第16話 いろんな意味で告白 2

 玲花は大きく深呼吸し、彼の鼻をつまみ、自分の唇と彼の唇を合わせ、ゆっくり彼の肺に空気を送り込む。そして心臓マッサージを行う。はっと、彼の胸にあった手術跡のことを思い出す。もしかしたら心臓マッサージは彼にダメージを与えるかも知れない。それでもやらないという選択肢は玲花にはない。


 数回、胸の辺りを圧迫し、マッサージし、また唇を合わせる。感慨も何もない。必死だと自分で分かった。ただ、ロマンチックさの欠片もないと改めて思う。ただただ、意識を取り戻して欲しかった。不安をどこか遠くへ追いやって、救命を完遂させるんだと心の中で言葉にし続けた。


 人工呼吸と心臓マッサージを10回ほども繰り返した頃、坂崎がぶっと肺の奥から空気を吐き出した。一瞬、玲花が心臓マッサージを止めると彼が声を発した。


「酸素――酸素缶が、Dバッグに入ってる……」


「酸素缶だね!」


 駅伝なんかでゴール後に倒れ込んだ選手に使うアレだと玲花はすぐに思い至る。坂崎のDバッグの中にそれを見つけ、マスクをガス缶に装着し、坂崎の口と鼻の周りに隙間ができないよう確認しながら当てる。酸素を吸入させると少しずつ坂崎の顔色が戻っていく。唇と爪の紫がややピンクに戻ったようだった。


 呼吸が安定し、坂崎が酸素のガス缶を離すよう、ジェスチャーした。


「またなるかもしれない。もったいないから」


「良かった!」


 玲花は目頭が熱くなるのがわかった。そしてすぐに涙が頬に伝わった。


「嬉しくて、安心しても、涙って、出るんだ……」


 玲花は坂崎をぎゅっと抱きしめる。


 こんなにセンパイと密接するのは体育祭のときに抱きかかえて以来だった。


「ごめん」


「謝る必要なんかないよ」


「最初から説明しておけば心配させなくて済んだ。だから、ごめん」


 坂崎の体温が心地よかった。彼の匂いが好ましいものに思えた。


「いいよ。だっで、今、話ぜでるもん」


 鼻水で鼻が詰まって濁音になってしまう。


「涙拭きなよ」


「まだいい」


 坂崎の指が玲花の頬を拭った。


「泣いてる君を見たくないもの」


「うれじ泣ぎだがらいい」


 坂崎は玲花の頭を優しく撫でた。


 久しぶりに彼に頭を撫でられて、玲花はうれしさでいっぱいになり、不安で押しつぶされそうだった時間が吹き飛んでしまったかのようだった。


「命、助けられちゃったな」


 坂崎は半身を起こそうとし、玲花は彼から抱える手を離した。


 坂崎はベンチに腰掛け、玲花を見つめた。


 玲花はハンカチで涙を拭き、ポケットティッシュで鼻水をかんだ。


「美人がだいなしだな――って僕のせいだ」


「化粧落ちちゃった」


「化粧していたんだ」


「高校生なら軽くしてますよう」


「君ほどかわいかったらいらないだろ」


「マナーですよ」


 玲花は泣きながら笑う。


 坂崎の唇も、爪も元の色を取り戻していた。


「ああ……楽になった」


「本当に良かった」


 玲花はぴったりくっつくようにして彼の隣に座った。


「少し、休む」


「十分、休んで。本当は今すぐ救急車を呼びたい」


「それはまだ大丈夫だ」


 坂崎は玲花の顔を見た。自分を安心させようとしているに違いなかった。もしそうなら彼の気持ちを尊重したいと玲花は思う。


「説明して、くれる?」


 坂崎は悲しそうな顔をした。


「うん。しないのは無理だね。隠し続けられるものなら、隠しておきたかった」


「私が、健康優良児でスポーツ万能だから? 比べられると思った?」


「ううん」


 坂崎は目を閉じて首を横に振った。


「君が好きだから」


 玲花の時が止まった。


 周囲の雑音が消え、視界が狭まり、坂崎のことしか見えなくなった。


「最初は、すごいかわいい子といっしょにいられるだけで、嬉しかった。SSR級のイベントがきたと思って、すごく楽しかったし、君が来てくれるのが待ち遠しかった。それだけでもう十分だと思った。でも、違った。お稲荷様の石の狐をかわいいって連呼しているとき、この子は外見だけじゃなくって中身も本当にかわいいんだって分かったとき、もう、恋に落ちてた。自分がチョロいって言っていたのはそういう意味」


