寝息を立てている生き物を、レドははっきり「時の神獣」と言った。


「お前、一体なにをした?」

 

 ふいに左肩に手を置かれる。イリゼを貫くのは、レドの鋭く威圧のある眼光だ。


(そんなこと言われても)


 イリゼにも訳がわからない事態であるため、問いただされても答えることができない。

 なにかをしたわけではないが、そういえばレドが落とした指輪には触れていた。


(たしか、この辺に)


 もぞもぞと片手を動かして指輪の場所を探る。

 指先にこつんと固いものが当たり掴んで手のひらを確認すると、色がついた指輪がそこにはあった。


(あれ、ずっと透明だったのに)


 無色透明だと思っていた指輪の宝石は、淡い輝きながらもレドの瞳と同じような彩りをしていた。


「ダヴィデ!」


 レドの苛立ちを孕んだ声が室内に響いた。呼ばれた当人は、眉間に皺を深く刻ませてイリゼを静かに目視している。


「俺も予想しなかった事態だ。見たままを言うなら、たしかに指輪はお嬢ちゃんに反応した。反応した指輪は凄まじい威力をもった光の波動を放って――そして時の神獣が現れた」

「それは俺もわかってる。で、だからどうなんだって聞いてるんだろ」

「……言ったところで、あんたは簡単に認めねぇだろが」


 徐々にピリついた空気へと変わっていく。

 さすがのイリゼも、これはとんでもないことが起きているのだと思い、背中に冷や汗が流れた。


(私はただ、城を逃げ出したかっただけなのに。もう、こんなよくわからないところ……出ていけたら)


 知りたいこと、聞きたいことはある。

 けれどそれ以上にいつまでたっても状況がわからないままの状態にほとほと嫌気が差してきた。


 本当に実行する気はなかったが、このまま外に飛び出していけたら、と遠い目をして考えてみる。

 いわゆる一種の、またむやみに暴走しないための感情の逃避のつもりだったのだ。


「言ったところで、だと? まずは言うのが筋だろうが。忘れるなよ、俺が、聞いているんだ」

「……はあ、ったく。ならはっきりと言ってやる。お嬢ちゃんが指輪に触れて、色が宿った。それはつまり、お嬢ちゃんが――」

「クゥン?」


 ダヴィデの言葉が、イリゼの膝に乗っていた時の神獣によって遮られた。

 気持ちよさそうに眠っていたはずの小さな獣は、白く大きな瞳を開いて不思議そうにイリゼたちを見上げている。

 正確には、イリゼの顔だけをずっと見つめていた。

 

「クゥーン」

「……なあに?」

「クゥン、クゥン」


 またイリゼに向かって小さく鳴く。

 イリゼになにかを尋ねるように、心をそっと覗き込むような眼差しとが絡み合った瞬間のことだった。


 妙な空気の圧を、イリゼは感じた。

 言葉にするのは難しいが、強いて言うなら焚き火の炎を正面にしたときの熱風を浴びるような、そんな感覚。

 そして、クゥーン――と、一番に強く鳴き声が耳をかすめたと思えば、


「……へっ?」


 間の抜けたイリゼの声が、突風にかき消される。

 たった一瞬、まばたきをしただけだった。それだけだというのに、目を開いた先の景色は外で、それも明らかにここは上空で。


(空が、近いっ。なんで、なにこれ、落ちてる!?)


 天と地が逆さまになったような感覚に、イリゼは凄まじい叫び声をあげた。


 ここが外だと気づいたのは、青々と広がる空をなんとか目にできたからだった。

 一体どうなっているのか、イリゼは轟々と吹き荒れる風の中心で右も左もわからなくなっていた。


「クーゥン」


 ふと、その鳴き声が聞こえて、イリゼは奥歯を噛みしめながら閉じていた瞳をうっすら開く。

 落下しているのだと思っていたが、それは少し間違いで……正確には獣の背中に乗って上空を進んでいたのだ。


(この、毛の色……さっきの子!?)


 落ちないようにと死に物狂いで掴んでいた黒い毛は、つい先ほどまでイリゼの膝にいたそれとまったく同じである。

 そしてイリゼに呼びかけるように発せられた独特な鳴き声に、自分が乗っている物体は体を大きく変化させたあの獣なのだという結論に至った。


 残念ながら冷静に判断したわけではなく、状況が状況であったためそう思わずにいられなかっただけだ。


「なにっ……どうしてっ」


 びゅうびゅうと風を切りながら進んでいく時の神獣の背中でイリゼは慌てふためく。

 眼下はどこまでも広がる樹海で、葉もあまり見えず寂しげに枝だけが長く伸びていた。


 どこに向かおうとしているのかわからない。

 そもそもここは、どこなのだろう。先ほどまでいた建物はどこにあるのだろうと思い振り替えると、イリゼは視界の隅に見知らぬ屋敷の屋根を捉えた。


(あれが、さっきまでいた場所? わからないけけど、このまま前進されるよりはいい)


「と、止まって! お願い、止まって!」

「クゥーン?」


 イリゼは懸命に声をかける。

 すると、黒毛の獣は不思議そうな声音をあげて素直に止まった。

 それはもう綺麗に、ピタリと空中で。


「とまっ――わああああ!」


 止まりはしたが、代わりにもの凄い勢いで地上に落下している状況にイリゼの顔色は真っ青になる。


(止まれって言ったけど! 落ちてとは言ってない!)


