6.大学四年 七月 勇吾②

 ざわめくゼミの教室へオレは一歩足を踏み入れる。まるでオレなんていないかのように、誰とも目が合わない。誰かの話す声が耳に入ってくる。

「あれ、本当らしいよ。ヤバいよね」

 声の主は三年生の女子だった。何の話をしているのだろうか。まさかオレのこと? けど、それを問いただしてもムダだ。オレのことだったら、面と向かって正直に答えるとは思えない。関係ない話だったら、オレの秘密がバレるリスクを負うことになる。それにしても、一週間でどこまで話が広がってしまったのだろうか。手掛かりだけでもほしい。オレはクラス中の会話に耳をそばだてる。けど、当然同時に全ての話を聞く訳にはいかない。気になる単語が聞こえれば、そちらに意識が移ってしまうからだ。その間にも、どんどん会話は流れていってしまう。それは絶え間なく流れる水の中で、ひとつのガラス片を探すようなものだ。そんなこと、していられない。

 だとしたら、チェックすべきは知っていそうな奴らだ。ちょっと声を上げたからと言って、恭介の言葉が聞こえたかは、わからない。別のことに気を取られていたら、聞き逃すこともあり得る。オレは教室を見渡す。柳沢と大久保は今日も一緒だ。柳沢と目が合った。しかし、すぐに視線をそらして、大久保に何か言う。大久保もオレのことを一瞥すると、すぐに下を向いて柳沢と小声で話はじめる。

 阿部はオレと目が合うと、じっと見つめてきた。だが、何を言う訳でもない。本田はオレと目線が合っても無視だ。普段だったら、誰か話し掛けてきても良さそうなものだ。けど、この腫れ物を触るような反応。この前の話は全員に聞かれていたと思った方が良さそうだ。

 恭介の姿は見えない。まだ、来ていないのだろうか。あいつにメッセージを送っても、ほとんど返事がない。本当はすぐにでも実家に押しかけて、直接話をしたい。だが、この前の反応から考えれば、待ち伏せするのは得策ではないだろう。必ず会えるゼミだったら、自然に話せるかもしれない。そう思って、今日まで我慢して待った。できれば恭介の隣に座りたい。オレは立ったまま、廊下の方をじっと見つめた。教室の前にあるドアが音を立てて開く。けれども、入って来たのは堀田教授だった。オレは慌てて、席へ座る。

 逃げられた。

 恭介はオレと会うのも嫌だっていうのか。いや、そうとも限らない。体調を崩して、授業に来られないということも考えられる。もし、そうならお見舞いにでも行った方がいい。辛い時こそ、その関係の真価が問われる時だ。きっとよろこんでくれるだろう。よし、授業が終わったら、すぐに行った方がいいな。そうだ。何かお土産も買っていこう。病気の時だったら、どんなものがいいだろうか。オレは授業そっちのけで考えはじめた。

 終業のチャイムが鳴る。さて、考えたプランをすぐに実行しなくっちゃ。席を立ち上がろうとしたら、オレを呼び止める声がした。柳沢だ。

「真鍋、ちょっといいかな?」

「ん。オレ、ちょっと急いでて」

「ごめん、新井の話なんだけど」

「えっ、恭介のこと? お前に連絡が入ってるってことは、やっぱり何かあったのか」

「うん。落ち着いて話を聞いて欲しいんだ。いいかな」

「わかった」

「実は、新井からお願いされていることがあるんだ。お前との話し合いの間に入ってほしいって」

「へ?」

「先週の話について。って言えば、わかるよね」

「で、なんでお前が間に入る必要があるんだ?」

「新井はお前と落ち着いて話をしたいんだって。第三者がいた方が、お互いにヒートアップしなくていいだろ」

「お前は第三者なのか?」

「どうかな。けど、あの話を知らない人間を間に立てる訳にはいかないだろ。あの日残っていた四人の中で、新井は僕が適任だって思ったんだと思う」

 柳沢の言葉から判断すると、少なくともあの場にいた四人は、あの事を認識しているってことだ。柳沢の口ぶりからすれば、こいつは秘密にした方が良いと思っているらしい。けど、こいつには恭介が「オレが変になった」って言っているのを教えてくれた、という前科がある。間に入るふりをして、二人でオレを丸めこもうとしているかもしれない。