「そう――だったんだ」


 玲花はそう答えるのが精いっぱいだった。


 自分は、いつだったのだろうかと思い返す。


「面白いことは一緒に探してあげられるって言ってくれたとき――もう出会った頃からセンパイのこと、好きだったんだ。今なら、わかる」


「僕の方が遅かったなんて、驚きだ」


 坂崎は微笑む。


「そんなの、今更どうでもいいです。だって、私たち、両思いなんですから」


 玲花は自分が発した言葉を心の中でかみしめる。そうだ。両思いなのだ。


「ありがとう――僕は先天性の心疾患があってね。小さい頃から何度も入院して、手術した。オンライン授業がなかったらこの歳で高2でいられなかったくらいにね」


 それはチアノーゼと胸の手術跡で玲花もなんとなく察していた。しかし直接、本人から聞くのと聞かないのでは天と地の差だ。ショックが大きい。後頭部をおもちゃのソフトなバットで殴られたような衝撃がある。


「1万人に1人の病気だけど、今は医学が発達して95%の人が成人できるくらいの心疾患なんだ。大丈夫。僕は死んだりしない。無理しなければね」


「ポタリングは平気だったじゃないですか。海水浴で自転車2人乗りしても大丈夫だったじゃないですか」


「発作が起きるかどうかは疲れとかバイオリズムとかあって、いつ起きるかなんて予想できないんだ」


「2人乗りなんてせがまなきゃよかった」


「あれは、楽しかった」


 そういう坂崎の顔は朗らかだった。


「僕も普通の高校生になれた気がした」


「死んじゃ嫌です」


 玲花は無心で呟く。


「死んじゃ嫌です」


 同じ言葉を繰り返す。


「だから、大丈夫だって。ほとんどの人は死なない病気なんだよ」


「でも5%も死んじゃうなんて。その5%にセンパイが入らない保証なんてどこにもないんでしょう?」


「そうならないように今度、入院してまた手術するんだ。来月だから、話さなくても済むかなって思っていたし」


 坂崎は苦い顔をする。


「でも、絶対に無理だったね」


「旅行に行くとか嘘ついてたでしょう?」


「たぶん」


「私、絶対に、嘘だって分かる自信ある」


 くっくっくと坂崎はこらえきれず笑いをこぼした。


「旅先の画像送れとか言ってる。送られなかったら浮気疑う」


「いや、今回の件がなかったら僕、告白とかしていないし。そうしたら浮気とかないし」


「私の方から告白していたかもしれないじゃないですか」


「そうだね――どう答えていたか、わからないけど」


 やっぱり、彼の身体には爆弾が埋まっているのだろう。いつか同じように発作が起きて、命を落とさないとも限らないくらいには。玲花はその言葉をそう捉える。


 玲花はまっすぐ坂崎の瞳を見つめて言う。


「まだ言えていなかったから、言います。大好きです。本当に大好きです」


 言わなければ必ず後悔するはずだと確信できた。


 坂崎は照れて照れまくって、さっきのチアノーゼが嘘のように真っ赤になった。


「両思いだって言ってくれたから分かっていたけど、そんな風に言葉にしてもらえるなんて破壊力が段違いです」


 そう言って彼が胸に手を押さえるものだから、玲花は気が気でなくなる。これは自分が人工呼吸をしたなんて言うタイミングではない。ショックでまたチアノーゼになったら大変だ。彼に人工呼吸の記憶があるのならその限りではないが。


「言いたいことはまだいっぱいありますが、今はセンパイが無事に下山することを最優先にします。まだ休んでいてください」


 坂崎は玲花の強い語気に圧されるように頷いた。



 

 ゆっくり休んだ後、2人は下山を始める。まずは階段を、様子を見ながら、一段一段下り、それからベンチを見つけてはまた休み、2時間近くかけて駐輪場まで戻ってきた。まだ心配だったが、せっかくなので野鳥の資料館に立ち寄った。本来なら帰る頃にはまだ開館しているか怪しかったのだが、もう9時はとうに回っていた。


 ジオラマやパネル展示を見て、野鳥関係の本をちらりと読んだ。


 坂崎の異常は見られず、本人が大丈夫というので暑さが増す前に帰路についた。後ろ側のペダルは外し、坂崎にはペダルを漕がせなかった。輪行用にワンタッチで取り外しできるペダルに替えられていたので助かった。しかしそれでも玲花は心配でならなかったので、今日は坂崎を家まで直接送ることにした。本人は嫌がっていたが、1人で自転車で帰して何かあったら後悔するからと説得し、呑ませた。


 坂崎の家は学校から2キロほど北に行ったところにある大きな農家で、この辺りでは飛び抜けて立派な家だった。家の人が出てくる様子がなかったので、玲花はじーっと、彼が家の中に入るのを見届けてから去った。


 告白されて両思いになったばかりなのに、なにやらそれっぽい雰囲気になることもなく、坂崎も別れ際は謝るばかりだった。


 とはいえ、無事、彼を送り届けることができてホッとした。


 そして唇に指をあて、考えた。


「キス、しちゃったってことでカウントするかな」


 もちろんファーストキスだ。その後、10回ほど続けてしまったが。


 シチュエーションとしては最悪だが、大好きなセンパイの命を救えたと思えば後悔は全くない。ただ、場所だけはよかったかもしれない。


 玲花は心を躍らせながら、T20号のペダルを踏み込んだのだった。

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