5.大学四年 六月 恭介②
誰かがページをめくる。シャープペンシルが走った。周りの音が気になりはじめてきたってことは、集中力が切れてきた証拠だ。窓の外を見れば、空が茜色に染まっていた。腹がぐぅと音を立てる。今日はここまでにしておくか。俺は大学の自習室を出る。
さて、今日はどこへメシを食いに行こうか。大学の近くにある食堂が並ぶ商店街をぶらぶらする。人気のパスタ屋は既に満席になっていた。だったら、裏通りにある韓国料理屋にするか。俺が店のドアを開けたら、目の前に真鍋がいた。
えっ、待ち伏せされていた? いやいや、真鍋は先に店へ入っていたんだ。そんなこと、できる訳がない。自意識過剰になっているな、俺は。
真鍋は俺に向かって手を振った。
「おう、お疲れ」
「お疲れ。これから晩メシ?」
「ああ。今から家まで帰って食べたら、遅くなるから。こっちで食べて行こうかなって」
「そっか」
話をしていたら、店のおばちゃんが来て二人用の席に通された。テーブルがあまり大きくないので、お互いの足をうまく避けながら座る。俺は石焼ビビンバ、真鍋はよくわからない名前の料理をたのんだ。俺は真鍋に尋ねる。
「お前がたのんだのって何?」
「韓国で有名な麺料理」
「ふぅん。何でそんなもん、知ってるんだ? お前、韓国好きなんだっけ」
「いや。この前観た韓国映画に出てきてて。うまそうだったから」
「へぇ。何て題名?」
真鍋は作品の題名と、話のあらすじを教えてくれた。
「ちょうど駅の近くにあるミニシアターで上映してる。観て損はないよ」
「サンキュ」
話をしているうちに料理が運ばれてきた。真鍋のお碗からは、食欲のそそられる香りがしている。
「確かにうまそうじゃん」
「だろ。良かったら、恭介も食う?」
「えっ、いいの?」
「もちろん。けど、オレにもお前の石焼ビビンバくれ」
「はは。じゃあ、トレードだ」
俺たちは食事をしながら、真鍋が教えてくれた映画の話をした。なんだ、いつも通りじゃん。意識し過ぎた俺がバカみたいだ。
食事が終わると、おばちゃんがとうもろこし茶を入れてくれた。ほんのり甘くて、香ばしい口当たりだ。ふぅっと息をつく。
「あぁ、うまかった」
「だね」
「そういえば、来週のゼミの報告。準備したか」
「まぁ。けど、オレも恭介と同じ班が良かった」
「柳沢は頼りになるもんな。けど、そっちも本田がいるだろ。あいつもすごいじゃん」
真鍋は嫌そうな顔をする。
「本田ね。最悪だよ」
「何でそこまで嫌うんだよ?」
「本田の差別的発言、知ってるだろ」
「まあな。でも、悪いヤツじゃない」
「知ってるけどさ。自分の同類を攻撃するようなヤツとは仲良くできない」
言われてみれば、本田のゲイに対する発言は、当事者じゃない俺が聞いても「言い過ぎだ」と思う時がある。直接自分に向けられた言葉ではなくても、真鍋が不快感を覚えるのは当然だ。とはいえ、真鍋も表立っては抗議しにくいのだろう。
「そうだな。今度本田がそういうことを言ってたら、俺からちょっと注意しとく」
「えっ、いいの? ありがとう」
「あいつもバカじゃないから、話せばわかるだろ」
「恭介、すごいな」
真鍋はうれしそうな顔で俺のことを見つめた。
「オレ。本当の自分のことを言ったの、恭介が初めてなんだよね」
「そうなんだ」
「その相手がお前で、本当に良かった」
机の下にある俺の手に何かが触れた。真鍋の手だ。少し湿り気がある。緊張して汗ばんでいるのだろうか。ゆっくりと慈しむように俺の手を撫でる。えっ? これはどういう意味なのだろうか。信頼? それとも、もっと別の意味があるのだろうか。いずれにしても、はね除けたら真鍋は傷付くだろう。でも、なされるがままにしても、いけない気がする。ちょうど店も混んできた。俺は真鍋に告げる。
「そろそろ出よっか」
外に出ると、あたりはすっかり暗くなっていた。俺たちは電車の駅へ向かって歩いていく。夜遊びしたい奴らは繁華街の方へ行ってしまったのだろう。人通りはない。
にしても、さっきから時々、真鍋と身体が触れる。あっ、またぶつかった。なんだかいつもより身体の距離が近いんじゃないか。女の子だったらうれしいが、生憎こいつは男だ。っていうか、このままで大丈夫なのだろうか。けど、真鍋は何事もないかのように前を向いている。俺の勘違いだったら、こいつに気まずい思いをさせてしまう。それに俺が妙に真鍋のことを意識してしまっているのが伝わるのも嫌だ。そんなことを考えているうちに、俺たちは大通りに着いた。目の前の道路を車がひっきりなしに通り過ぎていく。そろそろ駅だ。真鍋は俺の方に振り向いた。
「そういえば『一緒に行こう』って言ってた旅行の件、もうちょっと話を詰めようよ。なんなら、これから恭介の家に行って、この前の続きをする?」
俺の頭に警告音が鳴りはじめた。ヤバい。男女だったら、関係が深まってしまう可能性がある展開だ。でも、俺の自意識過剰だったら? いや、そんなことを言って、何かあってからじゃ遅い。話は別の日でもできる。何か言い訳をしなくちゃ。っていうか、そもそも真鍋と二人で旅行へ行くこと自体、大丈夫なのだろうか。自分に対して恋愛感情を持った相手と二人っきり。不慮の事故が起きてしまうかもしれない。行ってから雲行きが怪しくなっても、急に「帰ろう」なんて言えない。でも、真鍋は旅行のことを一生懸命に考えてくれていた。断ったら、絶対に悲しむ。そうは言ってもーー。俺は覚悟を決める。
「ゴメン、あれ行けなくなった」
「えっ? 何でだよ」
真鍋は瞳を大きく見開いて、俺のことを見つめた。
「実は急な出費で、金がなくなっちゃって。旅費が貯められそうもないんだ」
「なんだよ、それ。だったら、オレが貸す」
「そんな訳いかないだろ」
「別にいいよ」
「俺が嫌なの。お前とはイーブンな関係でいたいんだ」
「でも。オレ、楽しみにしてたんだけど」
予想した通り、真鍋は楽しみにしていた遠足が中止になった小学生みたいな顔で下を向いている。ああ、ゴメン。全部俺のせいだ。急に罪悪感が俺に襲いかかってくる。どうしよう。何かフォローしなくちゃ。
「ゼミのみんなで行く卒業旅行の方は、なんとかなりそうだから。そっちでその分、楽しもう。なんだったら、途中二人で抜けて、どっか行くか?」
「うん。わかった」
真鍋の顔が少し緩む。よし、フォローは成功。そうこうしているうちに、もう駅だ。
「じゃあ、またな」
「おう」
真鍋は俺に手を振ると、そのまま人混みの中へ消えていった。
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