「そっか。けど、オレは恭介と二人で話がしたい」

「ん、でもさ。新井の気持ちもあるから。それに僕も一対一じゃない方が良いと思う」

「はぁ、なんでお前がそんなこと言うの?」

「真鍋も落ち着いた方がいいよ」

「意味わかんないんだけど」

「いや。真鍋、新井にメッセージ送りまくってるじゃん。ちょっとやり過ぎだよ」

「オレはこっちの気持ちを恭介に知って欲しくて。ちょっと多かったかもしれないけど、言うほどじゃない」

「僕も見せてもらったけど、『言うほどじゃない』とは思えないかな」

 オレの頭が真っ白になる。

 なんてことだ。他人が見ることを前提としていないやり取りを許可なく他人に見せるだなんて。ありえない。オレの気持ちを暴露した癖に、それだけじゃ足りないらしい。送ったメッセージの中には、オレと恭介の間だけに止めて欲しい内容だってあった。一人に見せたら、他の人間にも見せる。見た奴らの中には更に別の奴らへ広げていく人間もいるだろう。その過程でネット上に、ばらまかれてしまう危険性は高い。挙げ句の果てには反論できない場所で、好き勝手なことを言われる。一生それに付きまとわれることになるかもしれない。オレは乾ききった口から、なんとか声を絞り出す。

「お前、見たのか?」

「間に立ってほしいって言われた以上、ある程度は確認しなくちゃいけないから。新井、びびってたぞ。だから、今日も来れないって。けど、話をしたいって言っーー」

 柳沢は話し続けていたが、何を言っているのかオレの頭には、まったく入ってこなくなった。

 オレのことが怖くて、ゼミに来られない。柳沢は確かにそう言った。それって、嫌われたってこと? どうしよう。もし本心だったら、友だちですらいられない。オレが最も恐れていたことだ。何がいけなかったのだろう。メッセージを送り過ぎたこと? オレが恭介の家へ勝手に行ったこと? オレが告白したこと? でも、オレにだって言い分はある。メッセージを送ったのは、オレの本心を知って欲しかったから。あいつの家へ行ったのは、直接会ってきちんと話をしなくちゃ、お互いの誤解が解けないと思ったからだ。告白したのは、抑えられないくらい好きだったから。もしかして、オレが恭介を好きだっていうこと自体が罪だっていうのか。確かにオレはゲイの癖に、そうじゃない人間を好きになった。違う世界に生きている相手に恋焦がれることは、昔話でも語られる禁忌だ。けど、理解があるようなことを言っていたじゃないか。ドアが開いていると思ったから、入っただけだ。しかし、実際には入ったら追い出された。何でだ。悪いのは騙した方じゃないのか。でも、何を言ったところで、恭介はオレに会いたくないって思っているみたいだ。オレはどうしたらいい? ドアを叩いちゃいけないっていうなら、恭介が自分から出てくるまで、オレはいつまでも待つしかない。でも、それはいつのことなのだろう。刑期がいつ明けるかもわからないまま、日々を生きていかなくちゃいけない。それはきっと地獄にいるような苦しみだ。だって、今ですらこんなにも辛いのだから。けど、耐えきったらオレを愛してくれるのだろうか。いや、そんな保証なんてどこにもない。これまでだって、オレの望みが叶えられたことなんて、ないのだから。

