第14話 明日はなにしよう

 海の水は、夏なのに透明度が高い。写真を撮ったら、誰も東京湾だなんて思わないだろう。そんな透明度の海には、多くの生き物たちが見える。


 半径15メートル以内に誰もいないから大はしゃぎしても誰に迷惑も掛からない。


 腰の深さまで行き、水をお互いに掛け合う。


 もう少し深いところまで行き、平泳ぎしてみる。


 事前に調べたとおり、流れが速い。あまり泳がない方が良さそうだ。


 坂崎は足が着かないところまではこない。泳ぎは得意ではないのだろう。


 少し離れただけなのに波の音と風の音で、坂崎が何かを言っているのに聞こえない。


 海の底をつま先でトントンとやって、坂崎の方にいく。


「何か言いました?」


「楽しいって言ったんだ。生まれて初めてなんだ、海」


「なんでもっと早く言わないんですか!」


「女の子と来たのも、もちろん初めてだよ」


 太田先輩とは来るタイミングではなかったのか、と頭の中に不安がよぎる。


「私も男の人と2人で海に来るの初めてですよ」


 言っていて、照れた。照れたが、異性を意識させたかった。


「中学の時はプールの授業で、クラスの男子は君の水着姿をいつも拝んでいたのか。なんて羨ましいんだ!」


「でもこうやって、水の中で手をつないだり出来なかったんですから、センパイの方が優位です」


 玲花は坂崎の両手をとり、促す。


「少し練習しましょう」


「泳げないの分かる?」


「バタ足だけでも覚えましょう」


「厳しいなあ」


 坂崎は苦笑いした。


 しばらくバタ足の練習をして一休みする。


 スマホを取り出して、今のうちに自撮りで記念写真を撮る。遊んでいると2人で写真を撮っている暇はないのだ。そしてこの一休みの間にお菓子を食べて水分補給もする。


「楽しいなあ。時が止まればいいのになあ」


 坂崎がそこまで言ってくれるのがまた嬉しい。


「センパイの子供時代の話、今度、聞かせてくださいよ。どんな子供だったのか、どんな大人になりたかったのか」


「いきなりなに?」


「そういうの、何も聞いたことがなかったなと思って。今じゃなくていいんですよ。ううん。今じゃない方がいい。今は、海水浴を楽しむのに全力でいきたいから」


「君らしい。僕の子供の頃の話か。機会があったら。たぶん、面白いことにはならない」


「それでもいいんです。どうしてセンパイが今のセンパイになったのか知りたいだけでなんですから」


「君が今の君になった理由も聞きたいけどね。どうしてこんなに人見知りするんだろうね。その割にはこの前のカフェのお姉さんとは饒舌に話せていたし」


「そんな難しいことでもないですよ。初恋の人がいたんです。私が小3で、彼は高校1年生で。ああ、私たちの先輩になるんですよ」


「やっぱり、桜井巡さんね……」


「知ってますね?」


「“剣聖”上泉の一番弟子でしょ。ウチの学校でインターハイのケイリンで優勝したのって入り口のトロフィー置き場に置いてある」


「そうなんです。そして小5のとき、ぽっと出の女子大生にかっさらわれて、ものすごいショックで……」


「おっぱいの大きい女性だった?」


「分かります?」


「君のトラウマになったわけだ。君の言動から見当はついていたけど」


「巡にはストレートに大アタックしていたんですけど、やっぱり10代の年齢差ってめちゃめちゃ大きいじゃないですか。7歳差って全然ダメで」


「男の側からすれば犯罪だ」


「気持ちを相手にぶつけることがダメなんじゃないかって、そのとき思ってしまったんでしょうね。それからはコミュ障ですよ。鉄仮面です。双子の性格の悪い方ですよ」


「ああ、それはどうしてそうなったのか、自覚はあったわけね。でも、楽しくなかった理由が分からなかったのは……」


「今なら分かりますよ。巡に恋しているときが、楽しくて楽しくて仕方がなかったんです。きっと。だからそれと比べたら、何も楽しくなかったんです。もちろん、なんでもそつなくこなせるのも理由の一つだと思います。だから、恋に代わるものが今までなかったんです。思っていたより自分は恋愛脳なんでしょうか?」


