6.大学四年 七月 勇吾③
カーテンから漏れてくる日の光がまぶしい。けど、それを避ける気力も、今のオレにはない。今は何時だろう。それすらも、よくわからない。精神科でもらった薬が効き過ぎているのだろうか。あのヤブ医者め。人の話なんてたいして聞かずに、薬ばかり出しやがって。全然良くなる気がしない。今の状況が、ずっと続くのだろうか。そんなの嫌だ。来年は就職なのに。それまでにちょっとはマシな状況に戻さないと。学校が夏休みに入ったのは不幸中の幸いだ。オレはベッドから立ち上がろうと力を込める。ふらつきながらも、なんとか身体を起こすことができた。そのまま部屋を出る。
家の中は静まりかえっていた。階段の下をのぞくと暗く、亡者がオレを呼んでいる声がする。いや、気のせいだ。オレは足がもつれて、よろける身体を支えるために、手すりへ掴まり、階段を一段、また一段と降りた。その度に足音が響く。まるであの世から現世へ帰るかのようだ。生きる苦しみが待つ現実世界に。
ようやく一階までたどり着き、暗い廊下を抜けるとキッチンだ。母さんの姿は見えない。いたところで、どうせ腫れ物に触るような扱いをされるだけだ。いなくて清々する。
オレは冷蔵庫を開けて、中を物色した。食欲はないが、何かお腹には入れておきたい。オレはスポーツ飲料のペットボトルを取り出す。それを持って、椅子へ座ると、テーブルの上に置かれていたバナナを口に押し込む。
なんとかしなくちゃ。けれども、今のオレには誰も味方がいない。前だったら、恭介の力を借りようとしただろう。けれども、そもそもオレをこんな風にしたのは、あいつだ。病院通いになっていることは伝えてあるが、たいした返事もよこさない。せめて一目でも会って話をしたい、という細やかな望みも、叶えてくれるつもりはないみたいだ。
柳沢も間に入ってくれようとする発言はあるものの、結果が伴わない。医者はヤブで、母さんも的外れなことばかり言う。せめて姉さんがこの家にいたら。オレが小さい時からの味方で、母さんみたいに自分の勝手な解釈をせず、ちゃんと話を聞いてくれる。けど、あんな訳のわからない男と結婚して、今は北海道だ。いっそのこと、会いに行ってしまおうか。だが、家にはあの男がいる。姉さんにも迷惑がかかるだろう。
オレは目線を上げる。すると、そこには姉さんが立っていた。足音は聞こえなかったけど、いつ来たのだろう。
「ね、姉さん。なんで?」
姉さんは包みこむような顔でオレに微笑みかける。
「勇吾が困っているって」
母さんが自分だけでは手がおえないと思って、姉さんに話したのだろうか。
「母さんから聞いていると思うけど。オレ、ゲイなんだ」
「そう。けど、勇吾は勇吾でしょ。私の大切な弟。何も変わらない」
目から自然と涙がこぼれる。そうだ、その言葉をオレは誰かから言って欲しかったんだ。
「そう言ってくれるのは姉さんだけだよ。みんなオレがゲイだって知ったら、態度が変わるんだ。好きな相手にも裏切られた」
「愛している人が貼られているレッテルだけを見て、変わってしまうのは悲しいことね」
「うん。オレの告白を受け入れてくれなかったこと自体は、どうでもいいんだ。オレの秘密を勝手にバラしたのが許せなくて。どうなるのか、わかっている癖に」
姉さんは黙って、オレの言葉にうなずいてくれた。
「自分だってオレを見る目が変わったんだ。他の人も変わるかもしれない、ってわかるだろ」
「勇吾は恭介くんのこと、信頼してたんだ」
「ああ。でも、こんなことになって、もう誰も信じられない。だって、誰もわかってくれないんだ。オレが何を怖がっているかを」
「もう、外に出たくない?」
「やだ。恭介と一度でも良いから、直接会って、話がしたい。このままだと卒業したら、永遠に縁が切れちゃう」
「けど、恭介くんはこんなにも、あなたを傷付けたんでしょ?」
「憎い。憎いよ。でも、愛しているんだ。また声が聞きたい。それだけでいいんだ。ねぇ、姉さん。どうしたらいいのかな?」
「愛を与えなさい」
「けど、もう会ってくれないんだよ。連絡すらまともにできない。それなのに、どうやって与えろっていうの?」
「恭介くんを笑顔にするために、あなたが今、できることをしなさい。いつ、何をした時、彼はよろこんだ?」
恭介の笑顔なんて、この一ヶ月以上、全然見ていない。最後に見たのはいつだっただろう。オレは自分の記憶をたどる。告白してから、あいつの笑顔はどこか作り物だったような気がする。だとしたら、その前。そうだ。卒業前に二人で旅行しようという話をして、写真を見せた時には、本当に楽しそうだった。あれがあれば、二人の間に何のわだかまりもなかった頃へ戻れるかもしれない。とはいえ、前と同じ写真じゃあ、恭介も乗ってこないだろう。新しい写真じゃなくちゃいけない。あいつの興味を引くようなのが撮れれば、話のきっかけにもなる。それに写真を撮るくらいだったら、今でもできる。よし、やろう。
「ありがとう、姉さん。オレ、能登半島まで行ってくる」
オレは椅子から立ち、自分の部屋へ駆け上がった。
遠くで海鳥が鳴く声が聞こえる。強い海風が吹き付けてきて、オレが前へ進むのを阻んできた。踏み止まるために力を入れると、地面が崩れてバランスを失いそうになる。この辺りは足場が悪い。さっきから足を滑らせてばかりだ。病み上がりだからかもしれない。
だが、天気は晴れて絶好の写真日和だ。さっきから良い写真が撮れている。これを見たら、恭介も興味を持ってくれるかもしれない。わざわざ能登半島まで来た甲斐があったってものだ。姉さんには感謝しなくっちゃ。けど、部屋から戻ってお礼をしようとしたら、もういなくなっていた。わざわざあのためだけに帰って来てくれたのだろうか。姉さんには頭が上がらない。にしても、どうして姉さんは恭介の名前を知っていたのだろう。教えたことはないのに。母さんから聞いたのだろうか。
そういえば、母さんに無断で出掛けてしまったのは、大丈夫だっただろうか。とはいえ、母さんには説明しても、止められるに違いない。だから、他に選択肢はなかった。まあ、姉さんには行き先を言ったから、きっと大丈夫だろう。それでも怒られるだろうけど。お土産でも買って帰って、許してもらうしかない。
さて。さっき海鳥の声がした方へ目を向けると、対岸の崖に見慣れない綺麗な鳥がいた。カメラを向けたが、少し遠い。オレは身を乗り出す。もうちょっと、もうちょっとだ。よし、いいぞ。この構図。その時、鳥が動いた。オレは舌打ちをして、体勢を変える。
あっーー。
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