7.大学四年 九月

 地下鉄の階段を上がると、強い日差しが責め立てる。蝉の声は聞こえなくなったが、まだうだるような暑さだ。俺はスマートフォンで場所を確認しながら、今日の目的地である弁護士事務所へなんとかたどり着く。民事訴訟で真鍋の両親から、謝罪と損害賠償を求められたので、両親が探してきた人だ。今回は俺一人だけが呼ばれた。何を言われるのだろう。俺はドアを開ける。

 事務所の中には三~四人の男女がいた。手前のお姉さんに予約をしていることを告げると、俺は奥へ案内される。お姉さんが並んでいる木製のドアのひとつをノックすると、中から男の声がした。

「どうぞ」

 招きに応じて入ったら、メガネをかけた三十代くらいの男性がパソコンに何かを打ち込んでいた。男はこちらを見ると笑顔で立ち上がり、近づいてきた。

「ようこそ。弁護士の坂井誠二です」

 男が手を差し出してきたので、俺は握手した。

「はじめまして。新井恭介です」

「じゃあ、その席に座ってもらっていいかな?」

 俺は差し出された肘掛けのある椅子へ腰掛けた。椅子はクッションがきいていて、自然と力が抜ける。男は向かいの椅子へ座り、頭を下げた。

「じゃあ、よろしくお願いします」

「先生、お願いします」

「先生なんて止めて欲しいな。そんな柄じゃないから。そうだな、坂井さんって呼んでくれる?」

「わかりました、坂井さん」

 坂井さんは、にっこり微笑んだ。

「わざわざ一人でここまで来てくれて、ありがとう」

「いえ。でも、両親は一緒じゃなくて良かったんですか」

「確かに依頼はご両親から受けている。けど、当事者は新井くんだからね。君自身の言葉を聞きたくて」

 なるほど。どうやら、俺の話を聞く姿勢はあるみたいだ。坂井さんは言葉を続ける。

「それに一人の方が話しやすいこともあるだろうから」

 後ろでドアをノックする音がして、さっきのお姉さんが入って来た。彼女は手に持ったお盆から、ガラスの器を俺たちの前に下ろす。むぎ茶のようだ。お姉さんが部屋を出て行くと、坂井さんは俺にお茶を勧めて、再び話を始めた。

「さて。ご両親から事前に聞いてはいるけど、改めて状況を説明できるかな?」

「はい。同じゼミだった友だちが死んで。自殺だか、事故だかわからないんですけど。俺のせいなんです」

「どうしてそう思うんだい?」

「俺。そいつ、真鍋に告白されたんです。でも、受け入れられなくて」

「それは仕方ないよね。恋愛はお互いの気持ちが合わないと、上手くいかないものでしょ」

「そうなんですけど。それだけじゃなくて。俺、みんなの前で言っちゃったんです。そいつがゲイだってこと」

「そっか」

「そしたら、そいつが精神的におかしくなって。で、死んだ。だから、俺に責任があるんです」

「お話をしてくれてありがとう。辛かっただろ」

「はい。俺のせいだと思ったら、寝れなくて。どうすれば良かったのかって、いつも考えちゃうんです。でも、わからなくて」

 坂井さんはうなずきながら、俺の話を聞いてくれた。声のトーンが一定だからだろうか。冷静にこちらの言い分を受け止めてくれている気がする。

「いっぱい話をして、疲れたでしょ。むぎ茶でも飲んで」

 俺は器を手に取り、飲んだ。ひんやりと冷たい液体が心地いい。思わず、ぷはーっと息を吐き出してしまった。恥ずかしい。けど、坂井さんは気付かなかったみたいだ。指であごを摘まんで、ぶつぶつ何か言っている。口の動きが止まり、むぎ茶を一口飲むと俺のことを見た。

「ひとつ、質問をしても良いかな」

「はい」

「新井くんは告白してきた真鍋くんがゲイだってことをどうして人に言っちゃったんだい?」

「えっ、えーと。そのーー」

 変。差別的。人でなし。自意識過剰。馬鹿馬鹿しい。俺を責める誰かの言葉が、鼻で笑う言葉が、頭を満たして、考えを言葉にするのを邪魔する。

「言いにくかったら、言わなくてもいい。けど、私には守秘義務があるからね。新井くんの許可なく、誰かに言ったりは、しないよ」

 言わなくてもいいんだ。そう思ったら、急に心が軽くなる。けど、坂井さんがわざわざ質問してきたってことは、何か意味があるのだと思う。にもかかわらず、正直に言わなくていいのだろうか。

 でも、俺の本心を聞いて、坂井さんはどう思う? 男の癖に。おかしい。間違っている。そんな風に思われたら、どうしよう。リベラルそうな柳沢にだって、流されたんだ。坂井さんも俺の苦痛をわかってくれないかもしれない。大体「言わなくていい」って言ってくれているのだ。リスクを取る必要はない。