「クゥン〜クゥン〜」


 イリゼは死すら予感するほど気が気ではないというのに、当の時の神獣は楽しんでいるのか鳴き声が弾んでいた。

 さらに気持ちよさそうに体を動かし、くるくると回転しはじめる。

 まるで遊んでいるようだ。


(……)


 ぶちっと、イリゼの頭の中で糸が切れる音がした。


「いい加減に……しろー!!」

「ク、クゥーイ?」

「前に進んで! 飛んで、浮いて、動いて――進め!!」


 樹海との距離が縮まり、いよいよ木々に体を突っ込んでしまうというところで、イリゼは必死になって言葉を発する。

 こんなところで死ぬのは御免だ。

 なりふり構っていられず最後は命令のようになってしまったけれど、黒毛の獣は聞き受けたと言いたげに鳴き声をあげた。


「クゥーン」


 ぎゅっと、きつく目をつぶる。

 鳴き声が耳に届いた瞬間……イリゼの鼻先をかすめたのは、柔らかな花の香りだった。


(花びら?)


 つん、とイリゼの鼻の上に引っ付いていたのは、真っ白な色の花びら。

 おかしな違和感を覚えたイリゼは、下を向いて言葉を失う。

 薄暗い雰囲気を纏っていたはずの樹海。


 それがどうだろう。イリゼが目を閉じていた一瞬の間に姿を変え、可憐な花を一斉に咲かせていた。


 咲き誇る花の香りが鼻腔を満たしてゆくなか、イリゼは途方に暮れるほかなかった。

 どうすれば、地上に降りられるのか。

 落下は防げたものの、黒毛の獣によって上空で振り回されている現状は変わらなかった。

 

 と、そのとき、背中に気配を感じた。


「……遅れてごめんごめん。さあ、深呼吸して。気をしっかり保てば、神獣は君の心に応えてくれるはずだ」


 不意に耳の後ろから軽い調子の声が聞こえた。

 寒空の下に晒されていたイリゼの体は、後ろから抱きしめられるような形で支えられる。


「え、どうやってここにっ……!?」


 振り返ると、靡く銀の髪がまるで宝石が放つ一筋の輝きのようで。

 どこまでも余裕そうにした薄紫の瞳が、イリゼを映してほんのりと細まる。

 とてつもない強風に煽られていようとも美しさがこれっぽっちも霞む様子がない、ナギがそこにいた。

 

「おお、ちゃんと声は出るみたいだ。どうやってここに来たかというと……まあこう、ひょいっと、飛んできたんだ」


 形の良い唇をにこりと笑わせたナギは、なんでもないように言う。

 どう「ひょい」っとすれば空高く上がった獣の背中にたどり着けるのか。理解ができない。


「それよりも、まずは下に降りようか」

「下に……どうやったら降りられるんですかっ」


 急降下はしなくなったが、先ほどから黒毛の獣は同じところをくるくると飛んでいる。まるで進む方向を見失った鳥のようだ。


「難しく考えることはない。気を強く保って降ろせと思えばいいんだ。心のなかでも口に出してもいい。重要なのは、君の心を神獣の心と共鳴させること」

「……あの、よく意味が」

「わからないかい? でも、君はもうできてるよ。この樹海を、花だらけにしたじゃないか。時を進めて、蕾が開くように」


 風圧で耳がやられたのか、イリゼはナギの言葉をうまく呑み込むことができなかった。


 けれど、ナギの言うとおりになった。

 気を落ち着かせて「あの大きな屋敷の前に降ろして欲しい」と時の神獣に言えば、すんなりと向きを変えて飛んでくれたのだ。


(いまさらだけど、どうやって飛んでいるんだろう)


 時の神獣の背中には、翼がない。

 だというのに空を飛ぶ……というよりは、宙を蹴って進んでいる。

 突然開花した樹海の木々といい、夢でも見ているのかと思ってしまうようなことの連続だ。


「クゥーン……」


 あっという間に屋敷に到着する。

 イリゼが降りやすいようにお腹を地面にぺたりとつけた獣は、叱られた子犬のような鳴き声をもらした。


「君のご機嫌を窺っているみたいだ」

「私の機嫌なんて、どうしてそんなこと」


 ナギに手を引かれ、イリゼは躊躇いながら獣の背中を降りる。


「それは、君を主だと思っている証拠かもしれないね」


 ナギは部屋から咄嗟に掴んで持ってきたという室内靴をイリゼの足元に置いたところで、またさらりと重要なことを言った。


(主……?)