「でも、今は楽しい?」


 そうだ。これは、自分だってもう、彼のことを好きだと言っているも同然だ。聡いセンパイなら、この意味が分かっていないはずがない。


 玲花は小さく頷いた。


「楽しいですよう。悪いですか?!」


「ううん。ちっとも。だって僕も楽しいもの」


 その言葉を、玲花は告白も同然だと受け取った。


 嬉しくて、嬉しくて、心臓から全身に甘い熱い血液が流れ出した。


「あ、そうだ。膝枕券、今日、持ってきました?」


「財布にお守り代わりに入れてある」 


「いやだなあ。せっかくだから今日、使いましょうよ。レジャーシート広げて」


「ええっ、水着生足で??」


「実は綿棒を持ってきているんです。耳かきしてあげますよ」


 そのとき、他の海水浴客がベンチの前を通りかかり、2人は我に返った。


「あれ、玲花?」


「玲那姉――に俊くん」


「玲花さんじゃないですか。お隣は噂の仙人先輩ですね」


 膝枕券はまた今度になりそうだった。


 俊と玲那は連れだって海水浴に来ていたようだ。今まで出くわさなかったのは、別のビーチにいたからだろう。自分たちのように人気がないビーチを探しに来た可能性は十二分に考えられる。同じ日に同じようなことをしているのはさすがに双子である。玲那もワンピース水着で、それがふわふわフリルつきなのも同じだ。


「初めまして2年生の坂崎です」


 坂崎は俊に向き直って言った。


「1年生の高見沢です。あと兄弟子の桜井さんが揃えば、師匠が大笑いするんですが」


「え、なんで?」


 玲花は思わず俊に聞いてしまう。


「3人揃ったらTheアルフィーだって、ゲラゲラ笑ってましたから」


「なにそれ」


 玲花がスマホで調べるとTheアルフィーは70代の男性3人組のロックグループで、同じメンバーで半世紀以上やっているということが分かった。古い音楽が好きな父らしいネタである。


「それはアレだね、集まらないとならないね」


 坂崎は俊と拳を合わせて挨拶する。何か相通じるものがあったらしい。


「俊くん、もう少し奥まで行ってみる?」


「そうですね」


「ううん。私たちが手前のビーチの方に移るからいいよ。ここ、穴場でしょう? 穴場なら交代しないと独占はよくないよね」


 玲花がそう2人に言っている間、坂崎は玲那の水着姿をガン見していた。それに気づき、玲花は彼の後ろから両の手のひらで頭を挟みこみ、無理矢理横を向かせる。


「痛い痛い」


「人の姉をガン見しないでください」


「君と同じできれいだなあって思っていただけだよ」


「きれいだかわいいだ言えば許されるわけではないのです」


「反省します」


「余所見厳禁です」


 それを見ていた俊がため息をつく。


「羨ましい」


「え、なんで、俊くん」


 玲那が不思議そうに首を傾げて俊を見上げる。


「すごく仲がいい。さすが校内一のカップルと名高いだけのことはある」


「そっか……そうだね」


「い、いや、そういう意味じゃないんだよ、玲那さん」


 俊と玲那の間に不穏な空気が流れる。


「センパイ、退散しますよ」


「了解」


 不穏な空気を悪化させないためにも2人は荷物を慌てて持って、小さなビーチを後にした。森の中の道を荷物を抱えながら歩き、会話を続ける。


「お似合いの2人だね」


「私から見てもそうだけど――父も、たぶん、それを狙って連れてきたんだと思うんだ。ウチ、女の子2人だから。ども、俊くんは遠慮しているのよね。実績がないから。せめて巡みたいにインターハイで優勝できれば」