 誰かがオレの名前を呼ぶ。誰だ? 顔を上げると、そこにいたのは母さんだった。オレの肩を揺すっている。

「勇吾。あなた、大丈夫?」

「ああ、母さん。オレは平気だよ」

「本当に? さっきから返事もしなかったから。母さん、心配で」

「ごめん。ちょっと考えごとをしてて」

「そう。でも、顔が真っ白。具合悪いんじゃない?」

 玄関にある鏡を見ると確かに真っ白な顔が写っていた。こんな顔をして、呼び掛けても応えないんじゃ、確かに心配される。にしても、知らないうちに家まで帰ってきていたみたいだ。オレは母さんに気付かれないよう、自分の身の回りをチェックした。とりあえず、なくしたものはなさそうだ。

「自分じゃ自覚ないけど」

「そんなこと言って。何かあったらじゃ、遅いんだから。ちょっと身体を暖めた方が良いかもしれない。温かいものを用意するから」

「大げさな。別にいいよ」

「そんなこと言わないの。お茶だけでもいいから、飲みなさい」

「わかった」

 靴を脱いで玄関に上がるとそのままダイニングへ連れていかれた。オレはその辺にあった椅子に座る。母さんが淹れてくれたお茶を一杯飲むと、張りつめていたものが和らいでいった。母さんはテーブルに身を乗り出して、オレに尋ねる。

「ちょっとは血の気が戻ってきたみたい。で、何があったの?」

 オレにはもう相談する人間が誰もいない。この際、聞いてくれるなら誰でもいいか。

「好きな人に嫌われた。どうしたらいいのか、全然わからなくて」

「まあ。勇吾からそんな話を聞けるなんて思わなかった。あなた、女の子の話なんて全然しないから」

「ああ」

「勇吾は優し過ぎるの。そこが良いところでもあるけど。女の子はね、一回くらいじゃ諦めちゃダメよ」

 母さんの的外れなアドバイスにイラッとした。今、そんな茶番劇を演じる気には到底なれない。

「いや、違うんだ」

「何が?」

「女の子じゃない」

「えっ?」

「男なんだ。相手は」

「ああ、お友だちだったのね」

「そうじゃない。相手は男。オレはゲイなんだ」

「は?」

 母さんはオレの茶碗を取って、飲もうとした。途中で間違えたのに気がついたのだろう。慌てて、自分のを取ると一口飲んだ。

「あら、そうだったの。まあ、あなたも若いから。ちなみに、どういう人なの?」

「新井。知ってるよね。ゼミで一緒の」

「ああ、よく泊まりに行ってる。ってーー」

 母さんが想像しているであろうことは、明らかだ。オレはため息をつく。

「オレの片思いだから。ずっと友だちのフリをしていたんだ」

「そう、良かった」

 何が良かったんだか。息子が使用済みじゃなかったこと? さっぱりわからない。

「でも、この前告白したんだ。けど、断られた」

「残念ね。まあ、仕方ないじゃない。そのうち、勇吾にピッタリないい子が現れるって」

「結果は予想の範囲内だったから、いいんだ。問題はその後で。あいつ、オレが告白したことをゼミ生がいる前でバラしたんだ」

「なんなの、それ。勇吾の将来が台無しじゃない。そんな酷い子、許せない」

 オレの心臓が強く鼓動を打つのを感じる。オレは突き動かされるように立ち上がり、おもいっきりテーブルを叩いた。

「母さん。何、勝手なこと言ってんだよ」

「急にどうしたの、勇吾?」

「わかったような口きいて。恭介のこと、何も知らない癖に」

「わ、私はあなたの味方になりたいと思って」

「何、それ。本気で言ってんの? オレが好きな人間を、自分の思い込みで貶してんじゃん。それが味方なの?」

「あなた、その子に傷つけられたんでしょ」

「そうだよ。許せない」

「だったら、酷い子じゃない」

「だから。恭介にそんなこと言うな」

 母さんは頭を抱えて、叫んだ。

「訳のわからないこと、言わないで。あなた、おかしくなってる。病院に行った方がいい」

 母さんは怯えた顔でオレのことを見ている。まるで得体のしれないバケモノにでも会ったみたいだ。

 そうか。オレは、バケモノになってしまったのか。

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