 けど。本当に良いのか。今を逃せば、この胸の中にある思いは、一生外に出すことができなくなってしまうかもしれない。坂井さんは仕事で俺の話を聞いてくれている。変だと思っても、露骨な態度は取らないんじゃないか。それに訴訟が終わってしまえば、坂井さんとの関係は途切れる。正直に言わないことが、弁護に影響したら。

 坂井さんは黙って俺のことを見つめている。何か言わなくちゃ。気持ちはあるが、口はうまく動かない。誤魔化しの言い訳も、正直な言葉も、音になる前に舌が空回りする。

 どれくらい時間が経っただろう。とうとう、坂井さんの口が開いた。

「じゃあーー」

「待ってください。話します。今日は、そのために来たんですから。耐えられなかったんです。あいつに『男』として見られるのが」

 坂井さんはメガネを掛けなおす。

「もう少し詳しく聞いても良いかな」

「告白されたこと自体は良かったんです。でも、その後。急に手を握ってきたり、全然関係ない会に参加しようとしてきたり、勝手に家まで来たり。俺、怖くて」

「彼には『怖い』って伝えなかったの?」

「俺、男だから。抵抗しようと思えばできるのに『怖い』だなんて、変じゃないですか。友だちに相談したこともあるんです。けど『気にし過ぎだ』って言われて」

「ふぅん。ちなみに、相談した時点で、そのお友だちには『真鍋くんがゲイだ』ってことは言っていたのかな」

「いいえ」

 俺の返事を聞くと坂井さんは前のめりになって、手を組んだ。視点はテーブルの上あたりを眺めている。何か言っているようだが、よく聞こえない。俺の発言をどう思ったのだろう。やっぱり間違っていた? それともーー。

 空を舞っていた視線が止まり、俺の瞳を見つめる。

「オッケー。ひとつ、良いかな」

「はい」

「状況を整理するためには、一度『真鍋くんがゲイだ』ってことを忘れた方が良いと思うんだ」

「どういうことですか」

「たとえばの話だけど。新井くんが女の子だった場合、今の話をどう評価できるのか」

 何が言いたいのだろう。俺が女だったら、だなんて現実的じゃない。そんな仮定に何の意味があるんだ? クエスチョンマークが頭の中にいくつも並ぶ。

「具体的に当てはめた方が、わかると思う。怖いと思ったシーンをひとつひとつ確認してみようか。最初は急に手を握られた時。男性が急に女性の手を握ってきたとしたら、どうだろう」

「状況によるんじゃないですか」

「女性に恋愛感情がなかったら?」

「それはダメな気がします。でも、それは女性だからですよね」

「女性は抵抗できないけど、男性は抵抗できる?」

「そうです」

 当たり前じゃないか。女性と男性は力が違う。何を言っているんだろう。

「女性が性犯罪にあった時に『抵抗できたんじゃないか』って非難する人がいる。でも、実際にはできなかったから、犯罪が起きた。それは女性の落ち度?」

「違うと思います」

「だよね。男でも同じことが言えるんじゃない?」

「あっ」

 自分の中にあった何だかわからないものに、やっと名前がついたような気がした。

「つきまとう、勝手に家へ来る。真鍋くんの本当の意図はわからない。けど、こちらの許可を取らずにやった。君がそれを『怖い』って思ってもいいんだ」

 坂井さんが俺にティッシュボックスを差し出してきた。えっ、何で? その時、俺は自分の頬が濡れているのに気付いた。

「男性は性的嫌悪感をうまく処理できないことがある。でも、男性だって被害者になる。だから、『怖い』って感じてもいいんだよ」

「はい」

 俺は坂井さんからティッシュを受け取り、涙を拭う。だが、次から次へと流れてくる。鼻をかみ、出るものが何もなくなった頃、坂井さんは言った。

「私の仕事は依頼者の望みを叶えること。だから、君のために全力を尽くす。で、新井くんはこの後、どうしたい?」

「へ?」

「向こうの親御さんは、新井くんと秘密を聞いたクラスメイト四人に五千万円の賠償金と、謝罪を求めている。それにどう応えるか」

 俺は真鍋の秘密をバラしてしまった。あいつが精神的におかしくなった責任はある。だから、罰を受けるのは仕方ない。けど、他の四人も同罪だと言われるのは違う気がする。

「自分のしたことについては、償いたいです。けど、他の四人は俺の巻き添いなんで。とばっちりを受けないようにして欲しいです」

「ふぅん。相手とは争わずに和解したいってこと?」

「はい」

 坂井さんは俺の目をじっと見つめた。その視線は、まるでこちらの覚悟を試しているかのようだ。俺が目をそらさずにいると、坂井さんは口を開く。

「了解。じゃあ、向こう側にも、こちら側も、できる限り納得できる結論になるよう、話をさせてもらうね」

「よろしくお願いします」

 俺は深く頭を下げた。

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