「そんなインターハイ優勝を簡単なことみたいに……」


「あ、そうか。そういう感覚、麻痺しているのよね、私も玲那姉も」


 父は現役にしてレジェンドになっている競輪選手である。玲花的には麻痺して仕方がないだろうくらいな気持ちだ。


「なんで君は彼になびかなかったの? 初恋の人のタイプじゃないの?」


「なんででしょうねえ。玲那姉に遠慮したわけではなくて、最初からピンとこなかったのですよ。不思議。あ、そういえば玲那姉には『初めまして』じゃないんだ。玲那姉も言ってなかったし。2人の絡み、見たことないんだけど」


「ご想像の通り、実は彼女があらかじめ僕のところに相談に来ていたんだ。知らない振りをしたけど、バレていたよね」 


「やっぱり。まあ、なんとなくですけど気づいてました。玲那姉には感謝です。しかし双子で同じもの食べているのにどうして胸の大きさに差があるのかな」


「いや、見たところ少しだよ」


「AとBの差は大きいのです」


「聞きたくなかった……」


 坂崎は目に手を当てた。


 森を抜け、手前の広いビーチに出る。そのビーチには家族連れがちらほらいる。


 玲那姉と俊くんは2人きりになりたかったのかな、と玲花には容易に想像がつく。自分たちは十分に2人きりを楽しめたので、もう玲那姉のターンでいいのだと思う。


 それから玲花と坂崎は広いビーチで海水浴を楽しみ、見える範囲でゴミ拾いをして、暗くなる前に沖ノ島から立ち去った。


「お腹減ったね~」


「いい運動になりましたね。ゴミも拾えてよかった」


「今度は森の中の探検をしよう」


「賛成です」


 自転車で2人乗りしながら海岸線の道を行く。


 今度は玲花が前に乗っている。これはいつもの感じだ。


 なぎさの駅に行き、びわソフトクリームを食べる。もうそれで、なぎさの駅は閉まってしまう時間だった。随分長く遊んでいたものだ。髪は海水でごわごわしていて早くシャワーを浴びたかった。


 坂崎とは館山駅で別れた。館山駅から自宅まではすぐだ。


「今日も楽しかったです」


 楽しいという言葉をなんの憂いもなく口に出せるのが楽だ。


「青春てんこ盛りありがとう。ふろしきいっぱいのイメージは間違ってなかった」


「だからそれはなし。センパイ――また明日」


「じゃあ、また明日」


 玲花は坂崎の自転車が小さくなり、角を曲がるまで見送った。


 家に戻ると玲那と俊はもうリビングでくつろいでいた。シャワーを取り合うことがなかったのは幸いだった。潮水を洗い流してすっきりするとちょうど夕食の時間だった。


 玲花は夕食の間、玲那と俊の様子を窺うが、いつもと変わらない。何事もないように家では振る舞っている。それは変わらないから、いい感じで関係修復できたのだろう。良かった。


 しかし坂崎がいうとおり、なぜ俊には反応しなかったのだろう。玲那は激しく反応したのに。そういえば、自分たちがおっぱいお化けと呼んでいた今の奥さんに出会った頃の巡も、同じような何かを彼女に感じていたのではと思える節がある。自分はセンパイに対してそれが発動したのかもなあ、と今更思う。


 今までの自分なら、肩を触られた時点で爆発していたに違いなかった。しかし、拒絶反応を抑えられたのは、今を予感していたからなのかも、しれない。


 明日は何しよう。


 そう思える自分を幸せだと思う。


 間違えた。


 玲花は心の中で訂正する。


 明日はセンパイと何しよう、だ。


 それはとっても幸せなことだ。


 だから、また明日、だ。


 玲花は海水浴の疲れからいつもよりずっと早く就寝した。


 いい夢が、海水浴の続きの夢が見られるはずだと確信して、玲花は眠りについた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る