 尽きることなく増え続ける疑問にそろそろ頭がおかしくなりそうだ。

 そして、足が地面についた安堵に浸る余裕はなく、イリゼは屋敷の外にいたレドの鋭い眼光を浴びることになった。


「力を……使ったな?」

「力って、なんのことですか」

「時の神獣の力だ」


 レドはイリゼの後ろにいる黒毛の獣――時の神獣を見やる。


「私には、よくわかりません」

「しらばっくれるのもいい加減にしろ。時を止めて俺たちの目を掻い潜り、ここから逃げようとしただろう」


 確かにこんなところ出て行けたらとは思ったけれど、それはあくまでも思っただけである。実行に移す気なんてさらさらなかった。

 そもそも時を止めるだの、進めるだの、イリゼにはわかりようがない。

 なのに頑なにそうだと決めつけられるのは癪だった。

 敵対意識が芽生えているレドに言われれば余計に、日ごろザルハン領主城では抑えていたイリゼの本心がひょっこりと表に出始める。

 

「いつの間にか外にいたんです」

「は、言い逃れするつもりか」

「そんなつもりはなくて、だから、わからないんです」


 この男、ちゃんと話を聞いているのか。テコでも動かなそうな頭でっかちをどうにかしてくれと、イリゼはレドを睨みつける。


「わからなくて、時の神獣が、ああも操れるわけないだろ」

「……っ、だーかーら、そんなこと言われてもわからないものはわからないって言ってるのに! そっちこそいい加減にして、わからず屋!」

「なんだと? 誰がわからず屋だ?」

「目の前にいるすっとこどっこいのこと!」


 夜の酒場で皿洗いをしていたとき、すぐ近くで酔っ払いの話し方を聞いていたからか、つい口が悪くなっていく。

 実際に使うのは初めてだったが、きっとこういう人間のために用意されているのだろう。絶対にそうだ。


「ふっ……あはは! あー、おかしい。ボスをすっとこどっこいなんて言う子、初めて見たな」

「たくっ、ナギ。面白がってる場合じゃねーぞ。ボスも、話が進まねぇから落ち着いてくれよ」


 二人のやり取りを横で見ていたナギは、からからと笑って腹を抱える。そして額に手を当ててため息を吐くダヴィデ。

 イリゼとレドは、お互いふんっと顔を反対方向に背けた。


「それでお嬢ちゃん、体は平気か?」

「……はい」

「さっきはすまなかったな。お嬢ちゃんを置いてけぼりにして話しちまって」


 おそらく部屋でレドと言い合っていたことを謝っているのだろう。


「その黒毛……時の神獣は名前の通り、時を操る力をもった神獣でな。七つの祝福のうちのひとつなんだ」

「祝福って、女神が授けたっていう、あの?」


 ダヴィデがその通りだと頷く。

 楽園の噂は、話の種のひとつとしてよく地上人の間でされていた。

 女神が天空を創造し、その寵愛によって七つの祝福を授けたという話も、物心がついた子どもなら皆知っているくらい有名である。


「急に言われても理解できないかもしれねぇが、とりあえず聞いてくれ。時の神獣は、お嬢ちゃんの意思を汲み取って動いたんだ」

「私の意思を?」


 そんなことを上空でナギも言っていた。


「逃げる気はなかったとしても、そうだな……よく分からねぇ俺たちの会話ばかり聞いて出ていきたいと思わなかったか? 神獣の背中にいたとき、心でなにを考えていた?」

「それは……」


 レドとダヴィデの不穏な空気を感じとって、もういっそこんなところ出て行けたら、と思った。

 向かう先もわからず突き進んでいた時の神獣には、止まれ、とも、進め、とも言った。


 止まれと言った瞬間、急降下が始まった。

 前に進めという言葉で、解釈を間違えた神獣が時を進めたのだとしたら。

 樹海に広がる花びらの理由も、時を進めて咲かせたということになる。


「思い当たるところはあるか? もしあったなら、時の神獣は、お嬢ちゃんの心と共鳴し合ってる可能性が高い」


 言い聞かせるように、丁寧に。

 ダヴィデはゆっくりとイリゼの中に溜まっていた疑問を解消していく。

 しかし、その事実はさらにイリゼを吃驚させた。


「時の神獣を操れるのは、七色眼を宿す者と、後継者となるにふさわしい者と決まっている。それに該当するのは、領主家の血が流れる人間だ」

「あの、それって……」

「うん。君には、おそらく天空領主の家系と血の繋がりがあるってこと」


 そう言ったナギは、イリゼの肩にふわりと自身の上着をかけた。薄い寝衣一枚だけが包んでいた体は、ナギの体温の名残で少しずつ温まっていく。


 しかし、手と足は氷のような冷えきったままだった。

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